亜里沙の戦い
休憩を終え、荷馬車は再び走り出した。
ぬかるみが酷くなってきて、亜里沙は荷台を降りてキーランとロナンに続いて歩き出した。
それから宿屋に到着する夕方までの間、休憩しながら歩き続けた亜里沙は、体力には自信があるなんて舐めていたと思い知った。
この世界を歩くのに、まるで足りていない。
こんなに息が切れるとは、途中で雨に降られなかったことだけが幸いだった。
翌、2月11日。
続く街道は無事に走行出来そうで、ぬかるみだけが怖いと心配していたルイとベンはほっと息をついていた。
街道に出て初日にイドルを見てからは、それ以降イドルにも巣にも遭遇していない。
とは言え巣は実物を目にしたわけではないが。
午後には王都に着くと知り、途端に緊張やら不安やらが迫り上がってきて胃が重かった。
休憩中、街道から見える草地に花が群生しているのが見えて、亜里沙はロナンに伝えてからやって来ていた。
少し離れた位置に四人がそれぞれ荷車の調子を確認したり馬に草を食べさせたりしている。
「すごい、天然の花畑だ」
こんなに種類が入り乱れたものは、花壇でしか見たことがない。中にはルチアネも咲いていて、気持ちが和んだ。
『ああ……ここはどこだ?』
不意に聞こえた苦しげな声。
(ニーズ?)
名を呼ぶと小さく唸り声がした。
(ここは王都の近くだよ。場所の名前は分からないけど、午後には着くって)
ニーズにも見えるだろうかと、周辺の景色を見回す。
亜里沙がいる場所の付近には小さな森がある。
その近くに、ここからでも見える一軒の家がぽつりと佇んでいた。
(あんな所に……)
あの森はとても暗そうだ。
ただでさえ巣を発生させる穢れが増えている。亜里沙はあの家の住民が少し心配になった。
ロナンたちを呼んで様子を見に行かなくてもいいだろうか?
そう考えた時、ニーズが呻いた。
それはとても苦痛に満ちた声で亜里沙は目を見開く。
(ニーズ? どうしたの?)
『ああ……駄目だ……母の、民が……』
ニーズがそう言った途端、突然、泣きながら助けを求める幼い声が耳に響いた。
その声は、あの家の方から聞こえる。
「え……、何、これ……?」
亜里沙は激しく動揺した。姿は見えないのに声だけ聞こえる。
これはニーズの感覚なのだろうか? それを亜里沙が感じ取っている?
『……頼む……』
そう懇願する声は弱々しく、すぐにニーズの気配が消える。
ニーズが恐らくまた眠ってしまった瞬間、泣き声も聞こえなくなった。
「……だめ……」
あの声。
いや、そんなはずはない。
こういう時、もう何度も自分に言い聞かせてきたはずだ。
関係ない、そんなはずがないと。
まさか異世界に来てまで、この症状が出るなんて。
だが、どうしても重ねてしまう。
どうやってもこの症状だけは克服できなかった。
「だめ……茉利咲!」
妹の名前を叫んだ亜里沙は衝動的に駆け出していた。
全力疾走で声の方角を目指し、迷わず家に飛び込んだ亜里沙は、すぐに泣き声の主を見つけた。
家に近づけばあの悲痛な声は現実でも聞こえてきた。
勢いよくドアを開け放つと、悪臭が鼻をついた。
そして、ドアに向かって這いながら、必死に腕を動かす幼い少女の姿を見つけたのだ。
少女は助けを求めて泣き喚いた。
「うあぁっ、たす、たすけてっ、ああっ、おと、おとーさん!!」
泣きじゃくる少女の向こう。足首を掴む何かがいる。
大きく呑んだ息が喉を鳴らす。
吐き気を催して思い切り口を覆う。
少女の足首を掴むのは、恐らく大人の男性。
ただ、明らかに人間ではなかった。
ドラゴン型のイドルで見た時よりもはっきりと、肉が腐ったような見た目だと分かる。
男の腐った体は腹部からドロドロの液体のようなものと混ざり合い、円形に広がっている。
その禍々しさから、直感的にあの液体が小さなイドルの巣だと気付く。
(どっ、どういうこと……人間の、し、死体、みたいだけど、その巣から出てきたの……?)
「おとーさんっ、おとーさん!! 痛いよお!!」
少女の甲高い叫び声で肩が大きく揺れ、目を瞬いた。
呼吸が浅くなり、額に汗が浮かぶ。
ほんの一瞬、逃げてキーランたちを呼んでくる事を考えた。
だが亜里沙は、泣きじゃくる少女の顔を見るとその場を動けなくなった。
茉利咲ではない。妹ではないのに。
歯を食いしばった亜里沙は自分を奮い立たせるように拳を握りしめた。
少女に駆け寄って抱き上げようとする。
亜里沙とイドルに両側から引っ張られる形になった少女が鋭い悲鳴を上げる。
亜里沙はバランスを崩して少女を抱いたまま前のめりに倒れた。少女を庇って床についた手首が悲鳴を上げる。
すぐさま体勢を変え、イドルの腕を両足で挟むような姿勢を取る。
「くっ……この……!!」
少女の腰の辺りに腕を回して体を密着させ、小さな足にまとわりつく腐った手首を掴む。足でイドルの頭を蹴って力一杯押しながら、何とか振り払おうとする。
ゾッとするような低い呻き声を上げながら、イドルの手が離れた。体勢が崩れた瞬間、今度は亜里沙が両足首を掴まれる。
もの凄い力で引かれて、亜里沙は後ろにひっくり返って腐りかけの木の床に頭を打ちつけた。
「いっ……!」
気づけば少女は静かになっている。
後頭部に走り抜ける痛みと衝撃より、足の強烈な痛みに亜里沙は悲鳴を上げた。
「いたっ、ああっ!!」
少女を抱えたまま何とか肘で体を浮かせて足元を見ると、崩れた顔のイドルがこちらを睨めつけ、唸りながら亜里沙の両足を掴んで引き摺り込もうとしている。
男の腹部にあった泥沼がじわじわと広がっていく。
「やっ、やめてっ! 放して!!」
再び足に味わった事のない痛みが走った。
あまりの痛みに全身の力が抜け、亜里沙の口からは悲鳴ではなく呻き声が上がる。
そうして亜里沙の意識がぼやけた時、家に飛び込んできたものがあった。
亜里沙の視界に黒のマントが翻った。
それを目にした瞬間、足を引っ張る力が消え、切り離された腐肉が勢いよく宙を舞った。
直後、あの青白い光がこの小さな家の天井にまで這うように走り抜ける。
頭を動かすこともできないまま、亜里沙は視線を動かした。
辛うじてキーランの後ろ姿、上体が見え、足元からおぞましい唸り声が上がる。
そしてキーランが振り返った時。
「アリサ!」
頭上でロナンが叫んだ。
駆け寄って来たロナンに抱き起こされたのが分かるが、意識は急速に遠のいていく。
「この子……お願い……」
暗闇が訪れる直前、そばに屈んで亜里沙の名を呼ぶ、キーランの泣きそうな顔が見えた。
何度も名前を呼ばれ、意識が浮上する。
ゆっくりと目を開き、何度か目蓋をそうやって動かした。
黒々とした木の天井がある。見覚えがなく、少しも状況が分からない。
「アリサ」
焦燥が乗ったキーランの声が響く。
声の方に頭を動かすと、亜里沙の右側に心配そうにこちらを見つめるキーランが見えた。
「アリサ、僕が分かる?」
「うん……キーランでしょ……」
動かした時に頭が鈍く痛んで、眉が寄る。
どうやらベッドに寝ているようで、可能な限り目だけで周囲を見た。
顔いっぱいに強い不安を映したキーランの背後に縦に細長い窓が見える。
ここは宿屋の部屋のようにも思えるが、どうも壁がゴツゴツし過ぎている。
「あれ……? 王都は……?」
「アリサさん」
キーランの向かいからロナンがやってきて、亜里沙はそちらに視線を動かした。
そっと亜里沙を覗き込んだ顔がほんの少し険しい。
「気を失う前の事を覚えていますか?」
「……気を失う?」
少しの間思い出す作業が必要だった。
何をしていた? 確か、茉利咲の声が──
(違う、茉利咲じゃない)
そうして思い出した時、つい、あっと声を上げた。
反射的に体を起こして、頭と足が息が詰まるほどの痛みを訴える。
「アリサ!」
「今は体を激しく動かさないでください」
「あの子は? 女の子はどこ?」
しかしロナンは答えず、優しく肩を押して亜里沙を寝かせる。
「大丈夫だよ、頭と足が少し痛いけど」
頭よりも足の痛みが尋常ではなかった。
だがそんなことを言ってみる勇気はない。
ただあの少女の安否だけはどうしても知りたかった。
「それより、あの子は大丈夫だったの?」
「貴女のお陰で助かりましたよ」
ロナンが静かに言った。
亜里沙はひどくほっとして、良かった、と小さな言葉が漏れた。
「あの家の巣は? どうなったの?」
「潰したから心配いらない」
「そっか……」
安堵の息を吐く亜里沙の右手を、複雑な表情を浮かべたキーランが握りしめた。
そうされて初めて、キーランに手を繋がれていた事に気がつく。
驚いたが、同時に、繋がれた手の隙間から青白い光が小さく弾けているのが見えた。
「それ……何してるの?」
キーランは答えない。手を外そうとしてみたが、ビクとも動かなかった。
「キーラン、そろそろ大丈夫でしょう」
キーランはロナンを見やり、亜里沙の手をそっと放す。
「痕が残らないといいけど……」
「え?」
右手を持ち上げて、それを見た亜里沙は息を呑んだ。
青痣とも違う、気味の悪い痣。
まるでイドルの表皮のように汚らわしい痣が、右手のひらに広がっていたのだ。
「え……? これ……」
「イドルを触ったでしょう?」
少女を助けようとして、イドルの腕を掴んだ。
「貴女の怪我はあの少女より酷かったんです。もしかしたら、貴女の両足とその右手は二度と動かなくなっていたかもしれない」
「ロナン、やめろ」
キーランが強めに言うと、ロナンは口を閉ざした。
震える亜里沙の右手をキーランがそっと取る。
視界から外されて、痣を見ることができなくなった。
「もう二度とあんな風にひとりで無茶をしないで。アリサは僕が守るから」
心配を伝えてくる眼差しを見上げて、違和感を覚える。
来訪者は守る側のはずだ。この世界を救うためにやってくる。
やっと来訪者らしい事ができたように思えて、少しだけ安堵した気持ちが小さく消えていくようだった。
キーランは当然のように亜里沙を守ると言うが、今はその優しさが居た堪れない。
だが亜里沙はそれを呑み込んで、小さく頷いた。




