おりんさんが、さぁー。「おもしろくないこと、ばっかやなぁ。そんなひと来いや!」と言っとるぞ
---おりんさんが、さぁー。「おもしろくないこと、ばっかやなぁ。そんなひと来いや!」と言っとるぞ---
夏。正確に言えば初夏、いやまだ梅雨と呼ぶべきだろう。暑いから夏でいい。どうでもいいと、おりんは思っている。湿った空気がじっとりと肌にまとまりつくので、やはり今は梅雨なのだと考えを正す。
おりんは額紫陽花が好きだ。中央花を取り巻いている鮮やかな、とくに青い花弁のやつが好きで、子供の頃からいつか育ててみたいと思っていたが、憧れのままにしておいてある。となりの家の鉢植えには朝顔と向日葵もあったが、どちらもまだ咲くには早いようだ。額紫陽花と朝顔と向日葵が同時に咲いている時期はあるのだろうか、額紫陽花にしか興味がなかったのでわからない。
おりんは、ときどき思い起こすことがあるという。それらは生涯忘れることのできない宝と呼ぶ思い出ではなくて、記憶を呼び起こすと落ち込み、あるいは怒りで満ちることだそうで、できるならば脳から削除してしまいたいと強く願っている。そういうことばかり脳裡に浮かんでくるのは自分だけかと不可解に思うが、そんなことないことは充分に知っている。誰だって人生はうまくはいかないものだ、だから努力する。大谷だって自分達が想像できないくらいの努力をしていることだって、よくみる中継の実況が言っている。でも皆どういう手段をもって消してしまいたい感情を処理しているのかをゆっくり教えてもらたいくらいだ。もちろんよい思い出もたくさんあるけれども、年を重ねるごとにそれらは脳の隅にしまわれていくことが多くなり彼女はその寂しさも処理できなくて、なにか心のうちから大切なもが漏れてゆくような気分になり、いたたまれなくなるそうだ。
おりんは自分は淋しいと、自分は薄っぺらいと言う。
その中で、どうしても忘れられない不快な思い出を5つ挙げてもらった。
2番目は、結果的に追い出されたときのことだそうだ。40名が所属するこの場をつくり上げた。その果て、5年でこれか、しらけた・・・自分は裸の王様かと。傷づついたので、立ち直るまでに時間がかかったが、いいえ、まだまだ引きづっている。あいつらのほうが悪い!やれるもんならやってみろ!と思うことにした。いまもそうしている。思い出す度にだ。でも結局、完全にはできないでいる。まるで幽霊のようだ。しつこくまとわりついて来る、と彼女は言う。無理だ、おまえらはもって3年がいいとこだろう。あんなに世話をしてきたのに、簡単に切り捨てるのか。場所、時間、内容、イベントの準備、飲み会の設定、すべておりんがやってきてメンバーをまとめてきたはずだと。しかし自分はやり過ぎたのだろうと思う。なにからなにまでやり過ぎたと。他の者は彼女がやることが当然のことと考えたのだろう。すべてやってくれると。逆に自分たちも、やらなければならないと思うメンバーがいたが、彼女がそれを潰していたのかもしれないと、彼女はどうすればよかったのか答えを探しているようにみえる。あんなに楽しい時間をともに過ごしてきたはずなのに、誰にそそのかされたかは知らないが何人もあちらへ行く。
たしかにあのことに関しては彼女の方が悪いが、あのときはいつもの彼女ではなかった、それを分かっていてほしかったが話してもしようがない。話したところで理解できないだろう。それは彼女たちが現在話す日本語と千年前のひとが話す日本語では会話が成り立つか怪しいという感じだ。話していなかった自分が悪いのだろうと。ただ彼女は元来そんなことをする人間ではない・・・と伝わっていなかったことが、情けないし、馬鹿らしいと吐き捨てた。だいたいそんな場で友人をつくるなんてことはできるはずはないのだと、つくづく思った。現に現在交流のある者は1人もいない。あたりまえのことだと彼女は思う。でも無駄な時間をすごしたとは、彼女はこれっぽっちも思っていない。それはそれでよかったのだと自分に言い聞かせているようだ。しかしこころのなかで、まだくすぶっているわだかまり消えていない。その時の彼女は両手を握りしめて、表情はくすぶり続けている墨のように悲し気だった。
3番目は、冗談で言った言葉を真に受けて、おりんが何度謝っても聞き入れられなかったときのこと。あのときもいつもの自分でなかったと後から気づいた。それ以来彼女を無視し続けたのは職場で仲のよかった先輩で最も信頼を寄せていた。たしかに傷つけたのは彼女の方だが、さんざん他人のことを、そうやって面白おかしく、あれこれと陰口を叩いていたのはそいつだ、自分は言いふらすくせに自分が言われたときは絶対に許さないのだ。そうなんだ・・・そういう奴だったんだ、いったいこれまでのつきあいは何だったのか、自分には人を見る目がなかったということか、アホらしくなった。腐った女と自分のなかで確定させるまでに3年かかった。その先輩は若くして亡くなったが、正直、ざまーみろ!と激しく思っていたので通夜にも葬儀にも行かなかった。後悔はない。
パワハラにあった。それがおりんが挙げた、4番目だった。
典型的なものだった。地獄の毎日でしたと、下を向きながら聞き取れないほどの声になっている。実際気が狂ったと言う。奴は課長補佐だったので逆らうことはできなかった。課長も係長も同僚もだれも味方になってくれなかった。関わりたくないという雰囲気を誰もが醸し出して、見て見ぬふりをしていた。3分の1はあいつらに責任があったはずだと、彼女はしだいにキツイ目になってゆく。実際はそんなことはあり得ないだろうが、目じりが本当に吊り上がっているように見えた。彼女は庁舎外に放り出された狭い事務所で独りぼっちだった。その事務所11名の誰からも話かけられないでいたから、さらに孤独が重苦しく感じた。彼女の目じりが鋭く上がった目つきを見ていると、その怒りは今でもかなりのものだとわかる。一度でも逆らっていたならば・・・と思うが後の祭りで、そもそもそんなことは、彼女にはできなかった。あいつは終わった、知らん、ふーん、だから?とわざわざ皆に聞こえるように言う、そうやってターゲットを追い込むのがパワハラというものだ。そして彼女は潰された。そいつはターゲットを変えながら、いつもパワハラしていると言われていた。次のターゲットは誰だか知ってはいたけれども、どうすることもできないで、ただそいつを激しく憎むだけしかできないで、悔しかった、とまた小声に戻って語った。結局、彼女自身も関わり合いたくなかったし、自分が可愛くて身を守ったということだ。情けない、でもどうしようもなかった。彼女もあのときの職員達と同じで目をそらして逃げたと、頬に涙の道筋をつくりながら懺悔した。
5番目。高校生活で担任をどうしても好きになれず学校を休みがちだったこと。創立90周年の歴史があるだけで、地元国立大学に合格するのは毎年せいぜい20名ほどしかいない1流半の校舎で授業を受けた。西日が当たる3階角の教室で、当時はエアコンなどはなく、とくに窓際は外の景色を楽しむどころではなかった。見ているこっちが気の毒だった。夏は天然の暑さとのたたかい、冬もボイラーの暑さとのたたかいで、夏でも冬でも暑さに耐えていた。せめて扇風機とコタツにしてほしいと真面目にクラスメートと話したことがあった。環境は最悪だった。
奴はおりんのことを皆の前で何度も罵倒した。奴は独裁者で、誰もが自分大事でひたすら自分に害が及ばないように息をひそめていた。試験の点数も大声でクラスの皆に明かした。こういう扱いを受けたのは彼女ひとりではなく、5人程度だったが、彼女以外は開き直っていたようだ。またか・・・と。でも彼女は最後までそんなふうに流すことができなかった。ひたすら3学期が終わってくれるのを待ち毎日毎日耐えた。いつかのテレビで奴がどこかの高校でサッカー部の顧問として姿が映っていたのをみたときは、あのときの感情がふつふつとこみあげてきた。年からいってもう死んでいてもおかしくはないと彼女は思っている。苦しんで死んでいてほしいとハッキリ言った。
最後、1番にあげたのは、大学受験に失敗し浪人したときだ。おりんは市内の予備校に通った。それはJRの線路沿いに建てられた、今になってはよく思い出せないが、たしか8階建てでなにかの専門学校と併設していたような気がすると朧げな記憶を辿っているようだ。窓が大きく電車が行き来するのが見え、それ目的に窓際で授業を受けている者もいたと覚えている。高校の教室とは違いエアコンが効いていて快適だった。
地元では古くからある予備校だったけれど、そのころ王手予備校の進出があって人気はそちらに流れて行ったと記憶している。一度そちらの予備校に遊びに行ったことが妙に記憶に残っているそうだ。そこで何をしたかまでは覚えていない。ただ、校内の教室のアットホームな雰囲気をうらやましく思ったことを覚えている。殺伐とした彼女の予備校とは違った。自分達のは教室が広すぎたのだ。
予備校での彼女は成績優秀で模擬試験は学内トップになり玄関に名前を張り出され、図書券をもらった。彼女は、余計なものには目をくれないで勉強だけに集中した。1日10時間は机に向かっていただろうと遠くを見るように目を細めた。英語の構文は700覚えて、歴史の教科書を穴が空く程に読んだ。
でも、それは秋まで持たなかった。ガソリン切れになって張っていた糸がプツンと切れた。それからは勉強をやろうとしてもできなくなった。予備校にも行く気持ちにならかった。あるとき予備校の先生から電話があった。予備校に顔を見せない彼女を心配して受話器を取ったらしい。どうしたの?こっちに顔をだしてと、その彼女は30はじめの髪が長くて、やさしく、そしてゆっくりと話すひとで、入学当初から彼女を気に留めてくれていたひとでした、と懐かしんだ。彼女は人の顔を覚えるのが苦手だけれども、その人の顔をはっきりと思い出すことができると言い切った。あのとき予備校に行き彼女と話せば何かが変わっていたのかもと伏目で机を見つめた。いまでも会いたい、一言でもあのときの電話のお礼を言いたいと後悔している。
でも、それでも予備校には行かなかったそうだ。行けなかった。そして何をしていたのかまったく覚えていない時間を無駄に過ごし、秋以降一切勉強をしないで受験シーズンを迎えた末、2流私立大学に合格した。
親からは、おめでとうとかは何も言われなかった。父から、そんなものかと言われ、深く傷ついた。
あの頃はまだ新聞には大学別に合格者を掲載する欄があって、彼女は恥ずかしくて情けなかったと当時のことを忌まわしく言う。
ここまで言うとおりんは身体中の毒を吐いたようだった。
疲れ切った表情がいくらか和らいでいて、はじめはうつろだった目も、次第に生気が宿って来たように見える。食事もちゃんと食べているそうだ。今日はここに来て一番の表情をしている。西野がカップに入れて机に置いたコーヒーもクッキーもなくなって、ただ香ばしいコーヒーの香りと甘いクッキーの匂いが混ざって部屋に漂っていた。
「まだまだ、あれもこれも言い足りない。でも、これがどれだけ自分が未熟であったことの証明です。これまでもこれからも繰り返して、繰り返すだろうと思う。そしてまわりには誰もいない。それがわたしの人生」と悲しげに言った。
「でもおりんさん、それもあなたのよいところに繋がっているの。忘れないで」
西野は彼女の目を据えて言う。
「おりんさんは夏は好き?」
「好きです。いつか青い額紫陽花と赤い朝顔と黄色い向日葵を並べて一緒に咲くところを、信号ですね、みながら西瓜を食べたい」
彼女は西瓜が好きだそうなので。額紫陽花たちと西瓜はどちらが好き?と聞いてみたところ、どっち・・・?と答えがあった。
「どちらが好きか考えておいてくださいね。今日はこれまでにしておきましょう。疲れたでしょうからゆっくりと休んでくださいね」
「はい。ありがとう」
西野は静かに戸を閉めて、規則正しい足音を残して去っていった。
少しだけすっきりしたと、おりんにはシンプルに思えた。
雨が降ると大粒な真珠に見える雫が葉に現れそうな、たくさんの青い額紫陽花が病院の中庭には咲いている。カタツムリもいるだろうか。触れるかな?
その近くで鉢植えされている赤い朝顔と黄色い向日葵が咲くには、まだ早いみたいだ。どうなんだろう、3つ同時期には咲かないのか、信号機をやってみよう。退院したら3つの鉢で育ててみよう。
そろそろ生きますか。
完




