コーヒー好きなアイアンマスター
すんでのところでヒデトが店主をニーナから引き剥がし、魔力操作による身体強化で距離を取らなければ、吹き荒れる魔力の嵐に巻き込まれていただろう。
ヒデトは抱えていた店主を地面に寝かせ、シャツを破って傷の具合を確認すると、回復魔法を行使した。
「エリクシア」
みるみるうちに傷が塞がり、蒼白だった店主の顔色が良くなってくる。
「うん……俺は…?」
店主の意識が戻った頃には、ヒデトは魔力嵐に対峙していた。
「なんだこりゃ、何が起きてんだ、一体? って、ありゃニーナじゃねえか! だいじょうぶか、ニーナ!」
ヒデトの魔法によって満足に動けるほどに回復した店主は、がばっと起き上がり、ニーナに駆け寄ろうとする。
だが、急に横から現れた男の腕に止められた。
「今、近寄るのは危険だ。あれは魔力嵐だからな。嵐のなかでも街並みは無事だが、魔力の流れる生物が飲み込まれるとズタボロにされるぜ」
店主を止めたのは、全身をローブに包んだ男だった。
男は店主に話しながら、ローブのフードを取った。
金髪碧眼、精悍な顔つきの若々しい男で、頬には刀傷がある。
「お前……見たことあるな……って、オルベスク魔導士長じゃねえか」
「いかにも、私がジークハルト・オルベスクだ。……まあ、ニーナが心配なのはわかるが、落ち着けよ。あいつなら、なんとかするだろう」
「あいつって、ヒデトって兄ちゃんか? あんな優男に何が出来るってんだ!」
「いや、だいじょうぶだと思うぜ。なあ、そうだろう、フィッツ?」
フィッツと呼びかけられたグレーのマントの男は、少し困った顔をして振り返り、頬を掻きながら言う。
「ジーク、今頃来たんだねー。うーん、この嵐はなかなかしんどいかもしんない。僕じゃなくてニーナちゃんがだけど」
「おい、やっぱりニーナの身が危険なんじゃねえか! どけ、若造! お偉いさんでも邪魔するならただじゃおかねえ!」
食ってかかろうとする店主に、ジークハルトが答える。
「魔力嵐は術者を中心に吹き荒れる術者本人の生命の激流だ。生物が触れると魔力の流れを狂わされ、身体の組織を破壊される。放っておけば術者の魔力枯渇とともに収まりはするがな。まあ、魔力枯渇イコール術者の生命力の枯渇なわけだが」
「そりゃ、ニーナが死ぬって意味じゃねえかよ! 放せ、俺が行く! ニーナは俺の娘みたいなもんなんだ!」
「それでもあいつに任せておけばいい。うまく収めてくれると思うぜ」
店主は、ジークハルトの確信をもった態度に気圧されてか、落ち着きを取り戻し始めた。
「おい、ヒデト。お前を信じていいのか?」
問いかけられたグレーのマントの男は、いつも通りにっこりと笑って答えた。
「うん、だいじょうだよ。大将はそこで見ててよ」
ジークハルトは店主が落ち着いてきたのを認めると、押さえていた腕を下ろした。
「ところで、さっきからこのナイスガイがお前のことをヒデトって言ってるが……当のヒデトは今日は一緒じゃないのか?」
「うん、最近、ヒデトには留守番してもらってたんだけど、こうなっちゃったからには出て来てもらおうかな」
店主は腑に落ちないという表情で問いかけた。
「あん? ヒデトってのは兄ちゃんの名前だろ?」
「あはは、ごめん、大将。それ偽名だったんだー。ヒデトはうちの居候の名前だよ」
「は? じゃあ、一体お前は誰なんだよ」
店主の疑問に対して、ジークハルトが答える。
「あいつはウソの魔導士、フィッツ・フォン・リンナエウス。このタザフ国きっての大魔導士で、厄介事請負人だ。この程度の事件、収束させることは造作もない」
「ジーク、他人事だと思って自信満々に言うねー。でも僕が力技で嵐を抑えちゃうとニーナちゃんが危険だから、ここはヒデにがんばってもらおう。出でよ、助手!」
フィッツがそう言いながら腕を振るってポーズを取ると、フィッツの前方数歩ほどの場所に魔法陣が青白く浮かび上がり、突然少年が現れた。
少年の特徴は黒髪の短髪で、少しサイズが大きめのシャツとズボンに身を包んでいる。
外出するための服装であるとはお世辞にも言えず、部屋で寛ぐ格好そのものだ。
まるで空中に座っているかのように足を組んだ姿勢で、手には湯気の立つカップを持っており、目を瞑って飲み物の香りを楽しんでいるように見える。
そして、そのまま後ろにコテンと倒れた。
手に持ったカップからコーヒーらしき液体がこぼれ、盛大に顔にかかる。
「うあっ! あっっっつ! 熱い熱い熱い! 何だ? 何が起きた?」
どうやら自分の身に何が起きたのか、咄嗟に判断しかねるようだ。
「うわ……やっぱりか。気持ち悪いな」
ジークハルトは顔をしかめながら呟いた。
「そうだぜ。なんだって急に人が現れるんだ?」
「ああ、あれは転移魔法だ。召喚って言ったほうがわかりやすいかな。 あの魔法は前もって転移の起点と終点に魔法陣を描いておかないといけない。な、気持ち悪いだろう?」
「あん? 俺は魔法についてはよく知らねえが、そんなに気持ち悪いことなのか?」
「呼び出されたあいつはフィッツの家の居候だ。フィッツは、自分がニーナにアプローチをかけても解決に至らなかったら、ここでこうなることを想定していたんだな。おそらく、事が動き始めた頃、五日前から、フィッツはあんたの店先と自宅を隠蔽した魔法陣で繋げてたってことだ」
「うえ、なんか覗かれてたみたいで気持ちわりいな」
「まあ、いい気分はしないよな。私が気持ち悪いのは人の行動を全部読み切っている、あいつの頭なんだが」
ジークハルトはうんざりした様子で、溜め息混じりにそう言った。
「ごめんねー、ヒデ。コーヒー奢るから力貸してくれないかな?」
少年は急に呼び出した挙句に負傷させる事態を引き起こしたフィッツを恨めしく睨んでいる。
「ふん……コーヒーの一杯一杯が大切な一期一会。貴様が台無しにしたのは、カップ一杯の液体ではなく、時間であり縁である。この那須秀人とコーヒーとの貴重な巡り合わせ、その埋め合わせが簡単にできると思うな」
「なかなか本気で怒ってるねー。ごめんってば。まー、言わんとすることはわかるけどねー。でもその代わりに一人の人間の命を救うことができると考えれば、どう?」
「え? どういうこと?」
フィッツの言葉に、表情も態度も大きく変わった秀人がきょろきょろと辺りを見回し始める。
そして、少し離れた場所に焼け焦げた建物があることに気付き、さらに振り返って魔力嵐が吹き荒れている光景を目にし、呆けたように口を開けた。
「はあ? どんな状況?」
「えっとねー、見たまんまの状況なんだけどね。今は経緯を話している暇はないから、とりあえずお願い聞いてもらえないかなー」
「お言葉でありますが! ちょっと夜風に当たってくるといって出かけた結果、一軒をこんがり焼いたうえに魔力嵐が起こる、そんなフィッツの日頃の行いの悪さを小一時間問い詰めたい!」
「そんなこと言ってないで早くあの子を助けてあげてよー。完全に閉じてる君には簡単なお仕事でしょ?」
その言葉を聞いて秀人は魔力嵐の中心に目を凝らし、一人の少女を見つけた。
「ああ、大変なことになってるね。もしかしてあの子が最近フィッツがご執心だった子?」
「うん、あの子がニーナちゃん。最高のハーブティーを淹れる食堂の看板娘。あーあ、あの子がこのまま死んじゃって大将の食堂が潰れちゃったら、残念すぎて僕は何をするかわかんないなー。ヒデを至高のハーブティーを探す旅に強制転移させちゃうかもなー」
「はあ、わかったわかった。……本当にろくなことをしないな、フィッツは。でもあの子の命が危険だって言うなら……うん、ちょっくら行ってきますよっと」
秀人は迷いなく魔力嵐に踏み入ろうと歩き始めた。
「お、おいおい! あいつ、入っちまうぞ! 危ねえんじゃねえのか?」
店主は焦って声を上げるが、ジークハルトはまったく取り乱さず、平然としていた。
「彼はヒデト・ナス。特異体質によって、魔力をまったく持っていない。本当にゼロだそうだ。故に、魔力の影響を受けない」
事実、秀人は魔力嵐のなかに入っても何の痛痒も感じていないように歩みを進めている。
魔力嵐の中心ではニーナが、声にならない叫びを上げているような表情のまま、魔力を噴出し続けており、迸る魔力があまりに濃いせいか、僅かに地面から浮いている。
「ふむ……魔力を出し始めてからしばらく経つが、まったく衰える様子がないな。これはフィッツの言う通り、時代の寵児かもしれんな」
ジークハルトはまるで宝物を見つけたかのような表情で、目を輝かせている。
「なあ、ニーナは本当にだいじょうぶなんだろうな?」
店主は、ニーナの危機に際して楽しそうにしている隣の男を見て、このまま彼らに任せて成り行きを見守っているだけでいいものかと不安になってきた。
秀人はニーナまであと数歩のところまで接近した。
その場で一度しゃがみ、おもむろにズボンの裾から小ぶりな投擲用ナイフを抜き取った。
「…っ、あいつ! 何をしようってんだ!」
店主が今にも走り出しそうにしているのに対し、ジークハルトは落ち着けというジェスチャーで諫めた。
「安心して見ていろ。ヒデト・ナスはその体質だからこそ、魔力を断つ鉄の武具を扱える。私達、近衛魔導士団は彼のことをアイアンマスターと呼んでいる」
秀人はニーナの周囲をナイフで切り裂くような動きをした。
発生源のニーナから切り離された魔力は、空中に漂いながらも次第に霧散していく。
「よし、と。このくらい削っておかないと、今のこの子は暴走する魔力で耐性が引き上げられてるのが確定的に明らか」
そう言いながら秀人は、右手に持っていたナイフを左手に持ち直した。
「人災の魔力嵐を止めるには、術者を気絶させればいい。とはいえ、魔力嵐の中心に近付ける人間などそうそういるもんじゃないがな」
「気絶……あんな状態で、ニーナはまだ意識があんのか……」
「ああ、自らの暴走する魔力に飲み込まれてはいるだろうが、今何が起きているのか、大体のところはわかっているはずだ」
「ヒデー! なるべく優しくねー! 現実の女の子にも良い子はいるんだからねー」
「はいはい、わかってますってば。こういう時は……無言の腹パン!」
秀人は腰を落としながら半歩前に足を踏み出し、僅かに突き上げるような角度で放った拳をニーナの鳩尾にめり込ませた。
一瞬、ニーナの身体が綺麗なくの字を描き、そのまま崩れ落ちるところを秀人の腕に支えられる。
「彼女は瑠璃ではない……ってな」
「ヒデ、やりすぎー」
フィッツは魔力嵐が消えたのを確認すると、走り寄ってきた。
「むう……やはり感情が先走ってしまったか。リアル女子は苦手だ」
ニーナは苦しそうな表情で少しの間、秀人の顔を見つめていたが、そのまま気を失ってしまった。