第3話 繋がる記憶
第3話 繋がる記憶
その日、益田倫也は慢性的な頭痛と共に目覚めた。
こめかみの奥に、錆びついた釘を打ち込まれているような鈍い痛みがある。最近、夢見が悪いせいだ。
夢の内容は覚えていない。ただ、目が覚めると決まって、雨の匂いと、赤ん坊の泣き声が耳に残っている気がした。そして、全身が脂汗で濡れているのだ。
「……クソッ、体調管理もできないとは」
今までになかった頭痛の不快感に、倫也は洗面所の鏡に向かって毒づいた。目の下に隈ができている。
完璧であるはずの自分の顔に、疲労という名の亀裂が入っているのが許せない。
冷たい水で顔を洗い、丹念にシェービングを行う。化粧水で肌を整え、整髪料で髪を撫でつける。鏡の中の男は、再び「県警のエース」としての仮面を被った。
「大丈夫だ。俺は正常だ」
自分に言い聞かせるように呟き、リビングへ向かう。
朝食の食卓は、静まり返っていた。
妻のえみりも、息子のすずも、倫也の顔色を窺うように俯いている。先日、倫也が声を荒らげて以来、家の中には張り詰めた糸のような緊張感が漂っていた。
「……おはよう」
倫也が努めて明るい声で言うと、えみりがビクリと肩を震わせた。
「お、おはようあなた。コーヒー、淹れたてよ」
「ああ、ありがとう」
カップを受け取る。湯気と共に香るローストの匂い。だが、今の倫也にはそれすらも焦げ臭く感じられた。
カチャリ、とすずがフォークを置く音がやけに大きく響く。
「すず、どうした。食べないのか?」
「……食欲ない」
「好き嫌いするな。大きくなれないぞ」
倫也の小言に、すずは無言でサラダを口に押し込んだ。その目は、やはり倫也を見ていない。倫也の背後にある、白い壁のシミのような一点を見つめている。
(まただ。あの目だ)
倫也は苛立ちを覚え、コーヒーを一気に飲み干した。熱さが食道を焼き、胃の腑に落ちる。その痛みで、背後の気配を打ち消そうとした。
出勤に使う公用車の助手席に乗り込むと、運転席の鈴木優磨がタブレットを差し出してきた。
「益田さん。盗まれた二枚の絵画について、共通点が見つかりました」
優磨の声は、相変わらず抑揚がない。だが、その瞳の奥には、獲物を追い詰める狩人のような鋭い光が宿っていた。
「共通点だと? 動物の絵という以外にか」
「ええ。流通ルートです。二枚とも、かつて市内の老舗画廊『高砂画廊』が取り扱っていた作品でした」
「高砂画廊……」
その名を聞いた瞬間、倫也の記憶の底で、小さな棘がチクリと刺さった。
聞いたことがある。いや、行ったことがある気がする。
過去の捜査で聞き込みにでも行ったか?と考えを巡らせる。
「……そこへ向かうぞ。オーナーに話を聞く」
「了解しました」
車が動き出す。流れる街並みを眺めながら、倫也はこめかみを指で押さえた。
頭痛が強くなっている。高砂画廊。金色の額縁。静かな絨毯の感触。そして、隣に立っていた女性の香水の匂い。
誰だ? えみりではない。もっと高貴で、繊細な花の香り。
思い出そうとすると、頭痛がそれを拒絶するように激しく脈打った。
高砂画廊は、街の喧騒から離れた閑静なエリアにあった。
重厚な木製のドアを開けると、カウベルが涼やかな音を立てる。店内にはクラシック音楽が微かに流れ、高価そうな絵画や壺が整然と並べられていた。
「いらっしゃいませ。……おや、警察の方ですか?」
奥から現れたのは、白髪の上品な老紳士だった。オーナーの高砂だ。
倫也は警察手帳を提示し、単刀直入に切り出した。
「県立美術館と高村画廊で盗まれた日本画について、聞き込みに来ました。どちらも、こちらで扱っていた作品ですね?」
「ああ……やはり。あの『野兎』と『春告げ鳥』ですね。ニュースを見て、胸を痛めておりました」
高砂は沈痛な面持ちで溜息をついた。
「あの二枚は、ある特定のお客様が、大変気に入って購入されたものでしてね。その後、諸事情あって手放され、巡り巡って美術館などに寄贈されたのですが……」
「特定のお客様?」
倫也が問い返す。
高砂は懐かしむように目を細めた。
「ええ。もう五年ほど前に亡くなられましたが……九条家のお嬢様です。とてもお綺麗な方で、特にウサギのモチーフがお好きでした」
ドクン。
心臓が跳ねた。
九条。その響きが、倫也の脳髄を直接揺さぶった。
――九条さん。
――ううん、沙都子でいいわ。倫也さん。
脳内で、鈴を転がすような声が再生される。
「……九条、沙都子さんですか?」
倫也の口から、無意識にその名がこぼれ落ちた。
高砂が驚いたように目を見開く。
「おや、ご存知でしたか? ……ああ、そういえば」
高砂は倫也の顔をじっと見つめ、ハッとした表情になった。
「失礼しました。あなたは、沙都子様の……旦那様であらせられた、益田様ですね? 以前、沙都子様とご一緒にこちらへいらしたことがありましたな。制服姿ではありませんでしたが、その凛々しいお顔立ち、覚えておりますよ」
その言葉が引き金だった。
倫也の視界がぐらりと歪んだ。
画廊の風景がセピア色に滲み、過去の記憶が津波のように押し寄せてくる。
――七年前の夜。
まだ交番勤務の巡査だった倫也は、非番の日に繁華街を歩いていた。
路地裏から、女性の悲鳴が聞こえた。
駆けつけると、質の良さそうなワンピースを着た若い女性が、二人のチンピラに絡まれていた。
「やめてください! 離して!」
「いいじゃねえか姉ちゃん、金持ってんだろ?」
「おい、やめろ!」
倫也は迷わず割って入った。警察学校で柔道の心得がある彼にとって、酔っ払いのチンピラなど敵ではなかった。鮮やかに投げ飛ばし、追い払う。
「大丈夫ですか?」
震える女性に手を差し伸べた。
顔を上げた彼女は、透き通るような白い肌と、大きな瞳を持つ美女だった。
「……ありがとうございます。怖かった……」
彼女は涙目で倫也に向かってお礼のお辞儀をした。
顔を上げた彼女はただの美女ではない。身につけているものは派手ではないが、どれもしっかりとした作りの高級品だった。
おそらく裕福な家庭の娘なのだろう。
倫也の脳内では、この記憶が美しく補正されて再生される。
俺は正義感から彼女を助けた。彼女は俺の強さと優しさに一目惚れした。それは運命の出会いだった。金など関係ない。俺たちは純粋に愛し合ったんだ。
それから……
「……益田様? 大丈夫ですか?」
高砂の声で、倫也は現実に引き戻された。
額に脂汗が滲んでいる。呼吸が荒い。
「あ、ああ……失礼。少し立ちくらみが」
倫也はカウンターに手をついて体を支えた。
思い出した。沙都子だ。俺の前妻。
そうだ、俺は彼女と愛し合って結婚した。だが、彼女は不幸な事故で死んだ。俺の運転する車にトラックが突っ込んできてーー
なのに、なぜこんなに胸がざわつく?
なぜ、あの時の自分の「打算的な計算」――こいつを捕まえれば人生上がりだ――という思考の断片が、ノイズのように混じるんだ?
「沙都子様が亡くなられて、もう五年ですか……」
高砂は悲しげに言った。
「あの方のお腹には、赤ちゃんがいらっしゃいましたね。よく、生まれてくる子のためにと、ウサギの絵や置物を集めておられました。『この子が寂しくないように』って」
ウサギ。赤ちゃん。
怪盗バニーの言葉が重なる。
『可愛いうさぎちゃん』。
倫也は口元を手で覆った。吐き気が込み上げる。
「……もういい。行くぞ、優磨」
逃げるように背を向けた。
「ありがとうございました」
優磨だけが、深々と頭を下げていた。その目が、高砂の背後にある『ある絵画』――親子の狐を描いた絵――に一瞬だけ留まり、冷ややかな光を宿したことに、倫也は気づかなかった。
帰りの車内。倫也は助手席でぐったりと目を閉じていた。
「……益田さん。顔色が悪いですよ」
「うるさい。寝不足なだけだ」
倫也は吐き捨てるように言った。
頭の中で、過去と現在が斑に混ざり合う。
沙都子の笑顔。高価なプレゼント。実家への挨拶。
その一方で、えみりとの密会。
『ねえ倫也、いつあの女と別れるの?』
『もう少し待てよ。あいつの実家から、開業資金を出資させる話が進んでるんだ』
そんな声が聞こえた気がした。
いや、違う。それは俺じゃない。俺はそんな酷いことはしていない。俺はえみりを愛していたし、沙都子も大事にしていたはずだ。二つの愛は両立していた。そうだろ?
「……因果、という言葉があります」
不意に、優磨が口を開いた。ハンドルを握ったまま、前だけを見ている。
「なんだ、急に」
「過去に撒いた種は、忘れた頃に芽を出すという意味です。良い種も、悪い種も」
倫也は眉をひそめた。
「説法か? お前らしくもない」
「いえ。ただ、怪盗バニーの行動が、まるで過去の精算を求めているように見えたもので」
優磨の声は淡々としていたが、車内の空気が数度下がったように感じられた。
「精算だと? 泥棒にそんな高尚な目的があるか。あいつはただの犯罪者だ。俺が捕まえて、その仮面を剥いでやる」
倫也は声を荒らげた。そうすることで、自分の内側から湧き上がる不安を威圧しようとした。
優磨はそれ以上何も言わず、静かにアクセルを踏み込んだ。
その夜。
倫也が帰宅すると、家の中は異様な静けさに包まれていた。
えみりはキッチンで料理をしているが、皿を扱う音が極端に小さい。音を立てないように、細心の注意を払っているのが分かる。
リビングでは、すずがテーブルで宿題をしていた。
「……ただいま」
倫也が言うと、すずがビクリと肩を跳ねさせた。
「お、おかえりなさい」
怯えたような声。それが倫也の神経を逆撫でする。
「なんだその態度は。父親が帰ってきたんだぞ。もっと堂々とできないのか」
倫也はネクタイを緩めながら、ソファにドカッと座った。
テーブルの上にあるすずのノートが目に入る。算数のドリルだ。
「見せてみろ」
倫也はノートを取り上げた。赤い丸がついているが、一箇所だけバツ印がある。
「……計算ミスか。単純な引き算だぞ、これは」
「ご、ごめんなさい。書き間違えて……」
「言い訳をするな!」
倫也が大声を上げ、ノートをテーブルに叩きつけた。
バンッ!
すずが縮み上がる。キッチンからえみりが顔を出したが、倫也の剣幕に恐れをなして動けない。
「いいか、すず。お前は俺の子だ。優秀でなければならないんだ。こんな単純なミスをするなんて、たるんでる証拠だ」
倫也の口から出る言葉は、教育的指導の皮を被った、ただの鬱憤晴らしだった。昼間の画廊での動揺、過去の記憶のフラッシュバック、それらのストレスを、一番弱い立場の息子にぶつけているだけだ。
「誰に似たんだ。俺はこんなミスはしない。母親か? えみりの頭が悪いから、お前もそうなるんだ」
矛先はえみりにも向かう。
「倫也さん、やめて……すずは頑張ってるわ」
えみりが泣きそうな声で割って入る。
「口答えするな! お前が甘やかすからこうなるんだ!」
倫也が睨みつけると、えみりはヒッと息を呑んで立ち尽くした。
その光景は、デジャヴのようだった。
記憶の奥底で、別の女性を怒鳴りつけている自分の姿が重なる。
『お前は何もできないな! 金があるだけの能なしが!』
それは沙都子に向けた言葉だったか?
倫也は頭を振った。違う、俺はそんなことは言っていない。
その時だった。
俯いていたすずが、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、倫也を見ていなかった。
倫也の左肩の少し上、何もない空間をじっと凝視していた。
焦点の合わない、虚ろで、しかし何かを確実に見据えている瞳。
「……何を見てる」
倫也の怒気が、恐怖に変わる。
すずは瞬きもせず、ボソリと言った。
「……うさぎさんが、パパのこと見てる」
時間が止まった。
空調の音だけが、ゴーッと響いている。
「な……なんだと?」
「なんだか悲しそうにしてる」
すずは淡々と、通訳機のように言葉を紡ぐ。
「ふざけるな!」
倫也は立ち上がり、すずの胸ぐらを掴もうとした。
だが、すずは動じない。ただ、その視線を倫也の顔から、さらに背後へと移した。
まるで、倫也の背後に立つ「誰か」と目を合わせるように。
ゾワリ。
倫也の首筋に、冷たい息がかかった気がした。
花の香り。高砂画廊で思い出した、あの高貴で繊細な香水の匂いが、ふわりと鼻腔をくすぐった。
「ひっ!?」
倫也は思わず後ずさり、ソファに足を取られて転倒した。
無様な姿で床に尻餅をつく。
すずは、そんな父親を見下ろしもせず、空中の「誰か」に向かって、小さくコクンと頷いた。
まるで「分かったよ」と返事をするように。
「な、何なんだ……お前ら、何なんだ!」
倫也は這うようにして後退り、寝室へと逃げ込んだ。
鍵をかけ、ベッドに潜り込む。
震えが止まらない。
すずのあの目。そして漂ってきた香り。
沙都子だ。死んだはずの妻が、ここにいる。
「ありえない……死んだんだ。死んだ人間が戻ってくるわけがない」
倫也は布団を頭から被り、呪文のように繰り返した。
だが、闇の中で目を閉じると、鮮明に浮かび上がってくる。
出会った日の沙都子の笑顔。そして、事故の瞬間の、絶望に染まった顔。
それらが混ざり合い、歪んだ怪物のようになって、倫也の精神を蝕んでいく。
翌日、出勤した倫也は、目の下に濃い隈を作っていた。
「……益田さん、新しい情報です」
優磨がデスクに一枚の資料を置いた。
倫也は虚ろな目でそれを見た。
「なんだ、これは」
「盗まれた二枚の絵画。これらが一堂に会した展示会が、過去に一度だけありました」
優磨が指差した先には、展示会のポスターのコピーがあった。
『干支の魅力展 ~生命の輝き~』
開催日は、五年前の十月。
「……五年前」
倫也の声が掠れる。
「ええ。そして、この展示会の最終日。展示品を輸送していたトラックが、交通事故に巻き込まれています」
優磨は淡々と告げた。
「その事故の日付は、益田さんが奥様とお子様を亡くされた日と、同じですね」
ドスン。
重いハンマーで頭を殴られたような衝撃。
トラック。雨。スリップ音。
倫也の手が震え、資料を握りつぶした。
つながった。
怪盗バニー。ウサギの絵。沙都子の実家。そして、五年前の事故。
全てが一本の線――いや、首を絞めるための糸となって、倫也に絡みついていた。
「……偶然だ」
倫也は絞り出すように言った。
「そんな偶然、あるわけがない……」
「奇遇ですね。私もそう思います」
優磨は冷ややかに微笑んだ。その笑顔は、倫也が今まで見たことのない、底知れぬ悪意を秘めていた。
「さあ、捜査に行きましょうか。事故の記録を洗い直す必要があります。……あなたが事故で忘れてしまった、真実を見つけるために」
倫也は優磨の顔を見上げることができなかった。
恐怖と、得体の知れない不安が、彼の喉元までせり上がっていた。
彼の完璧な人生という名の硝子の城は、いまや音を立てて崩れ落ちようとしていた。




