市場へ行こう
「それが気になるのかぇ?」
それは予想外の声だった。後ろから聞こえた以上、今の声は店の奥で置物みたいに座っていたお婆さんのものだろう。
思わず手に取って見惚れていたガラスの瓶を棚に戻して後ろを振り返る。別に悪いことをしたわけではないのだが、母親にいたずらを見つかった時のような気まずさがあった。
「あ、すみません。勝手に触っちゃって」
「いいや、いいさ。ほかにお客もいないしね」
驚いた。最初の声を聞いたときこそ年齢を感じたが、なかなかしっかりした声で話すお婆さんだ。
「その瓶に入っているのはね、星砂と言うのさ。もう一度手にとって、よく見てみるといい」
手に取るのはためらわれた。人の良さそうな態度だが、商売人というのは得てしてそういう風を装う。もしかしたら、手に取ったとたん瓶を売りつけられるかもしれない。そう思う反面、お婆さんは単に話し相手を見つけていい気持ちになっているだけなんじゃないか、という考えが頭をよぎる。
結局、困惑しながらも瓶を手に取った。
ガラスは透明、中に入っているのは白と肌色を混ぜたような砂だ。なのに、その瓶からは海のような青さがきらめいた。
「星空の下。夜の砂浜で一人。小瓶に星砂を集め、願いを口ずさむ」
お婆さんは目を細めて、私が持つ星砂を眺めながらうたった。
古い歌。
祈りよりは新しく、歌謡よりは古く。
朝に目覚め、昼に出会い、夕べに恋をし、夜に語る。とある世界の、古い悲恋の物語。
「二人は家族になった。二人だけの家に住んだ。時には笑い、時には愛を確かめ、それは黄金のような日々」
その内に、男が浮気をした。相手は、褐色の女だった。それだけで、もう取り返しがつかないのだな、と女は覚る。
「男が3日ぶりに家に戻ると、そこには誰もいなかった。残るのは、過ぎし日と女の香りのみ。そして、男は……」
パリンッ!
「きゃっ!?」
唐突に、小瓶が弾けた。手の中からさらさらとこぼれる星砂は、ガラスとともに地面へと流れて。
「おや、……まぁ」
「あ!あの、すみません。でも、私にも何がなんだかっ。えと、あの、うまく説明できないんですけど……」
お婆さんは驚いた顔を破顔し、たおやかに笑みを浮かべた。
「いや、気にしなさんな」
「え……。で、でも」
「瓶が割れたのはお嬢ちゃんのせいじゃないさ。……とっくに無くなったとばかり思ってたけど、まだ未練があったんだね」
お婆さんの顔を見る限り、本当に怒ってはいないんだろう。だけど、商品を壊してしまった以上、はいさよならという訳にはいかない。とりあえず、地面に散らばるガラス片を集めようと屈んで、絶句した。
「なに、……これ」
地面には水溜りが出来ていた。むんと潮の匂いを強く漂わせるそれは、海水なんだろうか。その周辺には濡れたガラス片が散らばっており、蛍光灯の明かりをチラチラと乱反射する。
砂は、どこにもなかった。
「ガラス瓶は二束三文のガラクタ、床は掃除すればいい。なぁに、掃除は日課さ。ほら、言ったとおりだろう。お嬢ちゃんが気にする必要はないよ」
屈んだまま呆然としていた私を呼んだのは、バックに入れておいた携帯電話のアラーム。時計を見ると、もう待ち合わせの時間が近づいていた。
いけない。今日遅刻すると妹の分の食事代まで払わなくちゃいけなくなる。
「あの。ほんとにご迷惑かけました」
そう言って一礼すると、お婆さんは柔和な顔で頷いた。
(待ち合わせに遅刻しそうだから、もう行きます)
言葉には出さなかったけど、そう思ってから店を出る。なんとなく、あのお婆さんなら私がなにを考えているか判ってくれるんじゃないかと思って。
混雑した市場を出ると、待ち合わせのレストランはすぐそこにあった。店先には短い列が出来ている。その先頭に一人でぽつんと立っているのは、久しぶりに内地から戻って来ている妹だ。
人ごみの中だと急に気弱になってしまう性格は、内地に行っても治っていないらしい。家では家長の如く尊大な妹が暗い顔のまま俯いている姿を見て、思わず苦笑する。
(あ〜あ、まるで彼氏に振られたような顔しちゃって)
手を挙げ妹を呼ぼうとして、ふと、うなだれた妹の顔が、先ほど聞いた古い歌の女のイメージと重なる。
その時、どこかで波の音が聞こえた。後ろを振り向くと、そこにあるのは人の波。
思わず目をぱちくりとしたのは、生まれて始めての事だった。
「おねーちゃーん!早く、早く」
声を掛けるつもりが、ぼんやりしている間に妹がこちらを見つけたようだ。見れば、レストランの看板は「CLOSED」から「OPEN」に切り替わっている。
「この分じゃ、食事代は私持ちで決定かな」
軽く肩を落として妹の元へ小走りで駆け寄りながら、頭の中では別のことを考えていた。
またあの店に行ってみよう、と。
初投稿です。
執筆スピードは遅いですが、定期投稿を目指していますので、どうぞご贔屓に〜。