☆4 武熊忍の初恋の彼
「まずい……完全に遅刻だ」
朝稽古の後、昨日やりそびれた宿題をやっていたら、家を出るのが遅くなってしまった。
あの一問さえなければ、終わっていたのに。
なにあの問題! 難しすぎる!
私は真雪みたいに頭が良くて志桜館学園に入学できたのではない。
ずばり、スポーツ推薦だ。
文武両道を旨とする学校は、たとえスポーツ推薦でもある程度の学業の成果を要求する。
学業が悪ければ、部活動の停止すらあり得るのだ。
「ああ、昨日、真冬兄さまに教えてもらえば良かった。
真雪のことよりも、まず相談すべきはそっちだったのじゃないかしら?」
結局、途中までしか解けなかった。
我が家の母親は、どんな状況でも絶対に娘に朝食を取らせる。
そんなことをしていたら、当然、もう間に合わないような時間になっていた。
慌てて自転車で家を出る。
ちょうど小野寺邸の正門の入り口で真雪の乗る車に出くわした。
お坊ちゃまは車通学なのだ。
普段の朝の光景では、私が先に出て、途中で真雪の車に追い越される。
渋滞と、信号の関係で、私の自転車が追い抜き、またすぐ追い越される。
些細なことだけど、楽しい通学時間となる。
しかし、高校の門ではなく、小野寺邸の門で出会うのはいけない。
それは即ち、私が遅刻しそうになっていることを、真雪にも知られるということなのだ。
車は私の側で静かに止まり、窓が開いた。
「おはよう」
窓から真雪の綺麗な顔が見えた。
笑顔が眩しい、むしろ、神々しい。
朝から眼福だわ。
「お……おはようございます」
お坊ちゃまと使用人の娘なので、私は努めて敬語を使うようにしている。
真雪はそれは気に入らないみたいだし、私もそうはしたくないが、かと言って、幼馴染を振りかざして馴れ馴れしくしたら、嫌われる恐れもある。
こちらも難問だ。
「寝坊でもしたの? 今からじゃ遅刻するよ。
乗っていく?」
わーお。
好きな相手と一緒に通学なんて憧れるシチュエーションだ。
運転手付だけど。
「えっと、ありがたいけど、やめておく」
「なんで?」
不思議そうに首を傾げる姿が朝日に輝く。
なんか目がチカチカしてきた。
遅刻は防げるし、真雪と並んで座れる絶好の機会だけど、冷静に考えればそれは無理だった。
学校一の人気者の真雪と一緒に通学だなんて、他の女子生徒に見られたら大騒動だからだ。
私と彼が幼馴染で、建物は別とはいえ、同じ敷地内に住んでいることをやっかんでいる子も多いから。
けれども、真雪はそんなこと、気がついていないだろう。
「早くしないと遅れるよ?」
「ごめん、気持ちだけ! ありがとう、でも、気にしないで! 大丈夫、自転車でも間に合うから!」
「―――もしかして、それ、何かの修行とか!? それをやったら強くなれるのか!?」
はぁ?
きらきらとした瞳で見られて困惑する。
修行って何よ。
そんなの年頃の女子高校生がするか!
おまけに「俺も修行する!」とか言い出さないで。
運転手さんが困っているじゃないの。
もうとっとと車を出して下さい。
私の気持ちを察したのか、「しゅぎょー」と叫ぶ男を乗せたまま走り出した。
真雪って、無邪気なのよね。
大金持ちのお坊ちゃまなのに、全然、俺様でもなく、無邪気だ。
「忍? 何、道の真ん中でにやけている。遅刻するぞ」
また一台、車が私の側で止まった。
今度はこの家の嫡男さまだった。
「真冬兄さま! おはようございます!」
「で、乗っていく?」
兄弟揃って、私を遅刻させまいと車に誘ってくれる。
顔は似ていないけど、性格が優しいのは小野寺五兄弟に共通している美徳だ。
お仕えしがいがある。
「ありがとうございます。
でも、大丈夫ですから」
ここでも断りを入れたが、兄の方は『修行』なんて誤解はしなかった。
「いけないよ。
急いで自転車を運転したら事故を起こしてしまうかもしれない。
加害者になっても、被害者になっても、忍だけの問題じゃないんだよ」
大人になるといろいろなことを想定するものだ。
私が感心していると、真冬兄さまは車を降りてきた。
正門の警備員に視線を送ると、彼はすぐにすっ飛んできて、お辞儀をした。
「忍の自転車を家に持っていくように誰か呼んで」
それから、有無を言わせぬ調子で「さぁ、乗って」と私を車に押し込んだ。
「……そう言えば、さっき真雪の車も見たけど、あいつは忍を置いて行ったのか?
気が利かないな」
「違うの!
真雪も誘ってくれたのだけど、断ったの」
「なぜ!?」
私に続いて車に乗り込んできた真冬兄さまに事情を説明すると、眉を顰められた。
「真雪との関係で、他の人間がとやかく言うようなら相談するんだよ。
まったく、変な憶測で忍がいじめられたら大変だ……と言っても、忍はそういう関係になりたいんだよね?」
「ちょっ! 大きな声で言わないで下さい。
聞こえちゃうでしょう?」
当然、真冬兄さまが車を運転している訳ではない。
運転手がいる。
私と真冬兄さまは後部座席に並んで座っているのだ。
「分かった。ごめん。
でも、本当に何かあったら言うんだよ」
「大丈夫ですよ! この私にそんなことするような人間がいたらぶちのめしてやるんだから!」
真冬兄さまを安心させようと、力強く言ったら、やれやれというように肩を竦められた。
「だからだよ。忍が同級生相手に凶行に走る前になんとかしてあげたいんだよ」
「あー。そうですね……」
『お前の拳はもはや武器。一般人にふるう勿れ』とは祖父からの訓戒だ。
お嬢さまな真雪のファンたちなんて、ひとたまりもないだろう。
反省。
「気を付けます」
「そうしてくれ」
重々しく頷く真冬兄さまに、私は閃いた。
「―――そうだ! 相談! ありました!!!」
「何?」
損なのか得なのか、大家族の長男に生まれた彼は人に頼られるのが好きだ。
顔に優しげな微笑が戻る。
鞄の中から宿題のノートを取り出す。
親切ついでにこの問題も教えてもらおう。
図々しい使用人の娘に、真冬兄さまは嫌な顔一つせず、承諾してくれた。
とても詳しく、懇切丁寧に教えてくれた。
真冬兄さまはいい人だな。
顔も真雪ほどじゃないけど……と言うか、違う方向性で良い顔立ちをしている。
生まれた時から『大人』だと思っていた真冬兄さまも、勿論、そうではなく、五年ぶりに帰って来たら、青年から一人前の大人になっていてたのね。
こんな風に間近に見ると、それがよく分かる。
温和な表情は変わらないけど、精悍さが増したと思う。
ノートを指差す手も綺麗だし、なんかいい香りもする。
同じゴツイ系だけど、汗臭い兄たちとは大違いだ。
そこは、さすがにいいところのお坊ちゃま故、だろう。
「と、これをこっちの公式に当てはめれば出来あがり。
分かった? 忍?」
「えーっと、ごめんなさい、もう一回お願いします」
逞しい横顔に見とれてしまって、上の空でした、とは言えない。
こんなに親身になってくれた人に失礼だ。
「ごめん。分かりづらかった?
じゃあ、もう一回」
「ありがとうございますー」
絶対的にこちらの態度と頭が悪いのに、真冬兄さまは、自分の教え方を反省する。
本当に、なんていい人。
真冬兄さま、大好き! ……いや、そういう意味ではなくてよ。