俺がスカウトしてきた子が、アイドルを辞めるらしい
俺の名前は井鳥蓮太郎、アイドルのマネージャーをしている。
「アイドル、やめようと思うんだよね」
「マジか」
「マジマジ」
ある日の夕方。
ライブの後、一人楽屋に残っていた少女に言われた。
「ていうか、社長にもう言ってきた」
「ガチか」
「ガチガチのガチ」
「うわぁぁああああああああああ!! 嘘だろぉおおおおおおおおおおお!!」
俺は椅子に座ったまま、がくんがくんと身体を痙攣させた。
対面に座った少女は、その様子を呆れたように見ている。
青みがかった黒髪の彼女は、七黒夕陽という。
十七歳。
背は平均より少し高いくらい、スタイルのいい、ちょっとクールな感じの女の子。うちの事務所、『ゴールドプロダクション』に所属するアイドルだ。
「そういうの良いから」
「あっはい」
夕陽に言われ、俺はぎいとパイプ椅子に座り直す。
「もう少し詳しい話、聞かせてもらっていいか。グループの調子は上がって来てると思うが……」
「あー、確かに、最近人気出て来たよね、うち」
彼女の所属するアイドルグループ『Jewelry』は、下積み期間を経て、ようやく軌道に乗り始めた所だ。
「だからこそだよ。辞めるなら、タイミングは今しかない。そうでしょ」
夕陽はため息をついた。
「悪いけど、もう決めたことだから。これは相談じゃなくて、報告のつもり。私をアイドルにスカウトした貴方には、直接伝えておこうと思ったから。結局、辞めることにはなったけど……まぁ、それなりに感謝してるから」
夕陽はスカートから伸びた長い足を組み直す。
その後、ふっと笑って相好を崩した。
「ていうか、久しぶりだね、元気にしてた?」
たしかに俺が彼女の担当を外れてから、こうしてちゃんと顔を会わせるのは久々だ。
「最近、いつも忙しそうだったし。時間取って貰っちゃってごめんね」
「いや、お前の為ならいくらでも取るよ」
「……っ、そうなんだ」
アイドルの相談に応じるのは、マネージャーとして当然だ。
「……辞める理由を、聞いてもいいか?」
「それは……ごめん、言えない」
彼女は口をつぐんだ。
アイドルをすること、それ自体が嫌だったなんてのは、あり得ない。
俺がスカウトしてからしばらく、一緒に行動していた彼女の様子が、アイドルを楽しんでいなかったと言うのなら、俺はもう何も信じられない。それくらいには、彼女はアイドルとして天性のモノがあったと思う。
「家庭の事情か? アンチの迷惑行為か? それか、社長に何か言われたとか…」
「全部違う。まぁ、そんなに心配するような理由じゃないから、気にしないで」
アイドルを辞める理由として、よくあるものを挙げていく。あとは恋愛絡みのことも多いが……それは無いだろうと何となく予感がした。
夕陽の口調は軽やかで暗さを感じなかったが、しかしどこかそれ以上の追及を許さない響きがあった。
「……辞めた後のことは何か考えてるのか?」
「んー。特に考えてないけど、普通に高校生でもしようかな」
「……そうか」
かち、かちと時計の音が楽屋に響いた。
「あーあ。最初は、楽しかったんだけどな」
夕陽は遠くを見るような目をしていた。
「懐かしいな、もう二年になるのか」
俺が言うと、目の前の少女は、くす、と春のそよ風みたいに柔らかく笑った。
「あの時、最初ナンパだと思った。覚えてる? スカウトの時の言葉」
「「『君の笑顔が見たい。きっと、たくさんの人を幸せにする』」」
彼女のからかうような口調と、俺の声が重なった。彼女はパッと驚いたようにこちらを見た。
「っ。よく恥ずかし気もなくそんなこと言えるよね」
「別に、恥ずかしいことなんてないだろ? 事実なんだから」
「あぁ、そう……」
夕陽は照れたように視線を逸らした。それが少しおかしい、これくらいの言葉、彼女ならファンからいくらでも言われているだろうに。
「そ、それから! 半信半疑のままレッスン受けて、あれよあれよって間にライブに出ることになって。……楽しかったなぁ、初めてのライブ」
遠い場所を見るような彼女の瞳は、はっきり輝いていた。
「あの時感じたきらきらとドキドキが、ずっと頭から離れなかった。やっと私のやりたいこと、見つけられた! って思った」
いつしか夕陽は胸に手を当て、目を閉じていた。
そしてまるで大切な宝物に触れるみたいに、そっと囁く。
「……この人と一緒に、アイドルを続けていくんだって思った。もっとレッスンして、ライブをして、いつかトップアイドルにも、なんて思ってた」
「っ、俺だって――! ……いや、悪い。何でもない」
俺は言いかけて、慌てて口を閉じた。これは言っちゃいけない。口にしてしまえば、彼女を困らせるだけだ。
「……本当に、そう信じてた」
夕陽は何かを諦めるようにそっと目を伏せ、ゆるゆると首を振った。
長いまつ毛が、かすかに震えている。
「ありがとね。今まで」
見ているだけで、胸が苦しくなるような笑顔。
「楽しかった。貴方にアイドルになれるって言ってもらえて、嬉しかった」
「……おう、俺も楽しかった」
なんて、悲しいやり取りだろうか。
悲しくて美しくて――虚しいやり取りだろうか。
楽しかった。
綺麗な言葉だ。綺麗で綺麗で、虚しい言葉。
精一杯やったのだと言い訳するように、棺桶を飾るように、俺達は言葉を口にする。
いつもそうだ。そうやって、人生の中で俺たちは折り合いをつけるのだ。
「…………じゃあ、私行くね」
彼女が立ち上がりこちらに背を向け、楽屋の出口の方へと歩いていく。
俺はきつく唇を噛み、これで良かったのかと自問する。
やがて彼女が扉の前で立ち止まるまで、答えは出て来なかった。
「ありがとね、今まで」
最後にこちらを振り返った夕陽、泣きそうな顔で笑った瞬間、気づいた。
俺は彼女にこんな顔をさせるために、スカウトしたわけじゃなかったんだ。
俺が見たかったのは、ステージ上で大歓声の中、輝くように笑う彼女だった。
「待ってくれ」
俺は声を掛けていた。
覚悟は一瞬で決まった。あと必要なのは、思い切ること。
「少し、時間をくれ、……五分、いや、三分でいい」
ここで彼女を引き留めなければ、俺は一生後悔する。なんとなくそれが分かった。
怪訝そうな顔をした彼女の目の前で、背広のポケットからスマホを取り出して、コールする。
相手に繋がるまでの間に、思考は過去へと飛んでいた。
今までの人生で後悔したことはもちろん、いくつもある。
昔、好きだったアイドルが引退するまで、ライブに行けなかったこと。高校生の頃、本当は芸能界に進みたかったけど、親に言い出せず普通の大学を受験したこと。
そのあと未練たらしく芸能事務所に入って、いつか自分がスカウトしたアイドルをトップアイドルにすることを夢見て、彼女ならとスカウトしたアイドルと、会社に引き離されたこと。
『……何だ』
電話が繋がり、思考を中断する。
「……あっ、もしもし社長ですか? すみません。俺、今日で会社辞めます。はい、え? やだなぁ、今までずっと早く辞めろって仰ってたのは社長じゃないですか。なので辞めます今までどうもありがとうございました、んじゃ」
すらすらと言葉を並べる。
通話越しでも鼓膜が破けそうな社長の怒鳴り声を無視して通話を切ると、目の前には、滅多に見れない彼女の驚愕に染まった表情があった。
彼女に、ぐい、とネクタイごと胸倉を掴まれる。
「ちょっと、何してるの!? うちの社長に睨まれたら、この業界じゃやっていけないって、皆言ってるよ!? い、今すぐ、社長に連絡して、冗談だって」
「そんなの通じる人じゃないのは知ってるだろ」
「それでも!」
彼女は項垂れる。
……ほんとに、優しい奴だよ。
自分がもう辞めようって時に、他人のことをこれだけ心配出来るなんて。
俺は、胸元を掴む細い手を、そっと握った。
「……これから、別の事務所に行く。俺が昔世話になった人がやってる、小さなアイドル事務所だ。……お前も一緒に来てくれ」
その掴んだまま、頭を下げる。
「お前ともう一度、夢を見たい。……今度はもう二度と、手放さないから」
夕陽は目を見開いたが、その後そっと目を伏せ、ゆるゆると首を振った。
「……私じゃ、無理だよ。どうせまた、うまくいかない」
「違う! お前じゃなきゃダメだ。俺が人生賭けられると思えたのは、お前一人だけだ」
俺が言うと、彼女は驚いたようにびくっと体を震わせた。
「……そんな風に、思ってくれてるなら。じゃあどうして、私のマネージャーじゃなくなったの」
その声は震えていて、だからもしかしたら、彼女はそのことをずっと気にしていたのかもしれなかった。
でも、俺はその問いに答えることは出来ない。
せめて、頭を下げる。
「…………ごめん」
沈黙があった。しばらくして、彼女は再び口を開いた。
「……条件。貴方以外の人を、マネージャーにしないこと」
「ああ、約束する」
「現場に一緒に行くこと」
「約束する」
「週に二回はレッスンを見てくれること」
「約束する」
「用がなくても、毎日連絡すること」
「……約束する」
するとそこで彼女は、一度言葉を止めた。
そして、何故か急に目線を明後日の方向に向けた。
「……あのね、私、グループで周りに合わせるのも得意だけど、ソロならもっといい感じになるんじゃないかって自分では思ってるの。歌もダンスも、もっと自由にできると思うから。他にも、ドラマでもバラエティでも地方ロケでも、営業でもグラビアでもお仕事は何でもやるし、計算とか物覚えも早い方だから、事務作業の手伝いとかも出来ると思うし……」
突然、何の話をしているのだろう。自分のアピールポイント、だろうか。……彼女に頼んでいるのは、俺の方なのに?
そうして見ていると、いつも冷静な彼女にしては珍しく、頬が赤くなっていることに気づく。肌が白いから余計に目立つ。
……緊張しているのだろう。
それも当たり前だ、だってこれは、彼女の人生を揺るがす決断だ。
ひとつひとつと数えるように指を折っている。
「そうだ、YouTubeにギターの動画とか投稿して、そこそこ稼げてるんだよ、凄くない? あっ、勿論顔は隠してるから心配しないで」
そんな初めて聞く話も混ざってくる。
「他にも家事は一通りは出来るし、トラブルがあっても冷静に話し合いができる方だと思う、あとは……結構尽くすタイプだと思う」
少し、方向性が違う気もするが。黙って聞いておく。
「……だから、」
夕陽はそしてすい、と顔を上げた。ぶつかるのは吸い込まれそうなほど大きな瞳。
「お願いします。私も、もう一回、貴方とアイドルがやりたいです」
窓の外から差し込む、オレンジ色の光に包まれて。
俺たちはもう一度、相棒になった。
---
街の片隅にあるビルのエレベーターを昇る。
上がっていく数字を見つめながら、夕陽のことを考える。
何故、彼女はアイドルを辞めようとしていたのか。結局理由は話してくれなかった。
伝手を使って内緒で少し探っておこうと思う。
彼女の信頼を損ねる行為かもしれない。でも、彼女が困っているのなら、助けになりたい。それは、嘘偽りのない気持ちだった。
エレベーターが目的階に到着した。
室内からは既にシューズの擦れる音が聞こえる。伝えた時間はまだのはずだが……。
「おはよう、夕陽」
きぃとレッスン場の扉を開け、挨拶するも、
「……ここで、ターン。視線はこっち、足先は、うん。で次が……」
一人で踊っている夕陽の耳には届いていない様子。相変わらず、凄い集中力だ。
「ふぅ。……あ、マネージャー」
しばらくすると夕陽はこちらに気づいたようで、眼をぱちりと瞬かせた。
「いつ来たの? ごめん私、気づかなくて」
申し訳なさそうな顔で駆け寄ってきた夕陽に、大丈夫、と言いながらタオルと飲み物を渡す。
少し休憩を取った後、夕陽に確認を取るとこくん、と頷いた。
「じゃあ、とりあえずいくつか踊って見せるね」
今日の目的は彼女の実力を図ることだ。
自分の担当アイドルの実力を正確に把握するのは、マネージャーとして必要不可欠だが、俺は最近の彼女のことを余り知らない。上の命令で、『jewelry』のマネージャーは別の社員が担当していたからだ。
彼女のグループの持ち曲が流れだす。
一度目のサビが終わったあたりですぐに止めた。
「ストップストップ」
「何?」
「これ、グループでライブしてた時にも同じようにやってたのか?」
「えっと……」
ぴたりと夕陽の動きが止まる。沈黙。やはり違うか。
「マネージャーからあんまり目立つなって言われてた、から」
「……そいつ、誰か特定のメンバーを贔屓してたりした?」
「え、何でわかるの?」
なるほどね。
「立ち上がってどこ行くの?」
「ちょっと、『jewelry』のマネージャーをぶん殴ってこようと思って」
「待って待って待って! 別に気にしてないから!」
彼女に羽交い締めにされ、そこで衝動の波も一応収まったので、踏みとどまる。
一番イライラするんだよな、努力してる人間をコケにして、上手くやろうとする奴が。
中断していた曲を再開する。
今度は二回目のサビの部分で止めた。
「それ、センターの子の振り付けに歌じゃないか?」
「あ、うん。そうだよ?」
彼女はセンターではなかったはずだ。
「練習してたのか?」
「ううん。いつも隣で踊ってるから、なんとなく覚えてただけだけど。それがどうかした?」
「……」
試しに、スマホで適当なダンスの動画を見せてみる。
「これ、見たことあるか?」
「ないよ。へー、この人凄いねー。こうして、こうしたら良いのかな? うーん……」
すると完全ではないが、すぐに殆ど同じ動きを再現して見せた。
うん。
自分が凄いことをしてるって自覚がないんだろうな。
どう身体を動かせばいいか、感覚で分かっている。
元から、歌でもダンスでも、そつなくこなす子だと思っていたが……。
デビュー後の伸びを考えても、想定以上だな。
無論、アイドルには歌とダンスの技術以上に、必要なものがある。
魅せる力、ファンを惹きつける能力。
元々、彼女にはその素質を感じてスカウトしていたから、歌やダンスはこれから伸ばしていけばいいと思っていた。
だけどこれなら、予定よりもライブを早めにやってもいいかもな。レッスンを詰め込むより、営業やメディアの露出を増やしてから……。
今後の彼女のプロデュース計画を練り始める直前、慌てて今日これからの予定を思い出す。
「夕陽。午後からは宣材写真、撮りに行こう」
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宣材写真とは、アイドルを売り込むための写真のことだ。結局の所、この写真を見て判断されることも多いから、ここに力を入れるのはシンプルだが非常に重要な事だ。
「こちら、カメラマンの大島さん、それにヘアメイクの上田さん。二人とも、彼女はうちの事務所に所属する七黒夕陽だ」
よろしくお願いします、と夕陽が頭を下げると、髭面の男はわはは、と笑った。大島はこれでまだ意外と若いが、実力派のカメラマンだ。上田はニコニコと手を振った。
「えー、めっちゃ可愛い子じゃん。こんな子、あのゴールドプロダクションから引き抜いてくるなんて、井鳥も隅に置けないねー」
二人とも、既に何度か仕事を一緒にしたことがあり、信頼できる腕の持ち主だと知っている。だから今日も依頼したのだが、ちょっと余計な事を喋っている気がする。
大島はほう、と顎に手を遣る。
「彼女が、君が会う度に言ってた例の子か」
「ちょ、お前、マジふざけんなよ」
「え、なにそれ」
慌てて大島を黙らせようとしたが、既に夕陽の耳に届いてしまっていたようだ。
「彼にスカウトされたんだろ? 気だるげだけど、どこか特別な雰囲気を醸して、雨の日に傘をさして道に佇んでたんだろ?」
「……? えっと、よくわかんないですけど、スカウトされたのは確かです」
「ほらほらほらほら!」
「あーもうマジで大島は静かにしろ。違う子かもしれないだろ!」
「待って、他にもスカウトした子いるの?」
急に氷点下の瞳をした夕陽。え、何この子怖っ。
「や、いないけど……」
そっか、と呟いた時、夕陽の機嫌はすでに治っていた。
何だか分からないが嵐は去ったようだ。ほっとしていると、大島は夕陽に向けて言った。
「まぁ、こんなだけど、蓮太郎は信用出来るよ。ゴールドプロダクションで幾つものデカい企画を担当してて実力もあるし、評判も良い。こいつが担当してるからって理由で、仕事を受けてた人も多いって話だし」
「無駄話はその辺にしとけ、準備出来てるなら、とっとと仕事するぞ。上田、頼む」
「もう、照れちゃって。はーい。じゃ、夕陽ちゃんこっち来てねー」
上田に連れられた夕陽がヘアメイクを終えれば、いよいよ撮影だ。
カメラの下に現れた夕陽は……うん、良い感じだ。
クールだけど冷た過ぎない、繊細ながらカリスマを垣間見せる彼女の印象がよく現れている。
というか、ゴールドプロダクションの頃の写真よりも、明らかに印象が良いのだが。
流石上田ということかもしれないが、これは……。
撮影を始めると、彼女の纏う空気が変わった。
よし、夕陽も集中しているようだ。
ファインダーを覗く大島がぼそりと呟いた。
「うん、いいね」
撮影は無事終了した。かなり良い出来になったと思う。スタッフ達の反応も良い。
だが、俺は少し引っかかるものを感じていた。
後片付けの途中、傍にやってきた上田がぼそりと呟いた。
「彼女、今まではいつも専属のメイクの人がやってたんだって」
「そいつの名前は」
「聞いてあるよ。後で調べとく」
助かる、と俺が言うと、上田は気にするなと手を振った。
グループの特定の人物を贔屓していたらしいマネージャー。そして彼女のメイクをしていたという人物。どうもきな臭い。
業界で顔の広い大島に頼んで、夕陽に関する情報を集めてもらうことにした。
これで何か分かるといいが……。
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それから暫くが経った。
宣材写真の効果か、段々仕事は舞い込んでくるようになっていた。
というか、夕陽の活躍が凄い。
どんな地方営業でも嫌な顔一つしないで、もともと頭の回転が早いらしく気の利いたことを言って相手の反応も上々。
CMやドラマの端役での演技は筋の通ったところを見せる。
ファンとの交流の機会では、一人一人の顔と名前は勿論、話した些細なことも覚えているし、『jewelry』の頃のファンに加え、新しいファンも少しずつ付いてきている。
近々、ライブの予定もある。
彼女の再スタートしたアイドル活動は、順調と言えるだろう。
とは言え、気にかかることもある。
今日は会社に営業に行っていたのだが……。
「駄目だったね」
「うーん。感触は悪くなかったんだけどな……」
最初話していた社員とは、結構話が弾み、話がまとまりかけていたところで、急に上司らしき人物が入ってきて、中止になった。おそらくは、前の事務所からの圧力だろう。
まぁ、予想出来ていたことだ。結果的にとはいえ、夕陽を引き抜く形になったのだからしょうがない。
夕陽もあまり気にしていないようだし、結局目の前の出来ることを重ねていくしか道はない
「これからの予定は?」
「……特に無いな、駅で降ろすよ」
「分かった。お疲れ様」
俺は車で夕陽を事務所で下ろした後、大きな駅まで電車で移動する。
「お願いします。……お願いします!」
すれ違いざまに舌打ちされる。それに構わず、通りかかった別の人に頭を下げる。
チケットの手売り。前の事務所ではネットでの一般販売で売り切れる場合が殆どだったが、今の事務所の規模だと、まだまだこういうことも必要だ。
「今度ここでうちのアイドルがライブをやります! きっと、貴方の人生を、変えるライブになると思います! お願いします!」
でも、それはまだ世間が彼女の魅力に、気が付いていないだけだ。
迷惑そうに見られているのも構わず、頭を下げる。
こっちだって、人生賭けてんだ。
地面から跳ね返った雨の冷たさが、傘を持つ手の感覚を鈍くする。
ちょっと、別の売り方を考えた方が、良いかもな……。
思考に沈んでいると、目の前でスニーカーが止まった。
「お願いします」
「ん、買ったげる。お代は、そうだなぁ……笑顔で良い? 貴方の大好きな」
顔を上げると、傘を差した夕陽が立っていた。
「あー……、これは、だな」
「私のライブのチケットだよね。……気を遣わなくていいのに。あとどのくらい残ってるの」
「もうちょっとだ。……っ、おい」
答えながら後ろ手にチケットの束を隠そうとするも、無駄に俊敏な動きをした夕陽にひょいと見つけられる。
「確かにもうちょっとみたい。それじゃ、このライブ会場のキャパもほんのちょびっとだけだね」
「……」
「今度こういうことあったら言ってね。さびしいじゃん。相棒でしょ。……あ、すみませんアイドルとか興味ないですか? 私、今度ここでライブやるんです」
出演者本人が売り込んだお陰で、チケットはまた少し売れた。
しかし、まだ大部分は手元に残ったままだ。
隣の大型CDショップ『ツリーレコード』から、流行りのアーティストやアイドル達の曲が大画面のMVと共に繰り返し流れている。
…………。
俺の顔を覗き込んだ夕陽が、小首を傾げた。
「何か思いついた?」
「まぁ、上手くいくかは分からないが。協力してくれるか」
「勿論」
少し作戦会議した後、再び二人で並んで立つ。
ただし今度は両手に何も持たず、足を肩幅に開き、目線は下に。
既に雨は止んでいた。
曇り空の下、俺たちはただじっとその時が来るのを待つ。
『ああ、抜け出せない、恋のラビリンス』
『ツリーレコード』からその曲が流れ始めた瞬間、弾けたよう踊り始める。
突然踊り始めた俺を、通行人が足を止める。
昔から練習していて、マネージャーになってからも続けていたダンスは、知り合いの振付師からも「まぁ見れなくはない」と評価を貰っている。
けれど俺のは所詮ただの猿真似、拙い部分は運動量でカバーして何とか成り立っているだけだ。
でもそれでいい。今は、パッと目を引ければそれでいい。
やがてサビが始まると、踊り出すのは隣の少女、紡がれるは妖精の舞踏。
流れる水のように流麗で、太陽みたいに情熱的。矛盾した表現が彼女の中でのみ成立している。
ダンスを夕陽を引き立たせる動きに変え、歌声に合わせハモリを入れる。夕陽の動きが更に早くなり、もつれそうになる足で必死でついていく。
ダンスが終わる。最後の拍で画面が暗転すると共に夕陽がポーズを取ると、立ち止まっていた通行人たちの間から拍手が上がった。
俺たちの前の大きな歩道にはいつの間にか人だかりが出来ていた。スマホを構えていた人に動画をSNSに上げていいか聞かれたので了承する。握手や写真撮影も挟みながら、チケットは無事完売した。
「気分はどうだ?」
雨雲がいなくなった空は、いつの間にか陽は沈みかけ、世界はオレンジ色に染まっていた。
俺が尋ねると、夕陽は笑顔で片手をあげた。
「さいっこう」
俺とぱちん、と手を合わせたその手を、夕陽はじっと見た後、にへらと笑った。
俺は何となく見てはいけないものを見た気がして、彼女から目を逸らした。
代わりに目に映った、赤く染まった空は綺麗だった。
――その日売り切ったチケットのライブで、夕陽は過去最高の出来のライブをした。
そしてそのライブでの口コミと、路上でのゲリラパフォーマンスがSNSでバズったことが、初期の彼女の人気を押し上げる要因になった。
---
「合同ライブ?」
今の事務所に、ゴールドプロダクションから打診があったらしい。
最近、ゴールドプロダクションは低迷している。
社長の発言が炎上して、それから社員のセクハラ問題、アイドルのスキャンダル諸々が、何者かによって為された内部告発によって次々に明るみに出たことで、業界関係者だけでなくファンからの信用も地に落ちた。
結果CDやグッズの売り上げ、youtubeやサブスクの再生数なども軒並み右肩下がり。曲や振り付け、衣装までチープになって、そもそも番組に出て来ることが減った。
「まぁ、見せしめのつもりだろうな」
現在、徐々にしかし確実に人気が上昇している夕陽への、牽制のため。ゴールドプロダクションからしてみれば、心中穏やかではないはずだ。かつて栄華を誇ったゴールドプロダクションの、意地もあるだろう。
「……俺の考えとしては、受けてもいいと思ってる。こんな機会は滅多にないからな」
うちの事務所じゃ、こんな大きさの会場でライブできるのはまだまだ先になるはずだった。
ここで話題に上れば、トップアイドルに大きく近づく。
「あの、『jewelry』と、会うのが、その……」
いつもはっきりとした夕陽にしては珍しくそわそわとした、歯切れの悪い口調。
「ああ、心配はいらない。その辺は勿論、被らないで済むようにしておく」
夕陽は俺の言葉を聞いて明らかにほっとした表情をした。辞めたグループのメンバーと顔を合わせるのは気まずいだろう、それくらいは俺にもわかる。
それからあっという間に迎えたライブ当日。
タイムスケジュールや楽屋配置の調整に俺も参加し、準備は万全。
夕陽と『jewelry』のメンバーは、ライブが始まって解散するまで、顔を会わせずに済むようになっている。
そのはずだった。
控室で夕陽ととりとめもない話をしていた時、急に扉が開き、ずかずかと女の子たちが入ってきた。
ノックくらいしたらどうだ、と俺が思って見ていると、先頭の女の子はふんと鼻を鳴らした。
「あら、元メンバーなんだから、これくらいはいいじゃない。……元気そーじゃない。私たちに一言もなしに、いきなりグループ抜けたくせに。あれから大変だったのよ。私たち」
「あんたもうちから抜けたんでしょ。うちから抜けて弱小プロダクションに行くなんて、馬鹿だねー。七黒に色仕掛けでもされた? 普段良い子ぶってるくせに、やっぱ七黒って腹黒なんだね」
「その子のことはどうでもいいから、私、早く帰って寝たーい。最近、事務所のご飯もおいしくないし、仕事もしょぼいのばっかだし。彼氏とも別れちゃったし」
「ていうか、面白いね。ゴールドプロダクションから逃げて、まだアイドルなんてやってられるんだ」
メンバーたちは随分好き勝手なことを言う。と、そこでようやく、『jewelry』のメンバーたちが入ってきてから夕陽が一言も発していないことに気づいた。
どころか、ガタガタと震えている。
おかしい。いつも冷静な彼女の、尋常ならざる様子に俺は動揺した。
その顔は青を通り越して、真っ白になっている。
先頭に立った子が、にんまりと意地の悪い笑顔を浮かべた。
「ねぇ、私たちにいじめられてたこと、この人に言ったの?」
「君たち。一度、出て言ってくれないか」
状況は未だに分かっていなかったが、聞くに堪えなかった。
俯いた夕陽は明らかに呼吸が荒く、ただごとではない雰囲気だ。
「な、なによ。だいたい、今私が話してるのは貴方じゃなくてそこの七黒」
立ち上がった俺を見て、僅かに怯んだ様子を見せたが、すぐに強気な態度に戻る。
俺に退く気がないことを理解したのか、舌打ちした。
「あーあ、マネージャーに守られて良かったわねぇ。あんた、ちょっと売れてるみたいだけど勘違いしないでね、あんたの細々とした人気は単に、『jewelry』のメンバーだったから、なのよ。今日は徹底的に叩き潰してあげるから、覚悟しなさい」
「出て言って欲しい、って、聞こえなかったか?」
俺の表情に何を見たのか、ひ、と声を漏らした。
「こ、こんな弱小プロダクション、パパに頼んだらすぐに潰れるんだから! 調子に乗らないことね」
---
『jewelry』のメンバーたちが出て行って暫く、楽屋は沈黙が支配していた。
夕陽の呼吸はゆっくりと元に戻った。救護に連れて行こうとしたが断られた俺は、じっと彼女の対面の椅子に座って待っていた。
「……お前が、アイドルを辞めた理由って」
「うん。いじめられてたからだよ」
どうして、とは聞かなかった。
ちょうど今朝、大島から届けられた報告書の内容を思い出す。
前の事務所での彼女の境遇について。
Jewelryの評判は酷いものだった。メンバーの遅刻、ドタキャンは当たり前、気分次第でスタッフに当たり散らし、担当マネージャーもそれを止めないどころか、助長する発言さえ見られたらしい。
その中で夕陽の評判はまだマシだった。他のメンバーが汚した楽屋を一人片付けている様子を見ていた掃除のおばちゃんや、一人だけ時間を守り挨拶をしていたのを覚えていた、現場スタッフの話もあった。
それが、彼女の孤立を深めていたのだろう。
彼女はいつも一人だったらしい。メンバーとは最低限のやり取りしかしないし、彼女に悪態をつくメンバーや、現場についた彼女の荷物が荒らされていたなどの報告も上がっている。
「私、このライブが終わったら、辞めるね」
ぽつりと夕陽が言った。
「何言ってんだよ」
「だって、あなたが欲しいのは、キラキラ輝いた私でしょ」
「――ッ!」
息が詰まった。
あの時、再び俺たちが始まった時に誓った言葉が思い出される。
「あの子たちに、きちんとしてほしいと思ったけど、説得はうまくいかなかった。マネージャーに相談したりもした。でもまともに取り合ってくれなかった。私の扱いが酷くなっただけだった」
「だから私は諦めた。淡々とやろうとした。仕事だからと思ってやってた。その時にはもう、アイドルを始めた時に感じてたキラキラもドキドキも、何も分からなくなってたけど、それでも続けた。でも、最初は気にしてないつもりだったけど、そのうちあの子たちに何かを言われることも辛くなっちゃって。勝手に身体が震えるようになっちゃって、もう駄目だと思って、辞めた。好き勝手に言われて、何も言い返せなくて、情けないよね。貴方にだけは、こんな姿見せたくなかったんだけどな」
「言ってくれれば、何か……」
カラカラに乾いた口で、何とか言葉を紡いだ俺を、夕陽は遮るように言った。
「――言える訳ないよ。上田さんに聞いた。マネージャー、ゴールドプロダクションの時、私を庇って社長に嫌われたんだってね」
「…………」
ゴールドプロダクションは規模こそ大きかったが、本当にろくでもない会社だった。
残業は当たり前、社長をはじめとした上司からの理不尽な叱責の中、ずっと過労死寸前で働かされた。
それだけじゃなく、夕陽を気に入ったとかいう得意先の重役が持ってきた、明らかに怪しげなグラビア撮影の仕事を社長が受けようとしてたから、それに抗議した。
揉めに揉めて、結果その得意先が二度と夕陽に寄り付かないようにできたが、代償として俺は社長に目を付けられ、やたら色々な仕事を押し付けられるようになった。
何度も辞めてやろうと思ったが、それでも続けていたのは、俺が辞めれば悪質な番組や撮影を夕陽に受けさせると脅されていたからだ。
俺が彼女に思い入れがあることに気づいていたのだろう。社長は部下の心情など塵ほども配慮しないが、そういう人の弱みになりうる部分を察することには長けた人だった。
俺はこれに関する自分の選択を一度も悔いたことはないが、そんな経緯があったから、彼女がゴールドプロダクションを辞めると言い出した時、俺が残る理由は一切なかった。
「誰より私に期待してくれて、私を認めてくれた貴方にだけは。――ダサくて、弱い私なんて、見せたくなかった」
夕陽は小さく笑った。だけど透明な涙が、彼女の頬を伝っている気がした。
「スカウトしてくれた時。私に、星みたいな、キラキラしたものを、見つけたって言ってくれたよね。あの時、凄く、凄く凄く凄く嬉しかった。誰にも期待されていなかった私と、本気で夢を見てくれるんだって分かったから。けど、今はそのキラキラは、どこかへいっちゃったみたい」
「ありがとう。貴方にスカウトしてもらえて、期待してもらえて、光栄でした。でも、ごめんなさい。私は、貴方が思うほど良い子でも、強い子でも、無かった」
目の前の女の子は今、壊れかけていると分かった。
彼女がずっと隠していた傷を晒して、
「……これは、マネージャーとしての言葉だけど。俺は、なんていうか、夕陽のことが好きなんだよ」
夕陽が、じっと黙って俺を見上げていた。大きな瞳は吸い込まれそうなほど真っ黒だった。
「七黒夕陽っていう、お前の優しくて、まっすぐなところが好きなんだ。でもそれは、別にお前がもしひねくれて、冷たくなっても、多分好きだ。お前が完璧だからとかじゃない。誰かと上手くいかなかったとしても、変わらない。……本当に、何も変わらない」
夕陽の瞳が、揺れている気がした。
届いてくれ。この胸の中の思いが、ほんの僅かでもいいから、届いてくれ。
「お前を凄いやつだって認めてるし、きっと凄いことをするって期待し続けるよ。そのために、ずっと傍にいる。……俺、昔アイドル目指しててさ、」
夕陽は驚いたように目を見開いた。
「色々あって結局辞めちゃったんだけど。そんな俺からすると、失敗とか痛みを知っている夕陽に、アイドルが向いてると思う。その分、人に優しくなれると思うから」
夕陽が、顔をくしゃりと歪めた。控室の窓からは、オレンジ色の光が差し込んでいた。
「夕焼けを綺麗だと思うようになったのは、世界を知ってからだ。世界は綺麗なだけじゃないと知ったからこそ、その輝きに心が揺さぶられる」
「そしてこれは、井鳥廉太郎としての言葉だ。――辛かったよな。ごめんな、気づいてやれなくて。……別に、アイドルなんてならなくたっていいから。お前が、元気でいてくれたらそれでいいから、傍に居るから」
彼女が嗚咽を漏らした。
「泣いていいよ。俺は向こうを向いてるから」
「泣かない。絶対に泣かない。泣いたら、メイクが崩れちゃうし、赤くなっちゃうから」
「……無理しなくていい。今日のライブは中止に出来る」
俺が謝ればいいだけの話だ。また仕事は探せばいいし、それより彼女の心の方がよっぽど、比べられないくらいに大切だ。
俺のそんな心中を、分かっている、とばかりに口を引き攣らせた。へたくそな笑顔だ。それで、笑っているつもりかよ。
「行くよ。だって、あなたが選んだアイドルだもん」
それが答えになっているのか、俺には分からない。でも、その信頼は、ずしんと質量を持って肩に乗しかかる。こんな立派な奴が、凄い奴が、俺のアイドルなんだよな。
スタッフが顔を出した。夕陽を呼びに来たようだ。
「……行ってきます」
分からない。なんて言葉を掛けたらいいか。いや本当は分かっている。でも陳腐で、これで想いが伝わるのか自信が無い。それでも、言うしかない。俺はぱんと自分の両頬を叩いた。
「ああ、行ってこい!!」
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大歓声の中、ステージに立った彼女の瞳が星のように輝いていた。
今日一番の大きな歓声を浴びる彼女。
大島や上田をはじめとしたスタッフの人達も、彼女のステージを誇らしく見ている。
それは彼女が、どんな時でも真剣に手を抜かず、アイドルを全うしてきたからだ。共にステージを作り上げるスタッフを尊敬し常に礼儀を忘れず、実力に裏打ちされた彼女のカリスマは、スタッフの力をも最大限に引き出した。
なぁ、夕陽。俺は、ずっと知ってたよ。お前は、アイドルの才能があるって。
お前の初めてのファンになれたことを、光栄に思うよ。
ステージ袖に入ってきて、ふらりと倒れそうになるところを、慌てて抱き留める。
孤独に誇り高く戦った彼女は、当たり前に華奢で、力を込めたら折れてしまいそうで、それでも燃えるように熱い命の鼓動を感じた。
「……見てた? お客さん、すっごい喜んでくれて、すごくキラキラしてた」
「ああ、見てたよ!」
「……もっと、アイドルやりたい。貴方と一緒に。一人じゃない、マネージャーがいつも傍にいること。それが楽しくて、嬉しいの」
「ああ! いつまでも一緒に居るからな!」
「……っ、うん!」