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一般向けのエッセイ

言葉の嘘と言葉の力

 ウィトゲンシュタインはケインズの奥さんを泣かせた事がある。ケインズの奥さんが、ある植物を見て「なんて美しいんでしょう」と言ったら、ウィトゲンシュタインが「『美しい』というのは一体、どういう意味ですか?」と問い詰めて、泣かせてしまったそうだ。

 

 変人で天才、言語を主題とした哲学者にふさわしいエピソードと言えるだろう。私も、最初はただウィトゲンシュタインの面白いエピソードとしてしか考えなかった。

 

 ただ、最近、ウィトゲンシュタインの言語ゲームという哲学について考えていて、このエピソードは、ウィトゲンシュタインの方から見れば極めて素朴な話なのではないかと思った。ウィトゲンシュタインはただ「美しい」とはどういう意味で言っているのか、知りたかったのだ。

 

 中期以降のウィトゲンシュタインのやっているのは「言葉の意味を考える」という事だ。ウィトゲンシュタインはこれを執拗にやっている。しかし、常識に安住している人は何故そんな事をするのか、全くわからないだろう。

 

 ※

 人と話していると、言葉の使い方に違和感を覚える事がよくある。それは「正しい日本語を使いなさい」というような意味ではない。私が奇妙に感じるのは、その人物が言葉を発していながら、言葉の内実についてまるで考えられていないという事だ。

 

 例えば、「元気だしてくださいよ。明日はいい事ありますよ」と、宣伝の広告のような事を本当に言う人がいる。ありがたい励ましなのかもしれないが、話している人は明らかに、言葉の内実をまるで考えられていない。(こういう時にはこういう事を言えばいい)とほとんど自動機械のように言葉を発している。

 

 いい加減な言葉が世界を埋め尽くしている。「日本をリセットする」とか「日本をアップデートする」とかいう言葉は、果たしてどういう意味なのだろうか? というか、そういう大仰な言葉は具体的にその言葉の意味を解明しようとすると、言葉の魔術性が消失してしまうので、結局の所、そういう符丁だけが世間を流布していく。

 

 「人はいつでも生まれ変われる」といった宣伝的文句は、どういう意味なのだろうか? 「生まれ変わる」とはどういう事なのだろう? ある商品を飲めば、「腸がリセットされる」などと言われるが、「腸がリセットされる」とはどういう事なのだろう?

 

 誰もはっきり答えを教えてくれない。言葉の内実に入り込み、論理的に、現実的に言葉の意味を考えていこうとする人はいない。仮にいたとしても、大衆はそんな詳しい解説を聞きたいわけではない。

 

 ドリンクを飲めば腸がリセットされる、という宣伝文句について考えてみよう。人々は、医学的に実際、どういう効果があるのか、はっきり知りたいわけではない。ただ(これを飲めば腸がリセットされる)という漠然としたイメージを持って、これまた漠然とした(体に良い)というイメージにつなげて、ドリンクを飲むだけだ。

 

 「辛い現実を乗り越えて、幸福を手に入れる」とか「真の愛を知る物語」などといった言葉は、通俗作品によく現れる言葉だ。CMの宣伝文句と、通俗作品の持っている哲学はよく似ている。ふんわりとした中身のない言葉で、漠然とした期待や希望を持たせる事だ。

 

 「シン・ゴジラ」とか「君の名は。」のような通俗作品で、本当に涙して、感動できる人は、「真の愛」といったワードが出てきた時、その言葉の中身について真面目に考えたりしないタイプの人だろう。ただ漠然と、言葉のぼんやりしたイメージを受け取って、それで満足してしまうのだろう。

 

 テレビはそういう言葉で満ちている。家族の関係という面倒なものも「家族の絆」という一語で集約する。ステレオタイプな概念は、いい加減な、紋切り型の言葉で表される。

 

 人々はテレビは嘘だと、薄々は気づいている。実際、知性の欠けた人が「テレビって嘘ですよね」と言うのを聞いた事がある。それでも、彼らはテレビを見るのをやめないだろうし、テレビを見るのをやめてネットに移行したところで、テレビとさほど変わらない通俗的な番組を見るのをやめないだろう。彼らは自分達の認識の枠組み、つまり、ステレオタイプな言葉の限界を手放す事はできないから、そういう世界に浸り続ける。

 

 現実の世界がその言葉に見合ったものか、どうかはわからない。「芸能界のおしどり夫婦」と言われていた夫婦が、突然離婚したり、どちらかが急に自殺したりする。ステレオタイプな観念はここで破れるが、ステレオタイプな観念が破れても、人はその観念の先に進もうとはしない。

 

 順風満帆な芸能人が自殺すると、人々にはもう意味がわからない。彼が自殺する意味がどうしても理解できない。「順風満帆な芸能人」というイメージから離れられないので、それとは相反する自殺という現実を受け止められない。現実を受け止められない人は往々にして、陰謀論に移行する。陰謀論もまた、ステレオタイプな観念形態の一つだ。

 

 ※

 ウィトゲンシュタインは執拗に言葉の意味を考えたが、彼がそうしたのは、世界を覆う虚偽を打ち破りたかったからだろう。もちろん、ウィトゲンシュタイン自身も、その虚偽を作り出している一人に数えられる。だから、彼の哲学は自分との戦いを含む。

 

 ウィトゲンシュタインは弟子が「国民性」という言葉を使った時に、激怒した。「イギリス人の国民性からそんな事はしないでしょう」と政治的事柄に対して弟子が言った時、烈火の如く激怒した。彼は、言葉の意味を一緒に考えてきたはずの弟子がそんな粗雑な概念を使ったのが許せなかったのだ。

 

 「国民性」という言葉が何故、粗雑なのか?と人は問うかもしれない。この問いに答えるのは馬鹿馬鹿しいので、ここでは書かない。ただ、私が思うのは、ウィトゲンシュタインにとって「国民性」という言葉を使う行為は、政治的な次元の話ではなく、言語的な次元の話だったという事だ。

 

 ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という概念はこの世界の全てを含む。何故、世界の全てを含む事が「言語」と関わりがあるのだろうか? 沈黙の行為だってあるのではないか?

 

 その理由は、おそらく、人が言語を使って世界を認識しようとするが為に、その枠組に沿った行為や認識しかできないという事にあるのだろう。私が人を殺す。私は「これは悪か?」「これは善か?」と考える。私は、人を殺すという行為を「悪」や「善」という観念に収斂させている。

 

 裁判官は、私を裁く時「有罪」とか「無罪」とかいう概念で考えるだろう。私を肯定する人間は「私を擁護する理由」のような言語を集積させていく事だろう。我々は言語で世界を認識しており、行為は言語の中に織り込まれてしまう。私が、笑う。私は「笑い」という観念を捉える。すると、笑っている私はどこかへ消えてしまう。その真の実態ーーそういうものがあるとしてだがーーはどこかへ行ってしまう。

 

 ※

 こんな哲学的な話をしても仕方ないに違いない。

 

 ただ、この社会が使用している「美しい国」だとか「希望」「期待」「アップデート」「革命」といった、粗雑な概念は、現実の多様性に打ちのめされていずれ分解するであろう。人々がどれだけ集まっていい加減な観念を擁護しようと、それ自体矛盾をきたして、破裂してしまうだろう。

 

 私の知っている人は本当に「希望を持ちましょうよ」と言う。「前向きに生きましょうよ」と言う。自分の「前向き」が何を意味しているのか知らないその人は一体、どんな人生を辿るのだろうか? 私は知らない。ただ、「前向きがいい事」だと本気で信じている人間は、「前向き」が通用しない状況が現れた時、打ちのめされて、もう二度と立ち上がれないだろう。

 

 「知る」というのは力である。作家や哲学者は、我々を間違った概念に縛り付ける言語という道具を逆に利用して、現実の、世界の奥の真実に迫っていく。もちろん、「真実」という語も単なる概念に過ぎないが。

 

 作家のブコウスキーは「くそったれ! 少年時代」という作品で下記のような文章を書いている。作家は、若年期から人とは違う言葉を自らの中に蓄えてきた。それによって人生を渡り歩いていく力を得ていた。ステレオタイプな言葉しか詰め込んでいない人は、それが破裂した時、もう現実の複雑さに対応できない。作家は言葉に生きる事によって、人生と渡り合おうとする。

 

 「わたしは海から出てきたみんなを見つめた。きらきらと輝いて、肌はなめらかで、若く、挫折というものを知らない。わたしも彼らに気に入られたかった。しかし同情からというのはごめんだ。とはいえ、なめらかで何ひとつ傷つけられていないその肉体や精神にもかかわらず、彼らには何かが欠けていた。というのも、彼らが根本的な試練に曝されたことは、今のところ一度としてなかったからだ。やがては彼らも人生の中で不幸なできごとに見舞われたりするだろうが、その時はもう手遅れだったり、あまりにも厳しすぎて立ち向かうことができなくなったりするのだ。わたしは心構えができていた。多分できていたと思う。」

 

 (ブコウスキー「くそったれ! 少年時代」)


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