☆2 武熊忍の女子力
小野寺家の嫡男は優しい。
こんなしょうもない堂々巡りの相談を辛抱強く聞いてくれる。
わざわざ美味しいお菓子まで用意して、自室にこっそり呼んでくれる。
こっそりなのは、大ぴっらに訪れるのは問題があるからだ。
私だって分かっている。
最初の頃は、真冬兄さまの部屋に入るのを迷ったのだ。
彼は五年ぶりに小野寺邸に帰って来たので知らないのだ。
私が真雪を含む他の小野寺家の兄弟の部屋に、ここ五年、入ったことがないのを。
十二歳の誕生日に、母から厳しく言い渡されたのだ。
『これからはもう、小野寺家のご兄弟とは、きちんと線を引いて接しなさい』と。
そう言われてから、兄たちも、中学生頃になると、小野寺家の兄弟とは主従のような態度に変っていたことに気が付いた。
『もう大人なのだから、主家の息子さんと馴れ馴れしくしてはなりません』
母の言う通りだ。
しかし、母はついでに余計な一言を付け加えた。
『特に、忍。あなたは女の子なのだから。間違いがあってはいけません』
はぁ? とその時は反抗的に思ったものだ。
何よ、娘を男の子と同じように育てたくせに、突然、女の子扱いだなんて。
それに、子犬のようにじゃれあって遊んだ私たちが、そんな色っぽい関係に、なるはずがない。
けれども、それが切っ掛けで、私は真雪を異性として意識してしまうことになってしまったのだ。
真冬兄さまも男だけど……まぁ、三十路のおじさんだし、無害なクマみたいな人だから、関係ないか。
他の小野寺家の兄弟たちから、なんだか距離を置かれているようで寂しかったこともある。
兄たちは、線引きをしているとはいえ、よく集まってはバカ騒ぎしているのに、私は除け者なのだ。
小さい頃は「混ぜてよ!」と押し切れば輪に入れてくれたのに、今は無理だ。
『女の子は駄目』
昔と今と、同じ言葉でありながら、内容の違う拒絶。
腹が立つ。
好きで女の子に生まれてきた訳じゃないのに。
真雪と恋人になれなかったら、本当に女の子に生まれてきた意味なんてないと思う。
そんな中、昔のように接してくれる真冬兄さまと、美味しいお菓子は、私の癒しだ。
帰って来てくれてありがとう!
「このお菓子、美味しいですね!」
とりあえず、ここ一週間の真雪との進展の無い経緯を報告し終わった私は、目の前のお菓子に手を出した。
レモンのケーキだ。
「だろう? 小野寺のカフェで今度出すケーキの試作品だよ。
ウィークエンドシトロンって言うんだ。
今日の役員会で配られたから、忍に食べさせようとこっそり持ってきたんだよ。
お茶もどうぞ」
ああ、真冬兄さまってなんて良い人。
使用人の娘に、手ずから紅茶まで淹れてくれる。
なんでお嫁さんがこないのかしら?
やっぱり仕事が忙しいから?
「そう言えば、今はなんの仕事をしているんでしたっけ?」
「―――忍、君は自分の上司の顔を知らないの?」
また苦笑された。
それでピンと来た。
「え! 小野寺清掃にいるんですか!!!」
小野寺清掃は小野寺グループの一つで、真冬兄さまの祖母が創設した会社だ。
これまた彼の祖父が作った小野寺出版と、さらに現当主である父親が立ち上げたカフェ事業と合わせて、グループ内でも特に重要視されている。
さすが御曹司。大事なところを任されている。
『上司』と称したのは、私が小野寺清掃でバイトをしているからだ。
「一介のバイトがそんな重役レベルの人の名前知る訳ないでしょ!
上司ってレベルじゃないですよ!!!」
「まったく、いずれ小野寺警備保障に入って、身辺警護してくれるんじゃないのか?
その為の社会勉強でバイトしていると聞いたぞ。
自分のいる会社の組織や人事について把握しておくのも仕事のうちだよ」
「……気を付けます」
そうでした。
本来はバイト禁止の志桜館学園高校の生徒にも関わらず、特例の『家計の為』でもなくバイトが許可されているのは、すでにもう、将来を見据えての両親の教育なのだ。
私は武熊の娘として、将来的に小野寺家をお守りする役目を果たすのだ。
兄たちも高校生の頃は、各々の会社に潜入してバイトし、大学を卒業したばかりの長兄はすっかりいっぱしの警護人として勤めている。
「明日もバイト?」
「そうです」
「もう慣れた? 困ったことがあったら相談するんだよ」
さっき注意して私が気落ちしたのを見て、すかさずフォローが入った。
基本、飴ばかりの人なので、たまに入る鞭が身に染みるのだ。
本人もそれが分かっているのだろう。鞭の後の飴は、思いっきり甘い。
「バイト先では特にないですよ。
力仕事は得意だし、みんないい人です」
「そうか、忍は真雪以外のことで悩みはないか……」
「なんですかそれ、人を色ボケみたいに言わないで下さい」
「そこまでは言ってないよ。
乙女だなぁと思って……」
「乙女!? 私が!? 止めて下さいよ、兄や友人たちに女子力ゼロって言われている私に、もっとも遠い単語ですよ!」
内心、自分でも真雪に関することだけは『乙女』だと思っている。思っているが、面と向かって言われると気恥ずかしい。
真冬兄さまは私の男の子みたいだった過去も知っている。ますます、居たたまれない。
「私、これから父と稽古があるんです! 帰ります! ケーキ、ごちそうさまでした! とっても美味しかったです。これ、きっと人気になりますよ」
立ち上がって窓に向かう私に、真冬兄さまが声を掛けた。
「稽古? ああ、そうだ、合気道の全国大会で優勝したんだって? おめでとう」
しまった、その話が残ってたか……。
『妹』の戦果に誇らしげな『兄』に対し、私の気持ちは複雑だった。
「めでたくない!!!」
「優勝者がその言い草とは、他の選手に失礼なことだね」
やや怒りを含んだ声が戻ってきた。
私に負けた人たちのことでも考えているのだろう。本当、小野寺の若様はお優しい。
「だけど、また真雪に引かれた!
合気道大会で優勝する女なんて、怖くて近寄れないじゃない!」
「だからって、真雪の為に合気道を止めたりしないよね?」
「それは……勿論……だけど……」
将来の夢を考えると、合気道も、同じく習っている空手も止めたくはない。
そこがジレンマなのだ。
「頑張っている女の子は素敵だよ。
うちの弟は、そんな子を馬鹿にするような人間じゃない。
忍は可愛いのだから、もっと自信を持ちなさい」
真冬兄さまの優しは底抜けだ。彼には私が健気な乙女に映っているのかもしれない。
うげぇ……自分で言って、気分が悪くなった。
「―――分かった。頑張ります」
「そう? ところで、窓から出入りするのは止めてくれない?」
「駄目です。小野寺邸の廊下を私がのこのこ歩いていたらおかしいでしょう」
「落ちたら危ないよ。別に悪いことをしている訳じゃないのに」
―――悪いこと、していますよ。
小野寺家の嫡男の部屋にこっそり入り浸っているなんて母に知られたら大目玉だ。
「また遊びに来たいんです。
見つかったら、禁止されちゃう。
だから―――ね? 大丈夫ですよ。
木登りは昔から大の得意ですから」
真冬兄さまの部屋は小野寺邸の東翼と呼ばれている部分にある。
コの字型の建物の東側である。
そこの二階。
側に大きな木が生えているので、そこから出入り出来るのだ。
もっとも、真雪は無理だろう。
完璧超人の真雪は、実は高所恐怖症だからだ。
そういうことを知っている時点で、煙たがられているんだろうな……なんて、余所事を考えてしまったせいで、窓枠から木に乗り移る段階で、足を踏み外しそうになった。
すぐに腕力でリカバー出来たのに、慌てた真冬兄さまが私を抱き留めた。
「―――ほら! 言わんこっちゃない!
ドアから帰りなさい!!!」
「――――――は……い」
普段なら絶対にこんな従順に言うことなんか聞かないのに、私はその時、父親でもなく兄でもない男の人の肉体の感触に動揺してしまっていた。
男の人?
うん、そうだ。
真冬兄さまは男の人だ。
でも、だから何?
小さい頃から優しくて親切なお兄さんじゃないの。
実の兄たちよりも、ちゃんと『妹』として可愛がってくれた。
十二歳も年の差があるおっさんだ。
気にする方がおかしい。
それよりも、いかに小野寺家の家族、及び使用人たちに見つからずに自宅に戻るかが重要だ。
真冬兄さまからバイト先での私の心構えについて苦言があったが、小野寺邸に関しては違う。
警備の人間の巡回や使用人たちの動き、監視カメラの死角までばっちりだ。
木を伝って降りるよりは面倒で時間がかかったが、私は無事に、誰にも見つからず家に戻って、何食わぬ顔で父親との合気道の稽古に臨んだ。