☆7 武熊忍の嘘
惑村楓は思った通り、男子の目からみてとても可愛い部類に入っているらしい。
私と同じく、彼女の配置変えを了承した男性社員と共にラボに入った。
ここに私が入っていいのかな、と思っていると、件の社員が嬉しそうに言ってくれた。
「忍ちゃんが変わってくれて良かったよ。
さすがに新入りをここに任せるのは、いくら命令でもちょっと、ねぇ。
忍ちゃんなら随分、慣れたし、力持ちだし、なんと言っても、小野寺家をお守りする武熊家のお嬢さんだから、安心してお願い出来るよ。
ああ、でも、俺があの子と君が変わるのを了承したのは内緒ね。
どういう事情か知らないけど、あの子、社長の覚えが良さそうだから。
会社、辞めさせられたら困る」
「言いませんよ。
私もバレたら困ります」
嫡男の見合い話を潰そうとしているんだもの。
……しかし、ここで出会いはなくても、見合いはするのよね?
その時、真冬兄さまはどういう反応をするのかしら。
若い女の子を差し出されて喜ぶかしら?
いいや、真冬兄さまはそんな人じゃない。
結婚相手は年とか顔とかじゃなく、中身で選んでくれるはずだ。
そうじゃないと、お仕えする私がガッカリだ。
「さてと、では、始めようか」
大急ぎで仕事の内容を説明してもらう。
惑村さんの事情を聞いたせいで、時間がおしているのに、特別な場所の清掃だなんて、難易度が高い作業だ。
それでも私は楽な場所を任せてもらえた。
あの子、どれくらいここで働くのかしら?
本人はバイトに関してはやる気満々だけど、成果が出なければ、他の作戦が発動するんじゃないのかな。
それとも粘るのかしら?
どちらにしても、とばっちりなのは、私たち、一般の社員とバイトだ。
お願いだから、お見合いは普通にして。
「下手な小細工なんかしても、真冬兄さまは騙されないって」
つい声に出して言ってしまった。
だってここ、誰もいないんだもの。
白い清潔な壁と床が延々続く廊下―――。
「誰が俺を騙そうとしているって?」
「うわぁ!……真冬兄さまぁ???」
人気がないはずなのに、よりにもよって真冬兄さまが立っていた。
しかも、この私がその気配に気がつかないなんて……おそるべし、小野寺家の嫡男。
そして、なぜ、白衣なんか着ているんですか?
そう言えばここ、研究所だった。
「やぁ、忍。ついにここを任されるようになったんだ。頑張ったね」
自分に対して、上の方がよからぬ企みをしていると知らない真冬兄さまは、単純に私の仕事ぶりが認められたのだと誤解した。
私まで詐欺の片棒を担いでいるようで心苦しい。
惑村さん……迷惑だわ。
「ちょっと……その、本当の担当の人の都合は悪くて……その代わり……かな?」
背中に片手を隠し、指を交差する。
嘘を付いてごめんなさい。
「―――へぇ、そうなんだ。
でも、代わりでも選ばれたのはすごいよ」
「と、ところで!
真冬兄さま、なんで白衣なんですか?」
手放しで褒められて申し訳無さでいっぱいになったので、話題を逸らす。
それに、気になっていることだった。
「研究者だから」
「?」
「俺さ、アメリカの大学で化学の勉強していたんだ。
だから、ここには研究職でいるの」
知らなかった。
理数系にやたら強いと思ったら、そんなに専門的な知識があったのか。
「でも、小野寺の跡取りなら……」
もっと経営者っぽい勉強をして、役職につくと思っていた。
けれども、最後まで言えなかった。
目の前の真冬兄さまが、これまで見たことのない寂しそうな顔をしたからだ。
もっとも、すぐに元の穏やかな顔に戻った真冬兄さまが意を汲んで説明してくれた。
「期間限定でね。
あと一年、ここに居たら、移動する。
ちゃんと小野寺家の跡取りとして修行するから、安心していいよ。
今だって経営会議とかには出席している。こう見えて、取締役兼任だからね。
あれ? 俺、忍の上司なのに、今回の人事、まったく知らなかったな」
「なんでだろう?」と私の顔を覗き込む真冬兄さまから距離を取った。
言えない。
あなたを結婚させようとしている勢力があって、それを利用するしたたかなお嬢さまがいて、私はそれに巻き込まれてここにいる、なんて。
「さっきも言ったように、臨時ですから!」
「……ま、いいけど。
頑張っている忍にコーヒーでもごちそうしてあげよう」
自分の研究室なのだろうか、部屋のドアを開けてくれた。
「いえ、いいです!」
「遠慮しないで」
「仕事中ですから! 結構です!」
これ以上、話していたら、墓穴を掘りそうだし、本当に仕事中なので断った。
気を悪くするかと思ったけど、真冬兄さまは「それもそうだね。仕事頑張るんだよ」と、すぐに納得して去って行った。
「なおー、なーお? どこにいる」
別れてすぐに、廊下に真冬兄さまの声が響いた。
誰か探しているようだ。
なお? 女の人の名前?
そうか! 家族の人や重役連中が知らないだけで、真冬兄さまには彼女がいるんだ!
だから、期間限定だけど研究職にいて、二人でラブラブの時間を楽しんでいるんだわ!
その人は、知的で大人で、眼鏡なんかかけている、真冬兄さまにピッタリのクールビューティーに違いない。
ざまぁ、みろ。
私は惑村さんに勝ち誇った気分になった。
なぜか真冬兄さまが、自販機の下や、ゴミ箱の陰を覗いているのは敢えて見ないようにした。
猫じゃないはずだ。
だって、この静謐な研究室に、猫は入れないだろう。普通。
バイトを済ませて家に帰ると、真雪は稽古を済ませて本邸に戻った後だった。
残念無念。
「これ、忍にって置いていったぞ」
すぐ上の真兄が、例の雑誌とお菓子の入った袋を渡してくれた。
私が好きなお菓子の、新しい期間限定の味のものが入っていた。
「真雪さまの雑誌なんだから、手を洗ってから読めよ」、「お菓子を食べながらは読むなよ」と口うるさく言う兄に、生返事で自室に籠った。
ベットに身を投げ出す。
なんだかバイトする気力が失せてしまった。真冬兄さまの為とはいえ、嘘をついて勝手に配置替えをするなんて気分が悪い。
「辞めたいなぁ」と呟いた。
でも、誰にも相談出来ない。
一番相談したい真冬兄さまに出来ないのが最も辛い。
せっかく真雪が置いて行ってくれた雑誌も、頭に入らなかった。
私はその時、とても嫌な予感がしたのだ。