常陸小田氏の乱 狐女の祟り(二)
「鎌倉殿、御重篤」
彼の近習から告げられ、花萩はその場に崩れ落ちそうになった。
昨年の若犬丸の挙兵では自ら指揮をとり、進軍した氏満である。
此度も叛徒の居場所が知れるや、奮い立つようにして小田城攻撃の指示を出し、その矢先に彼は倒れた。
氏満は体が弱く、また、自分の陰の気がどう影響するかわからない。
――その分、気を使って接していたのに。
愛する人と死別するなど、いつだって胸が張り裂けそうになる。
氏満の寝所近くから読経が聞こえる。
遍照院頼印の声だ。
氏満たっての願いで臨時の護摩壇を設け、病気快癒の祈祷が施されていたのである。
――頼印の祈祷に何の功験があるものか。
そもそも祈祷の指示が出せるまでに回復したのは、医師の適切な治療と花萩の献身的な看病があってこそだ。
――どうして殿は、あんな嘘くさい坊主の言うことなんか信じちゃうのかしら。
手にしていた扇を強く握り締める。
しかし、頼印のいる間は氏満のそばに寄れない。
昨日お世話をしていたときのようすから今どうのというわけではない。けれど、居ても立っておられず、
――そうだ。私もお経でも読もうかしら。
と思いつく。
半分は頼印への嫌がらせである。
――でもどんな神仏にお願いしようかしら。ちょっと前から妙見さまは平氏の護法神ということにされてしまったし、最近は東国のお稲荷さまも霊験あらたかって聞くけど、やっぱり源氏の守護神八幡さまが一番かしら。けど、何かひっかかるものがあるのよねぇ。
神仏の世界も信仰する人間の数や質によって、その通力が左右される。人々の信仰こそ神々の成分であるのだ。多くの人間に崇められれば、神仏はその力を増し、信仰が廃れれば神仏の力も廃れる。が、人間の他にも狐女のような『妖し』も数にいれねばならぬか。
――この数百年で神仏の在り方もいろいろあったわよねぇ。
妙見菩薩の信仰は、将門と唯一敵対しなかった叔父、良文の一族千葉氏へと受け継がれた。
清盛のころは格下扱いされた稲荷の本地茶枳尼天も、他の神仏と結び付き、次々と神階を上げた。
八幡菩薩は、この鎌倉では言わずと知れた源氏の氏神であるが、託宣の神という性質上、将門が最初でも最後でもなく、人々から政治的な利用のされ方をしている。
そして将門といえば、その強さと反逆精神、悲劇的な最期から御霊信仰を経て、武州の神田明神を中心に関東一円で神として祀られているのだ。
――神さま仏さまって何なのよ、もう。
人間世界にはまり込み、そこから抜け出せない孤独な妖し、狐女。
彼女の迷いは深く、だからこそ節操のない頼印のような坊主を憎むのである。
さらに頼印と経といえば、一昨年ものすごく嫌な思いをした。
氏満の重厄を取り除くとかで、前回の『重厄』からさほど過ぎてないというに、たいそうな式法めかせ、仁王経を施した。
仁王尊は仏法守護の一対の神、その勇猛な力士像から健康の象徴とされるため、病弱な氏満の厄払いには相応しくもある。
しかし仁王経は、護国三部経の一つ。かつて将門が乱を起こした際、朝廷が諸寺社に転読させた調伏の経でもあった。
――よりにもよって、何も・・・・・・
花萩としてみれば何かの嫌がらせとしか思えなかった。
もちろん頼印が、狐女の正体や将門との関係に勘づいているわけではない。
だが、彼女が頼印をいっそう疎ましく思うには十分であった。
花萩は気を取り直し、
――とりあえず、お経なら何でもいいか。こういうのって、気持ちが大切だから。
侍女たちを集め、数珠を爪繰り、適当な経を口にした。頼印たちへも聞こえるように。
――ふんっだ。あんたたちに何の御利益もないんだから。私のお祈りで殿を助けてあげるんだから。
見えない力。それは信じることから始まるのである。
氏満の寝所から祈祷の声が止んだ。と、間もなく、どかどかと音を立てて、複数の足が近づいた。
障子を開け放していたので、足音の主が誰か、すぐに知れた。
侍僧を引き連れた頼印である。
「御前、ここには、御所殿の回復を願わぬ輩がいるようですな」
「まぁ、いったい何のことでしょう」
花萩は扇で顔を隠しながら、しれっとして答える。
「拙僧の祈祷を邪魔しておいて、『何のことでしょう』もないと思うが」
「私はただ、殿のご病気の回復を願うばかりに、お経を唱えていたのです。何も僧正さまの邪魔をしようなどとは思ってもいません」
花萩の答えは非の打ち所がない。最初から言い訳まで考えて、経を唱えていたのである。
「では、なぜ私が仏眼法を修している最中に、他の経を唱えたのです。御前のなさっていることは嫌がらせ以外のないものでもありません」
頼印は怒りを顕わにし、払子の毛束を花萩に突きつけた。
「あら、ばれた?」とは狐女も口に出さず、心の中で舌を出す。
だが、その気色はありありと目の色に出る。
「まったくとんでもない女だ。御所殿の大事に」
頼印は首を振り、「このような邪な女がそばにいるから御所殿は病を得たのだ」
疫病神でも見るような目で見る。
――何、それ。
坊主憎さに経など唱えてしまったが、しかし、そればかりではない。
――私だって、殿のご回復を祈っていたのに。
唇をぎゅっと引き結んだ。
氏満への思いを否定され、花萩の目尻はつり上がり、獣じみたものになる。
――あんたなんて、私が本気出したら一ひねりであの世行きよ。
部屋の空気が一瞬にして禍々しいものとなる。
人々の肌が一斉に粟立ち、彼らは寒気を覚えた。
無言で睨みつける花萩に、頼印は気圧され、
「まぁ、何にせよ、これからは慎まれてはいかがか・・・・・・」
尻つぼみに言葉を濁し、来たときと同様、侍僧を引き連れて部屋を後にした。
――いけない。私、今、人を呪った?
張りつめていた空気がしぼみ、我に返る。
呪いは口に出すばかりではなく、心に思っただけでも呪いとして成立する。しかも相手は氏満の病気平癒を祈る高僧であった。
――まかり間違って、あの人に悪い影響が出なければいいけど。
果たして、その晩、氏満は高熱を出し危篤となった。
三日後、幸いに危機を脱した氏満であったが、彼が患ったのは瘧病である。熱が下がったかと思えばまた上がる。それを何度もくり返し、床上げがなったと喜んだ後もぶり返し、予断を許さない。
花萩は手ずから看病をと思ったが、考えるところあって氏満の枕元を離れた。
『あなたは誰かを呪ったときに、自分を厄神に落としたのよ。呪いそのものになってしまったのよ』
寒川尼の言葉を思い出す。
――それだってもう二百年近く経っているのに。
将門が死んでから数えれば四百年以上が過ぎている。
――私はまだ自分自身の呪いから抜け出ることができないのかしら。
さらに、追い打ちをかけるように、
「御所殿のお近くには悪しき女狐がおります。疫病神のようなもので、あの者が御所殿のそばにいる限り、回復は望めないでしょう」
頼印は己れの祈祷に効果がないことを花萩のせいにし、側近たちに言いふらしているのだ。
――女狐だの、疫病神だの、あて推量にしてはいいところ突いてるわね。
ついでに花萩の心も突いた。
自分が氏満のそばにいるだけで彼の命を縮めるということ。
――この呪いはいつ解けるの? そもそも呪いとは何なの?
将門もその縁者も皆殺しになって、
「秀郷も、その血を継ぐ者たちも、みんないなくなってしまえ!」
あのころは、そのくらいの気持ちでいたけれど。
時代の間に間に、秀郷の末裔は政変で失脚した者、合戦で討ち死にした者は数多いた。狐女も龍神の隙を見ては直接間接に祟り、呪い殺したこともあったが、秀郷の子孫は日本中に拡がり栄えた。ただし、嫡流たる小山宗家は若犬丸一人となって途絶えようとしている。代々下野南部に根を張った一族が彼の代で。
『地は血さ――』
義政が遺した言葉。それがどんな意味であったものか、今となってはわからない。
だが、秀郷の守ろうとした土地から彼の血を継いだ者が絶え、あるいは去れば呪いは終わりだと。自分を解放する言葉だと思いたかったのに。
たった一人残された彼の正嫡。
若犬丸がいる限り、彼に子孫が続く限り、呪いは消えないのだろうか。
ならば自分は愛する人を死なせる運命にあり続けるのだろうか。
――わからない。
だが、その恐怖から逃れるために、呪いが呪いでなくなるために。
――ねぇ、若犬丸、あんた、試しに死んでみてよ。
自分より何より大切な人に生きていてほしいから。
――ねぇ、寒川尼、あんた、私に『うかつなことは口にしないほうがよかった』なんて言ったけどさ。あんたも相当うかつなことを言ったわよね。私に『呪いそのもの』なんて言ってさ・・・・・・
こうして、小山宗家最後の子どもを死に向かわせたのだから。
翌八月下旬、氏満は健康を取り戻した。
「先日私めの施した仏眼法が効いたのでありましょう。それより前、某寺院のなにがし殿が北斗法を修したそうですが、これが全く効き目なく。ほほほ、やはり瘧病には仏眼法が一番でして。といっても生中な僧では功験など、ほほほほほ・・・・・・」
自慢げに言いふらす頼印であるが、先月の祈祷が効き目のなかったことなど、もちろん口にしない。
氏満は生きている。
そして若犬丸も生きていた。
鎌倉方の軍勢に小田は降伏し、頼印はこれも自分の祈祷の効験だと吹聴したが、彼と一部の小田余党は逃げ延びたという。
――私、なんてことしちゃったんだろう。
若犬丸を死に向かわせたこと。
また一つ業を深めたことに気づく。




