堤を包む
堤とは堤防のことです。
そして包むとは読んだままの意味です。
つまりサブタイトルにある堤を包むとは何の意味もない言葉です。
何だか不思議な気分だ。
意識はハッキリしないが、記憶は思い出せる。
つい先ほど俺は吹き飛ばされた。
一瞬しか見えなかったが、恐らくトラックと衝突したのだろう。
衝突の瞬間、視界がスローモーションのように、ゆっくりと流れた。
咄嗟にハンドルを切ろうと思ったが、体までゆっくりとしか動かなかった。
もう間に合わないと直感的に感じ、一抹の希望を込めてトラックの運転手を見るが、視線を下に向けてこちらに気付いてすらなさそうだった。
携帯電話でも見ているのだろう。
交通違反だと言いたいが、俺も脇見をしていたので人の事は言えないだろう。
気づけばトラックはもう胸の辺りまで迫っていた。
ゆっくりと確実に命を刈り取ろうと迫ってくる。
足はすでにバンパーの中へめり込み見えなくなっていた。
ゆっくりと、ゆっくりと体が無くなっていく。
やがて体の全てを包んでいく。
何も見えなくなっていく。
きっと今に意識が途切れてしまうだろう。
そうなれば二度と目覚めることもないのだろう。
今にして思えば、よくこれまで生きることに我慢していたと思う。
これまでの人生、本当に恥の多い人生だった。
学生時代、全くと言って良いほど勉強をしなかった。
数学のレベルは小学校で止まっているし、漢字だってまともに書けない。
授業は居眠りをしているか、眠れなければボーッと外を眺めていた。
そんな奴が碌な高校に行けるわけもなく、県内でも有数の底辺高校に進学した。
それもよりにもよって普通科にである。
大学に行ける頭もなかったから、卒業後には就職したが、専門の資格も持たない俺は就職先も底辺企業だ。
いつまでもこんなところにいてたまるかと考えていたが、気づけばもう10年にもなる。
いつの間にか転職もままならない歳になっていた。
まるで逃げるように実家から出て行き、もう何年も連絡をとっていない。
彼女もおらず、毎晩仕事終わりにパチンコに行く日々。
未来への希望なんてとうの昔に忘れてしまった。
そんな毎日を過ごすうち、1人になると嫌なことばかり考えるようになった。
いつか1人寂しく孤独死を迎えるのだろうか。
誰にも気にされず死ぬのだろうか。
いっそ今のうちに、まだ人が俺を覚えているうちに消えてしまいたい。
そんなことを考えるようになっていた。
よくもまあこんな奴がこれまで生きながらえたものだ。
死ぬのが怖い、そんな理由だけでよく生きてこられたもんだ。
我ながらよく生きてきたもんだ、そう思う。
しかしやっと解放される。
ようやくそんな生活に終わりが来たんだ。
これは俺が望んでいたことだ。
ずっと待ち望んでいたことだ。
何も嘆く必要もない。
本当にそう思っていたはずなんだ。
でもよりにもよって、なんでかわからないけど、今日。
生きていたいと思ってしまったんだ。
たった1日調子が良かったぐらいで、たった1日全て上手くいったぐらいで、たった1日のせいで。
自分が生きていたかったことが分かってしまったんだ。
死ぬのが怖いから生きていたんじゃなくて、生きていたいから生きていることが分かってしまったんだ。
きっと死ねば何も無くなってしまうのだろう。
朝の目覚めの悪さも、制服の汗臭さも、同僚の軽口も、作業長の小言も、現場代理人の怒声も、元請けの労いも。
何も無くなってしまうのだろう。
それは嫌だなと、思った。
どれも大っ嫌いなものばかりだけれど、無くなるのは嫌だと思った。
今日、今まさに、生まれて初めて、明日も生きたいと思った。