突然便意を催す
ヤバい、もうダメだ。
顔から冷や汗がつたるのがわかった。アイツは今にも、ひょっこりと顔を出そうとしている。部長の話はまだ終わりそうにはない。仕方がない、係長に事情を説明して少しだけ時間を稼いでもらうしかない。
その時だった。まさかこんなタイミングで俺の出番が来るなんて思ってもみなかった。部長が意気揚々と俺のことを紹介し始めたのだ。
「えー、我々のプロジェクトには我が部署始まって以来の期待の新人が参加しておりまして……えー、彼から例の新製品の説明と報告がありますのでどうぞご静聴願います。では堀田君、よろしくお願いします」
くそったれ。俺は、もうどうにでもなれとほとんど投げやりな気持ちで立ち上がった。全員の視線が一様に集まる。
だが、立ち上がった途端に投げやりな気持ちは一気に消え失せてしまった。ただ一言、もう洩れそうだ……。それでも俺は声を絞り出さざるを得なかった。
「た、ただいまご紹介ひに、あ、預かりましたほ、ほほほ、堀田と申され、します……」
周りから笑い声が巻き起こった。しかし今は気にしているどころではない。アイツが肛門を突き破り、頭のてっぺんを覗かせ始めたのだ。俺の頭の中は一瞬真っ白になった。こんなところで洩らしでもしたら、今まで築き上げてきた俺の人生、名誉は台無しになってしまう。
俺は、気合いでアイツを引っ込めた。
できることならタイムマシンに乗って、昨日の自分に今の危機的状況を知らせてやりたかった。もし、それで未然に防ぐことができたら……。
――そういうわけで、無事に明日の会議で使う書類を仕上げることができた。そしてそれを整理し、カバンの中に丁寧にしまった。後は寝るだけだ。
俺は机の上に置いてあったペットボトルのお茶を一気に飲み干した。そういえば一昨日からトイレに籠っていない。明日のためにトイレに行っておくか悩んだ。
しかし、俺は眠気に負けて、ベッドの方にベクトルを向けてしまった。
フカフカのベッドに入ると、疲れが溜まっていたのかすぐに意識が遠のいていくのがわかった。
翌朝、いつもより少し早く目が覚めた。心臓の鼓動が早く、妙に興奮している。無理もない。今日は人生で初めての会議なのだ。
ベッドから起き上がり、洗面所に行って顔を洗う。そしていつものようにさっと小便を済ませ、朝刊を取りにポストに向かう。新聞を読みながら朝食を済ませようとすると、緊張しているためなのか、全く食欲が湧いてこなかった。なのでコーヒーを一杯だけ飲んで、それで朝食を終えることにした。
出発時刻が迫ってくると、カバンの中に書類が入っていることを何度も確認した。家に忘れてしまっては全てが水の泡だ。
俺はスーツを羽織り、黒光りした靴を履いて、今日の会議に意気込んで家を飛び出した。
駅までの道中、電線の上にいるたくさんの小鳥たちが、まるで俺に今日の会議頑張ってねと応援してくれているかのようにピヨピヨとたくさんのエールを送ってくれた。
「ありがとう、小鳥たち。今日は俺、頑張るよ」
小鳥たちを見上げながら、俺は微笑んで感謝の言葉を口にした。後ろから追い越して行った中年サラリーマンが、俺のことを怪しそうに見ていった。俺は思わず恥ずかしくなり、一つ咳払いをしてその場をごまかした。
駅に着いてみると、ホームの時計はまだ、電車が来るには少し早い時間を指し示していた。電車を待つ間、俺はベンチに座って頭の中で会議のシミュレーションをすることにした。
水色のベンチに向かうと、先ほどの中年サラリーマンと数人の若者が携帯を弄りながら座っていた。俺は可能な限り、中年サラリーマンから離れた場所に座ることにした。そして、俺はうつ向きながら目を閉じて今日の会議の様子を想像し始めた。
小さな会議室の上座には部長が座っている。俺は下っぱだから下座で背筋を伸ばして、その時が来るのを待っている。
『えー、では堀田君。説明を頼むよ』
部長が俺を名指すと共に、数人程度の社員が一斉にこちらに目を向けた。仮想世界の中の俺は勢いよく立ち上がる。
『わたくしは新入社員の堀田と申します。今回、入社後初めての会議ですので何卒穏便によろしくお願い致します』
俺は軽く一礼した。
『では早速ですが、我が部署が開発した新製品、万能掃除ロボット・メカマルの販売状況を報告をさせて頂きます。まずはお手元の資料をご覧下さい。メカマルの現在までの販売成績と、純利益及び生産コスト比率をグラフ化したものです。ご覧の通り、現在に至るまでのメカマルの販売状況は非常に好調で――』
ここで、脳内シミュレーションは一時中断されてしまった。尿意を催したのだ。
この駅のトイレはとてつもなく臭いので、極力使いたくはないのだが今日は緊張のためか、向こうの駅に着くまで尿意を我慢できそうにはなかった。仕方がないと思い、俺は改札口付近にあるボロいトイレに向かった。
中に入ると、相変わらずのつんとした刺激臭に鼻がねじ曲がりそうになった。俺は一度外に出て、態勢を整えることにした。
外の空気を思い切り吸って息を止める。そして、またすぐにトイレに入り直した。小便器の前に立ち、急いでチャックを開ける。そしてにょい棒を取り出して、膀胱のバルブを全開にした。
いつもなら用を足すのに十数秒足らずしかかからないのが、今日は朝から緊張しっぱなしのためか異様に尿量が多く、なかなか用を足し終えることができなかった。
小便を終えるとだいぶ息が苦しくなっていた。俺はさっとチャックを閉め、適当に手を洗って急ぎ足で外に出た。それと同時にぷはーと勢いよく息を吐き出し、肺に新鮮な空気を取り入れた。荒くなっている呼吸を整えるのにそう時間はかからなかった。
それから数分間、ベンチに座って会議の資料を眺めていると、ようやく構内に電車が入ってくるアナウンスが響いた。俺は資料をカバンに片付け、白線の内側に立って電車を待ち構えた。
電車がホームに到着すると、プシューという圧縮音と共に扉が開いた。中はいつものように満員で、俺は自分の体を押し付けるようにして足を踏み入れた。必死に足を踏ん張り、手をつっかい棒にして扉に挟まれないように気を付けた。
何とか扉が閉まると、運転手は乗客を気遣ってか、電車はゆっくりと発進し始めた。
会社に着くと、ロビーにはいつものようにかわいい受付嬢が二人立っていた。左の子は年齢も近いようだし、縁があればいつかは飲み会に誘って口説き落とそうと思っている。
俺は左の子を横目にエレベーターに向かった。丁度エレベーターの扉が開いていたので滑り込むと、数人のひょろっとした男性と、その中では体格の良さが際立って目立つ大柄な男が乗っていた。同僚の川口だ。
川口に軽く会釈をすると、あいつも軽く会釈を返してきた。六階のボタンは既に押してあったので、俺は扉の上の数字をじっと見守ることにした。
六階に着くと、俺の後に続いて中年男性二人と川口が降りてきた。中年男性二人は見知らぬ顔で、別の部署に配属されている人達のようだった。
「おう、堀田。おはようさん」
エレベーターを降りるなり、川口が俺の背中を叩いて威勢よく挨拶をしてきた。
「おはよう」
俺は素っ気なく挨拶を返した。性格の相性というやつか、俺は川口のことがあまり好きではなかった。
「お前、今日の会議頑張れよ。うまくいけば昇進するかもしれないぜ」
「世の中そんなにあまくないよ」
「それもそうだな」
川口はわかったような口をきいた。
こいつは俺と同じ新入社員なのだが、今日の会議には出席しないことになっていた。新入社員で会議に出席するのはこの俺だけなのだ。何故なら俺はエリートだからだ。部長に認められたからこそ、新入社員にも関わらず俺は特別に会議に出席できるのだ。
自分の部署に近づいてくると、俺と川口はそれぞれ財布からタイムカードを取り出した。
タイムテーブルにカードを挿し込むと、小さなモニターに現在の時刻と自分のIDが表示された。
「んじゃまあ今日も頑張るとするかな。それじゃお前も会議頑張れよ!」
川口は大きな声でそう言うと、俺の背中を思いっきり叩いて自分のデスクに向かっていった。性格が乱暴なだけに、川口の張り手はかなり痛かった。川口のそういう野蛮なところが嫌いなのだ。
俺は手の甲で背中を擦りながら、フロアの一角にあるデスクに向かった。
椅子に座って会議用の書類をカバンから取り出していると、誰かが俺の肩にぽんと手を置いた。すかさず後ろを振り向くと、大きく膨らんだお腹が目の前に広がった。視線を上にやると、部長がにこやかな顔をして立っていた。
「おはよう、堀田君」
俺は急いで椅子から立ち上がり、軽く頭を下げて挨拶をした。
「お、おはようございます部長」
「今日の会議、頼むよ。まあ君は我が部署の金の卵だから心配はいらないと思うがね。はっはっはっ」
そう言うと、部長は俺の肩をまたぽんぽんと叩いた。
「は、はい! ご期待に添えるよう頑張ります」
「うむ、ではまた後でな」
「はい!」
もう一度軽く頭を下げると、部長は後ろに振り返り、自分のデスクに去って行った。
一時間後、俺は会議室で唖然としていた。とんでもない思い違いをしていたのだ。てっきり、自分たちの部署だけでこじんまりと会議をするものだと思っていた。それがどうだ、今日の会議は自分たちの部署だけではなく、全部署を含めた大規模な会議だったのだ。
部長にその旨を伺うと、彼は笑いながらこう答えた。
「はっはっはっ、知らなかったのかね? 我が社は毎年この時期にこうやって、平社員、課長、部長、社長の垣根を越えて総合的な判断を下すためにこの会議を行っているのだよ」
部長も人が悪い。そんな大切なことはもっと早くに伝えておいてもらいたいものだ。そのせいで俺は、完全に面食らってしまった。中には俺みたいな青二才な新入社員もいるとはいえ、目前には怱々たるメンバーが揃っている。そして上座には、社長が威厳たっぷりな風格を纏わせてどっしりと座っていた。
会議室内はとても広く、子供が遊んで走り回るには十分な面積があった。ただ、これだけ大きな会議室なのに扉は上座付近に一つしかなかった。
各席には中型マイクと液晶モニターが取り付けられており、非常に近代的な設備が整えられていた。
俺は下座付近にある自分の部署名が書かれた席に座ていた。俺の両隣には、係長と別の課の課長が座っている。
「堀田、いきなりこんな大規模な会議で緊張するかもしれないけど頑張れよ」
面食らってる俺の顔を見て、おもむろに係長が励ましてくれた。
「はい、ありがとうございます。何とか頑張ってみます」
「ああ、期待してるぞ」
俺はその言葉通り、とはいかずあまり期待して欲しくはなかった。こんな大勢の前で話をすると思うと、心臓が張り裂けそうだった。
その時、「ご静粛に」という言葉が室内に轟いた。社長が自らマイクを持って立ち上がっていた。
「あー、ではこれより会議を始めたいと思います。まずは私から、我が社の現状と今後についてをお話したいと思います。早速ですがまずはこれをご覧になって下さい」
モニターに我が社の資産運用と株価の推移について示されたグラフが表示された。
「我が社は――」
あれから、社長の話と二つの部署の報告が終了した。次は俺達の番だ。
部長が立ち上がり、マイクを持って現状報告をし始めた。
それを集中して聞いていると、そいつは突然やってきた。そう、それは突然の夕立に遭ったり、通り魔に襲われるのと何ら変わりはない。俺は突然の便意に襲われたのだ。
普段はじわじわとやってくるものなのだが、今日は異様な緊張感が災いしてか、とにかく突然やってきてしまったのだ。
すると急にお腹がゴロゴロと唸りだし、ガスが充満していくのがわかった。俺はガスの噴出を防ぐため、精一杯の力を込めて門を引き締めた。
だが、アイツが出口寸前までやってきた。最初はまさかと思ったが、それはガスではなく、間違いなく本体であるアイツだった。
「堀田、大丈夫か?」
俺の気配を察してか、係長がこそこそと話しかけてきた。
「お前、顔が青白いぞ」
「だ、大丈夫です。大丈夫ですから」
「そうか。ならいいんだ」
もうすぐ自分の出番だと言うのに、よもや便意を催したのでトイレに行きたいです、などとは言えなかった。が、アイツは確実に奥から門に向かって押し寄せてきている。
また屁が出そうになったので、必死にお尻を引き締めた。もし屁が出てしまってはちょっとした異臭騒動になってしまう。ただ、今回は実も出てしまいそうだった。それだけは絶対に阻止せねばならない。
俺は、部長の話し声も耳に届かないほど必死の思いで耐えた。次第に冷や汗が浮き出てくるのがわかった。そろそろ限界に近づいてきている。部長の終わりそうで終わらない話に、イライラしてきた。これなら、俺の出番が来るまでにトイレに行けたかもしれないのに――
ヤバい、もうダメだ。
顔から冷や汗がつたるのがわかった。アイツは今にも、ひょっこりと顔を出そうとしている。部長の話はまだ終わりそうにはない。仕方がない、係長に事情を説明して少しだけ時間を稼いでもらうしかない。
その時だった。まさかこんなタイミングで俺の出番が来るなんて思ってもみなかった。部長が意気揚々と俺のことを紹介し始めたのだ。
「えー、我々のプロジェクトには我が部署始まって以来の期待の新人が参加しておりまして……えー、彼から例の新製品の説明と報告がありますのでどうぞご静聴願います。では堀田君、よろしくお願いします」
くそったれ。俺は、ほとんど投げやりな気持ちで立ち上がった。全員の視線が一様に集まる。俺はごくりと生唾を飲んだ。立ち上がろうと力んだときに肛門が決壊してしまいそうになった。正直、今にも洩れそうだ。それでも俺は声を絞り出さざるを得なかった。
「た、ただいまご紹介ひに、あ、預かりましたほ、ほほほ、堀田と申さ、します……」
周りから笑い声が巻き起こった。しかし今は気にしているどころではない。アイツが肛門を突き破り、頭のてっぺんを覗かせ始めたのだ。俺の頭の中は一瞬真っ白になった。こんなところで洩らしでもしたら、今まで築き上げてきた俺の人生、名誉は台無しになってしまう。
「一体どうしたというのかね、堀田君」
部長が不思議そうな顔をして三つ隣の席から訊ねてきた。
「い、いえ……あっ! いや、なんでもありません」
「そうかね、なら良いのだが……それより顔色が優れないようだが、大丈夫かね?」
こんな状況なのだから顔色が悪くて当然だ。
「大丈夫です。では、続けっ! ……させて頂きます」
一瞬、ガスと一緒にアイツが完全に露出しそうになった。そのために声が少し上ずってしまった。それでも俺は気合いでアイツを引っ込め、何とか先を続けた。
「ま、まず、お手元の資料をご覧下さい。万能掃除機・メカマルの製造コストは、台湾製部品を調達することにより、更に下げることが可能です」
しまった。いきなり話す順序を間違えてしまった。いきなりコストの話をしてどうするんだ。
「お手元の資料のグラフを見て頂いてもわかりますように、日本製、韓国製、中国製のどのメーカーのものよりも台湾製の部品の方がコストが低いことがわかります」
順序が狂ってしまったために、机の資料映像はメカマルの販売状況のものが映し出されていた。
「ですが……」
ついに限界が来てしまった。アイツの頭をこれ以上抑えきれなくなり始めたのだ。俺は今にも出そうになっているアイツを引っ込めるため、門を引き締めようとそちらに全神経を集中した。そのために一時的に口を動かせなくなってしまった。処理に苦しんでいると、急に周りがざわつき始めた。それを見かねた部長は、マイクで俺に助け船を渡してくれた。
「ですが、なんだと言うのだね?」
だが俺は答えることができなかった。もう、だめだ。押し寄せてくる圧力の波に、肛門括約筋は耐えることができなくなっていた。俺の身に起きている状況を知らない部長は無視されたと思ったのだろうか、手を震わせ、いきなり怒りだした。
「一体どうしたというのだ! ふざけているのかね君は! 君のおかげで会議が進まんではないか!」
俺は弁解しようと最後の力を振り絞って、唇を震わせながら言葉を発した。
「で、出る……」
「ん?」
「もうダメです我慢できないんです!」
そう叫んだ直後、俺はプライドも名誉も何もかもかなぐり捨て、会議室を飛び出そうとした。
椅子のひじ掛けに脚をぶつけ、回転を始めた椅子の後ろに素早く回りこむ。
周囲の呆気にとられた視線を気にも留めず、俺は尻を押さえながら出口めがけて無我夢中で走った。足に衝撃を受けるたびにアイツは、頭を、顔を、胴体を覗かせる。出口はもう目の前だ。
――俺は一瞬にして天国にたどり着いた。これまでの苦痛から解放され、俺の体は脱力感に満ちあふれた。こんなに気持ち良いと思ったのは何年ぶりだろうか。
だが、俺がたどり着いたのは天国という名の生き地獄だった。足元に生暖かい液状のアイツが落ちるのを目撃した時、俺は間違いなく今日中に辞表を出す決意をした。
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