一筋の希望
早めの朝食の後もう一度手足の調子を確認され、予定通り王都へ向かうこととなった。
ロナンが怪我の具合を確認するために解かれた包帯の下。
もう一度あれを見るのかと覚悟したものの、侵食跡はほとんど消えて見えなくなっていた。
あったのは普通の怪我の痕だけだ。
だが何故かロナンはまた包帯をして、亜里沙には砦から離れるまで手のひらを見せないよう念押しした。
出発の準備の間、何もすることがなかった亜里沙は厩舎にいる馬の様子を見に行った。
馬たちは元気に餌を食べていて、その無邪気な様子に自然と口角が上がる。
平原の草も美味しそうに食べるが、飼料の方が好きなのかいつもより満足そうに口を動かしている。
厩舎の陰で馬を眺めていると、ふと兵士らしい声が聞こえた。
亜里沙が死角にいたからか、随分と近くで内密な話を始めたようだ。兵士の姿は見えないが、念のため更に物陰に寄って息を潜めた。
「それにしても可哀想なことになったな」
「ああ。前々から集落に移り住むよう何度も言っていたのに結局こうなったか」
昨日の少女のことだろうか。
「これまで巣ができたことがなかったから強制もできなかった。こんなことなら強引に言うことを聞かせればよかったんだ」
「ああ、そうだな……父親の死体がイドル化したんだよな?」
「確認しに行った奴によるとバラバラになってほとんどが消えていたらしいが、残ったものから判断するとそうとしか考えられないってさ」
亜里沙は口を引き結んだ。
やはりあれが、あの少女の父親だった。
あの家の周囲の森は暗かった。
穢れが広がっていない時でも危ない場所だったのだ。
そして、父親が死んだことで、“放置された亡骸がある場所”にもなってしまった。だから父親の亡骸から巣ができてしまったのだろう。
「死体がイドル化するとしぶとく動くから、焼かないといけないんだよな。戦える来訪者様かキーラン様ならあっという間だろうけど」
「今回はその点は心配ないだろう。だがどの道あの家も焼くことになる」
「娘は王都の孤児院に入るって?」
「ああ。あの足の処置ができるのは王都かナイグラードくらいだからな」
亜里沙の心臓が強く打ちつける。
足の、処置?
「キーラン様が治療をしても完全には止まらなかったんだよな?」
「ああ。片足を失うだろう」
「まだ6歳なのに……可哀想に。来訪者様はあの子より深刻だったのに、もう回復なさったらしい。来訪者様はそういう力もお持ちなんだな」
「いや、記録によると、侵食については来訪者様でもオレたちと同じ危険があるらしい」
「そうなのか?」
「ああ。王都への報告を伯爵が止めたってさ。来訪者様がご自身でお伝えしなければならないらしい。あの娘の安否を話すことすら、もうじき口外禁止で処罰の対象になるだろうよ」
兵士たちは、早朝の訓練は怠いな、とぼやきながら去って行った。
亜里沙は立つ力を失ってその場にしゃがみ込んだ。
「私……助けられなかった……?」
ロナンはなぜ教えてくれなかったのだろう。
──いや、知ったところで何ができたというのか。
あの話が本当なら来訪者含め他の人間にとって、イドルの侵食は致命傷なのだ。
だが亜里沙は何故か、そうならなかった。
あの少女より重症だったと、ロナンも言っていたのに。
それどころかもうその痕跡さえ消えかかっている。
(だから包帯をして、手を隠すように言ったの?)
亜里沙が思いもかけない形で、まさに奇跡のようなことが起こった。しかもこれまでに前例のない奇跡。
だが亜里沙が望んでいるのはそんなことではない。
普通なら死んでしまうほどの傷を、ほとんど痕も残さず軽傷で終わらせる。
何故その奇跡を、自分以外の者に起こせないのだろう?
『……おい』
少し前からわずかに気配はしていた。
亜里沙はとても返事が出来る状態じゃなかったが、ニーズは構わず続けた。
『先ほどの話は気にするな。少なくとも我は、あの少女の命が繋がったことが嬉しい』
(足を失うのに?)
『そうだ。それでも命は救われた。お前も怖かったろうに、よく頼みを聞いてくれた。よく助けてくれた……ありがとう』
思わず涙がこぼれそうになり、亜里沙は両手の指の先で目を押さえた。
(私に起こったことは何なの?)
『我が持つ性質がお前の体にも影響を及ぼしたのだ』
(それはつまり……)
『我は穢れとは反対の性質を持つから、イドルでは我を壊せない。だから侵食を受けたとしてもそれで死ぬことはないし、回復も早いのだ』
亜里沙は言われたことを脳内で巡らせた。
(ちょっと待って……ニーズって、前は力が強かったんだよね? その力は、もう消えてしまった?)
『消えてはいない。だが何故そんなことを聞く?』
(力が強いって言うのは、イドルとかも倒せるっていうことだよね?)
『……そうだが』
(その力は使えないの?)
『我はずっと長い間魂の状態でいる。力は肉体を通して使っていたから、今の我では異界を繋ぐ以外の力をうまく扱えないのだ』
亜里沙は思わず息を呑んだ。
“肉体を通さないと使えない”?
(今、あるよね? 肉体)
亜里沙の頭がこれまでにないくらい働き始めると、ニーズは唸り声を上げた。
『馬鹿なことは考えるな』
ニーズが声を荒らげて、小さく肩が揺れる。
『お前の体はキーランとは違う。アストラムの血も引いていないのに……下手したら命を失うぞ』
その強い口調に亜里沙は眉を顰めた。
(だって、じゃあ私に何ができるの? 戦えないし、文明とか教育とか、そんな能力もないんだよ)
『それは……』
思う以上に苛立ちを込めてしまったせいか、ニーズの声は一転、弱々しくなった。
その様子に、再びあの不安が顔を出す。
(……ねえ、本当に間違えてないんだよね?)
『ああ……それだけは確かだ』
断言する言葉も、どこか迷いを含んだ声色では説得力も薄れるというものだ。
(じゃあ、何かしないといけないじゃない。そう言ったのはニーズでしょ?)
返答がない。その沈黙がニーズの迷いを伝えてくる。
亜里沙は渦巻く焦りをそのままニーズにぶつけた。
(私の体を使って、戦えるようにしてよ)
『……駄目だ』
(何で)
『そんなことをしても上手くいくと思えない。もし力を使えたとしても、やはりお前の体が危ない』
混乱した亜里沙は、じゃあもう寝てて、と吐き捨てるように念じた。
少ししてニーズの気配が遠のく。
亜里沙は“異界からの来訪者”。そうなってしまった。
そんなもの今すぐ捨てて帰れるなら、恐らくそれを選ぶだろう。
(でも帰れないって言ったのはニーズだよ。役目を果たせって言ったのもニーズじゃない。連れてきたくせに、反対するのはおかしいでしょ)
どんな方法でも亜里沙はやるしかないのだ。そうしないと帰れないと言うのだから。
亜里沙にはもう、それしか道が残されていない。
それからすぐにルイとベンがやって来た。
厩舎の陰で丸くなる亜里沙の姿にふたりとも悲鳴を上げたが、それでも顔を見ると開口一番亜里沙を心配してくれた。
ふたりと共に荷台に馬を繋ぎ、砦の外の街道に通じる道で待つ。
何となく視線を感じると思っていたら、とうとうルイが、あの、と声をかけて来た。
「アリサさん。謝ります。申し訳なかった」
ルイとベンが顔を伏せて、亜里沙は目を見開いた。
「えっ、何? どうしたの?」
再び亜里沙の顔を見たふたりは落胆した表情を浮かべている。
「昨日、あなたがあんな怪我を負って……生きた心地がしませんでした」
ルイが言って、亜里沙は口をぽかんと開いた。
「えっ」
それは大袈裟ではないかと思ったが、その顔を見る限りどうやら本心のようだ。
「こういうのは、理屈じゃないんですよ」
ベンが静かに言葉を紡ぐ。
「何年共に過ごしても信頼の置けない者などいくらでもいます。反対に、出会って数日でも、気がつけばいつの間にか心の中に居座っている者もいる。アリサさんみたいにね」
「い、居座る……」
選んでその言葉はどうかと思うが、亜里沙は気恥ずかしくなった。
「我々にとって、あなたはもう仲間も同じということです」
ベンの言葉に頷き、ルイが続ける。
「我々がこう言っていいのか分かりませんが……もう、いいんですよ、来訪者の役目なんて。少なくとも私たちは、あなたに無事でいて欲しいです」
「え……」
帰らなければならない亜里沙にとって、その言葉は嬉しいものでも、安心できるものでもない。
だがふたりの真摯な顔を見たからか、その心からの言葉は、亜里沙の胸の奥にすっと染み入った。
鼻が刺激されて、熱くなる目頭を慌てて押さえる。
「今までの来訪者様のご活躍は、話に聞くだけでしたが。我々はどこかで、全てを背負わせていい存在のように感じていたのかもしれません」
「でもアリサさん、あなたが教えてくれました。来訪者様も我々と同じ人間だ。我々のために尽くしてきてくれたことを、当然のように享受してはいけなかったのです」
口々に言って、ルイが周囲を確認した後、声を落とした。
「私たちは味方ですから、無茶をさせられそうになったらナイグラードにいつでも逃げていらっしゃい」
「えっ、で、でも……」
「いいんですよ、国が四つもあって、偉い人は沢山いるんです。それに、マスターも私たちと同じ気持ちでしょう」
「ロナンが?」
ええ、とベンが頷く。
「私たちは長年マクベルド家の下で働いてきましたので、あの方の幼少期からよく知っています。でも昨日、あなたの意識がない間、あの方のあんなお姿は初めて見ました」
「今にもお倒れになるんじゃないかというほど、平静を失われて」
それはやはり大袈裟ではないかと思ったが、何より気恥ずかしさが増大して、熱くなった顔面を隠すのに精一杯だ。
「理屈じゃないんですよ」
「も、もういいってば……!」
そんな亜里沙を見てふたりは朗らかに笑った。




