★9 小野寺真冬の偽善
「余計なこと、しないで下さい!!!」
店から出て来た忍が俺に駆け寄ると、財布から取り出した一万円札を押しつけた。
顔が真っ赤になっている。どうやらプライドを傷つけたらしい。
それでも、お札を押しやる。
「いいよ」
「よくなーい!!!
誰も彼も、私のこと、なんだと思ってるの!!!」
どうやら、同行の友人にも奢る奢らないでもめたらしい。
けれど、俺と『彼女』では立場が違うだろう。
「……忍がいつも俺の部屋で食べているケーキの十回分くらいの値段だけど、それはいいの?」
「うっ……」
さらりと事実を述べると、忍は押し黙った。
週末に忍が俺の部屋に来て、ケーキを食べて行くのは、習慣のようになっていたのだ。
会話の中身は相変わらず真雪のことと、宿題のこと。
バイト先の愚痴は決してこぼさない。
「だけど、心情的にそれとこれとは……」
「違う? そうかな?
分割払いと一括払いの違いくらいだと思うけど」
最初の勢いが無くなった。お札を握った手が力なく落とされた。
「その分も……お支払いします。リボ払いでお願いします……」
俯いた忍が絞り出すように言った言葉をすげなく却下する。
「駄目」
「なんで!」
『妹』からお金を取り立てる趣味はない。
「忍のプライドも大事にしてあげたいけど、俺のプライドも大事だから」
「これだけは! お願い、これだけは払わせて!」
もう一度、お札を渡されたので、手を取って押し戻す。また、押し返される。
こういう所だけは素直でない忍と押し問答をしているうちに勢い余って、白いセーラー服越しのふっくらと柔らかい弾力が手に当たった。いや、挟まった、と言う方が正確かもしれない。はからずも手に……お札を握ったまま。
「ごめっ……」
その感触の正体と、あまりにあまりな光景に、思わず動揺してしまう。
「あ、いえ……気にしないで下さい」
わざとではない。
忍も軽く驚いて見せたものの、嫌な顔はしなかった。
俺に触られたくらい、なんのことでもないのだろう。
ちょっとは気にした方がいい。
しかし、こうなってはもうお金は渡せない。
そんなつもりは毛頭なかったが、これではまるで、『何かの謝礼』のように思われないか?
ああ、忍はそんな発想はしなさそうだけど、俺が駄目だ。とにかく、駄目だ。
なぜ俺が固まっているのか、理解しようともしない厄介な自称:男勝りのEカップ娘に、内心の葛藤を悟られない様に、勤めて、冷静に声を掛けた。
「送って行くよ。
どうせ同じ場所に帰るんだから」
「―――分かりました」
お金を返すことに成功したからか、その件は、どうやら承諾してくれる気持ちになったようだ。
レストランの入り口に人影が見えたので、急いで忍を乗せる。
忍が俺を『彼女』に会わせないように苦心しているのは知っているので、それを尊重してあげたかったのだ。
俺は自分を取り巻く陰謀を知っている。
当たり前だ。
首謀者も検討がついている。
母だ。
あの傍迷惑な人は、さらに厄介な趣味を持っていた。
それが『仲人癖』。
これまで数多の恋人たちを引き合わせ、結婚させてきたと自負しているが、内情はとんでもない。
目の付けどころはいいが、大抵、おかしな方向に走ってしまう。
それを軌道修正するのが父の仕事で。
父は本来の仕事の合間に、母が引っかき回した人間関係を修復し、あるべき姿に落ち着かせるのに奮闘していた。
これまた最終的には収まる所に収まるものだから、終わりよければ全て良し、と言うか、母は我が手柄のように喜ぶのだ。
母が喜ぶ姿を見るのが殊の外好きな父は、それだけで大満足で、苦労を忘れ去る。
そんな母が、ついに我が息子にも牙を向いた。
何が、『出会いのプロデュース』だ。
しかも、あんな小娘を選んでくるなんて、俺のこと、なんだと思っているんだ。
俺は父のように、三十間近になって女子高校生に誘惑されるようなロリコンじゃない。
息子への干渉は遅すぎたくらいで、他人が迷惑するよりは良いと思っていたけど、そのせいで、忍が困った目に合っていると分かったら、話は別になる。
上に無許可で配置替えをしたなんて知れたら、忍はバイトをクビになってしまう。
それを知ってか知らずか、惑村嬢はバイト先で危険な火遊びに興じていた。
最初はすぐにでも出会ったフリをして、俺が惑村嬢に全く興味がない様子を見せれば済むと思ったのに、お人よしの忍がお節介をしたせいで、それが出来なくなった。
きっと俺の為に、あの子を遠ざけてくれたんだろうな、と思うと、忍に悪くて、実行に移せなくなったのだ。
こう言ってはなんだけど、忍が『助けてあげないと』と思うほど、俺は頼りなく見えたのだろうか。心外だ。
隣に座っている忍を見る。
伸びてきた髪の毛を、無理やり纏めている。
これまで髪の毛を伸ばしたことが無かったので、どうヘアアレンジしていいのか分からないのだ。
ピンから外れた髪の毛が細い首に何本も落ちていた。
忍がこちらを訝しげに見た。
どうやらじっと見ていたらしい。
慌てて目を逸らす。
「ケーキのことですが……」
借りは作りたくない主義なのは、武熊家全般の気質らしい。もう勘弁して欲しい。
「『妹』が、そんなことを気にする必要はないよ」
殊更、『妹』を強調してみる。
まるで自分自身に言い聞かせているようだ。
「だけど、私もちゃんと稼いでいますから」
知ってるよ、そんなこと。
小野寺清掃の時給は割と良い。
それでも高校生の稼ぐ金額なんてたかがしれている。
自分で稼いだお金で欲しいものもあったろう。
その髪の毛をちゃんとカットしたいだろう。
それなのに、俺の厄介事に巻き込んで無駄なお金を使わせてしまった。
薄暗い店内で、はっきりと見えた白いセーラー服の後ろ姿の持ち主を思い出した。
志桜館学園のセーラー服はひどく目立つ上に、それぞれの中身はともかく美少女揃いだ。店内の注目を浴びていた。
そうとは知らない二人が、ヒソヒソと会話をしていた。
一方は幸せそうに、もう一方は困惑した表情で。
忍を困らせている、と改めて認識した。
何かお詫びをしたいが、お金を受け取るのはお断りらしい。
そこでしばし、考えると、不意にいい思いつきが浮かんだ。
「ねぇ、忍。妥協案として、俺の元でバイトしたと思ってくれないか?」
「はいぃ?」
車の中を、反対車線のヘッドライトが照らした。
明るくなって、暗くなって、そして、明るくなった。
その度に、忍の顔が幼く見えたり、大人びて見えたりした。
また、目が離せなくなった。
やや中性的な顔立ちに、これまた本来は海軍の制服であるセーラー服を着た忍は、不思議な魅力を放っていた。
男の子のような、女の子のような。子供のような大人なような。
どっち付かずのアンバランスさ。
細身の身体に併せ持つ、先ほどの感触の存在に、なぜかひどく喉が渇いた。
「ど……どういう意味ですか?」
俺が提案したまま、黙ってしまったので、忍が戸惑って聞いていた。
我に返る。
「そのままの意味だよ。
説明したけど、あのケーキのほとんどは、うちのカフェの商品開発のものなんだけど。
意見を求められても、正直、よく分からないんだよね。俺、甘いもの苦手だし」
ケーキなんて砂糖の塊、食べなくてもいい。
昔から嫌いだったのに、母親がしょっちゅう作ってはおやつに出してくるものだから、辟易した。
食べないと、母が「真冬ちゃんの食欲がないみたいなの」と大いに心配し、父に主治医の部屋に連れて行かれそうになる、という非常に面倒な事態に直面することになる。
小さい頃、忙しいのにも関わらず、手作りしてくれる母に喜んで欲しくて、嫌いなのに「美味しいよ。お母さまの作るケーキが一番好き!」とか、おべっかを言った罰だ。
未だにその癖は抜けない。つい、他人にいい顔をしてしまう。
ずっと仕方が無く食べていたけど、そのせいで、ますます嫌いになった。
特に、ニンジンとかホウレンソウとかのケーキが苦手だ。
弟たちが苦手な野菜を、どうにか食べさようという苦心なのだが、あんなの子ども騙しだし、俺は苦手な野菜はなかったから、普通に生やお浸しで出された方がずっと良かった。
こっそり懐に隠して、後からよく忍に食べさせていたものだ。
その頃の忍は俺に与えられるものはなんでも、嬉しそうに口にしていた。忍が大嫌いなトマトが入ったパウンドケーキも、イチゴのケーキだよ、と騙して渡したら、喜んで食べきった。
今よりも、もっとずっと素直で可愛かった。
もっとも、「真冬お兄さま、ありがとう!」と礼を言って、汚い手作りの花輪や、下手くそな絵を渡してきたけど。
あれは喜んで貰ってあげて、後でゴミに捨てればいい話だった。
こんな風に、支払だなんだと、駄々はこねなかった。
「つまり?」
なるほど、人は成長する生き物らしい。
さすがの忍も少しは疑うことを覚えたようだ。
割の良いバイト話を語る男に胡散臭そうな視線を向けた。その警戒心をもっと広く持って欲しいものだ。
そして、この場では捨てて欲しい。
「つまり、俺の代わりにケーキを食べて、感想を言ってもらえると、助かる。
助かった……だな。
この間のケーキに対するの意見をそのまま役員会で発言させてもらった。
恰好がついたよ。俺じゃあ、どんなに考えても、何も浮かばなかったからね」
「本当ですか!?」
思わぬ所で褒められて、忍は身を乗り出した。
その弾みで、シートベルトが胸の間に食い込んだ。
それは気になるらしい。慌てて、シートベルトを引きはがす。
「本当だよ。とても助かった。忍のおかげだ。ありがとう」
「―――でも、私、何を言ったかしら?
美味しかったのは本当だけど、気の利いたことなんか……」
「なんだ、忘れちゃったのか? まぁ、すっごく感動していたようで、ほぼ譫言みたいだったからね」
「ええ! 嫌だ。何それ、恥ずかしい!」
恥ずかしがることはない。
「なにこれ、美味しい!」としか言ってないから。
ケーキ代の対価として、忍が納得出来る理由があればいいんだろう?
そんなもので良ければ、いくらだって作り上げられる。
忍は単純でいい。
「真冬兄さまのお役に立てることがあって、嬉しいです!」
ほら、こんなにも簡単に舞い上がってくれる。
さっきまでの狐と狸の化かし合いのような接待の席での憂鬱な気分が晴れる。
癒し系の笑顔込みで、ケーキ代を払っても、まだ足りないくらいだ。
今日の料理代も受け取ってくれればいいのに。
自分の手腕に満足してたら、不意に、忍がよく分からないことを言い始めた。
「でも、だったら、なおさんに食べてもらって、意見を聞けばいいのに」
『なお』? 誰だ?
「ラボで探していましたよね? なおさんを」
なお? なーお? 猫か? いや、まさか、七緒のことか!?
脳裏に七緒の顔が浮かんだ。
「なんで七緒にケーキを食べさせないといけないんだよ!」
いきなり出てきた奴の名前に、戸惑いながら聞いたら、衝撃の答えが返って来た。
「……彼女さんなんじゃないんですか?」
「はぁあああああ???」
待て! なんであいつが俺の『彼女』になるんだよ!
俺の把握していない変な噂が流れているんじゃないだろうな?
「違うよ!」
思いっきり否定すると、その剣幕に忍は驚いたようだ。
この子の前で、あまり喜怒哀楽の激しい所を見せたことはなかった。
「大きな声を出してごめん。
でも、誤解だから。勘違いだから。
七緒はただの友達だから。
いくら彼女がいないからって、七緒とそんな関係になる訳ないから!」
幼い頃から知っている少女に、必死になって弁解していた。
それなのに、「私は真冬兄さまが誰と付き合っても応援しますよ!」と、力強い言葉を頂いてしまった。
「だから、違うって」
「秘密の恋人なんですね。
分かりました。内緒にしてあげます!
だけど、なるべく早く紹介してあげた方がいいですよ。
……恋人さん、きっと不安だと思います。
真冬兄さまが選んだ人なら、誰も反対したりしませんから!」
あーあ。
どうしてくれようか、この娘。
思い込みが激しいのも、うちの母、そっくりだ。
俺は脱力して、誤解を解く気力もなくなったと言うのに、忍の方は、負債を返済してすっかり気が楽になったのか、さっき食べた高級イタリアンについて語り始めた。
なんでもティラミスが絶品だったそうだ。
それは良かったな。あれ、グズグズしてて、俺は嫌いだ。
けれども、忍が気に入ったのならば、文句はない。
「美味しいティラミスのお店を知ってるから、今度、買ってきてあげるよ」
今夜の中身の無い会合で、唯一、役に立った情報が「私の知っている美味しいティラミスの店について」という、その時は、どうでもいい上に、もう帰らせてくれ、と聞き流しそうになった雑談だったとは……。
こうして忍を送って行くことも出来たし、あの狐と狸には感謝してもいいくらいだ。
「え!? いいんですか?……あ、駄目! ご遠慮します!」
他の店のケーキでは、自分が役に立つことはないと瞬時に悟ったらしい。
そこは、もう少し無警戒でも構わないのに……つまらない。
俺もこれ以上、忍を自分の部屋に招くのはよくないと思いつつも、なんとなく名残惜しい。
でも、そうだな。
この無防備、無自覚、無警戒、無頓着、無意識な『妖怪』とは、関わらない方がよさそうだ。
「そう……残念だけど、忍がそう言うなら仕方がないね。
もし、食べたくなったら教えてくれ。
御馳走するから」
「―――わ、分かりました」
なぜか、忍はまた、落ちこんだ。
そんなにケーキを食べたかったら、そう言えばいいのに。
こちらからは、もう誘えないぞ。
二人、黙ったまま、車は小野寺邸の正門についた。
門衛が車を通す。
同乗しているのが武熊家の『お嬢さま』だと知って、軽い驚きの顔を見せた。
まずい……本邸まで連れて行く所だった。
忍を降ろして、見送った。
白いセーラー服が小さく消えて行く。
「真冬さま、もう出してもよろしいでしょうか」
運転手から声を掛けられた。
「え?……ああ、勿論」
何を言っているんだ?と、昔馴染みの運転手の顔を見た。
口の端がわずかに笑っていた。