山下先輩
「母校からのオファーですか‼請けるんですか?」
俺は食い気味に訊いてしまった。
「請けようと思っている。ただ妻のこともあるから今はまだ保留にしてるが、秋までには返事が欲しいらしい」
「新チームのこともありますもんね。奥さんはあまり乗り気じゃないんですか?」
「うちは共働きで2人の子供がいる。長男は来年高校生だから入寮する可能性もある分いいが、長女はまだ小5だからなぁ……。俺が監督として住み込みで指揮を執るとなると、どうしたって妻への負担が大きくなってしまう。妻も仕事が忙しくなってきていて、出世がかかっている。一昨日妻には話したが好意的な反応はもらえなかったよ……」
「それじゃあ……断るんですか?」
「わからん。でも、監督になれば間違いなく今より収入は落ちる……。にもかかわらず妻の負担は増えてしまう。俺が逆の立場でも二つ返事でいいよとは言えないだろうから、気持ちはよく理解できる」
「現実的に考えたら厳しそうですね。でもまだ監督をやりたいって思いがあるから今日わざわざ俺のところまで来てくださったんですよね」
「まあな。色々と考えたんだが、俺の周囲で一番高校野球の世界に精通しているのは司かなと思ったからさ。それにこのまま今の会社にいても出世の見込みはないみたいだし、ここで指導者の道へと舵を切るのもありなのかなと思ったんだよ」
俺が知っている大学時代の先輩とは何かが違う気がする。けど、それは所帯を持つ人なら誰もが抱える悩みなのかもしれない。
つまるところ転職なわけだが、給料は今より下がる。
そして奥さんも会社勤めで忙しい立場にある……。
客観的に見れば理解してもらえるというのは難しいだろう。それが正直な感想だ。
「まだ時間はあるんですよね?」
「あぁ」
「今は厳しくても先輩は指導者向きの人間だと思います。あくまで大学時代に一緒に過ごした経験からですけど……」
思っていることを素直に口にした。
「そう思うか?」
少し笑顔を浮かべて訊いてくる山下先輩。
「はい。俺が思うに先輩の心は8対2くらいで指導者にあるような気がします。あとはもう奥さんと相談して決断するだけですよ」
「そうだな。時間取らせちまって悪かったな、でも助かったよ。ありがとう。昴くんのチームが優勝できるの祈ってるからな」
「いえいえ。俺も久しぶりに話せて嬉しかったです。ありがとうございました。ではまた」
と言って、先輩が地下鉄のホームへと消えて行くまで数回手を振ったあと、駅へと向かった。
俺のアドバイスが山下先輩の役に立つのかはわからないが、話を聞いた限り先輩の気持ちは指導者にあるように思えた。
すでに諦めの気持ちがついているのなら相談なんてしに来ないだろう。
でも奥さんの仕事のことも尊重する必要がある。だから悩んでいる。
原因はシンプルなのに問題の解決策を見つけるのは難しい。
先輩の母校『清養高校』は都立校で、進学校ながら野球が強いことでも知られている。でも過去20年以上甲子園出場はなく、近年は成績も低迷している。
そこで新たな指導者として白羽の矢が立ったのがOBの山下先輩だったというわけだ。
先輩は高校時代甲子園に1度出場している。因みにこれはセンバツで、しかもその1回でベスト8まで残っている。
確かこれが清養の最高成績だった気がする。そして当時先輩はキャプテンだったらしい。
2番サードでキャプテンを任されてチームを甲子園ベスト8に導いた反面、進学校の生徒らしく学業も優秀で文武両道を体現していたそうだ。
しかし夏は地方予選2回戦で負けて早々に姿を消してしまい、一般入試で入学したそうだ。
その地方予選で清養を倒したのが……当時俺は中学生だったので知らなかったが、風斂だったらしい‼
悔しい思いを味わいながらも文武両道を貫いてきた先輩が、ここまで迷っている様子を見たのは初めてだったので、少し驚いている。




