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第1話 硝子の城の朝食

第1話 硝子の城の朝食


 カメラのフラッシュは、選ばれた人間にのみ降り注ぐ祝福の光だ。益田倫也はそう信じて疑わなかった。

 雨に濡れたアスファルトが、パトカーの赤色灯を毒々しいほど鮮やかに反射している。

 県内の港湾地区、錆びついた倉庫街で起きた連続殺人事件の現場には、黄色い規制線を越えようと押し寄せる報道陣の姿があった。傘の波がうねり、怒号のような質問が飛び交う。

 倫也はその喧騒の中心に立っていた。

 仕立ての良いダークネイビーのスーツは、泥と雨飛沫で裾が汚れている。だが、その汚れさえも、今の彼にとっては勲章のようなものだった。「現場の最前線で戦う男」の演出として、これ以上の小道具はない。


「益田警部補! 今回の解決の決め手は何だったのでしょうか!」

「被害者のご遺族に対して、今のお気持ちを!」


 無数のマイクが突きつけられる。倫也は一瞬だけ、計算された憂いの表情を浮かべ、伏し目がちに溜息をついてみせた。


「……執念、でしょうか」


 低く、よく通る声。記者たちが静まり返り、ペンを走らせる音だけが響く。


「被害者の無念を晴らすこと。それだけを考えて捜査を続けてきました。我々警察官にできることは、犯人に手錠をかけ、法の裁きを受けさせることだけですから」


 完璧な回答だった。謙虚でありながら、揺るぎない正義感を滲ませる。記者たちの目には、彼が「過去の悲劇を背負いながらも悪と戦う孤独な英雄」として映っていることだろう。

 倫也は内心で、冷ややかな嘲笑を浮かべていた。

 執念? そんな泥臭い感情は、能力のない三流刑事が抱くものだ。今回の事件解決は、単に犯人が杜撰だったことと、自分の直感が冴えていただけに過ぎない。犯人が逃走経路に使った廃倉庫の場所など、地図を見れば一目瞭然だった。

 だが、それを「執念の捜査」と表現することで、大衆は感動し、組織は彼を評価する。

 世の中はチョロい。単純なシステムだ。そして、そのシステムの上で誰よりも優雅に踊る自分は、なんと優秀な人間なのだろう。


「お疲れ様です、益田さん」


 背後から、抑揚のない低い声が掛かった。部下の鈴木優磨だ。

 倫也の影のように控えていた優磨は、濡れた髪を拭こうともせず、事務的に警察手帳を内ポケットにしまっている。

 優磨は優秀な男だが、華がない。いつも地味な裏取り捜査ばかりを担当し、今日も犯人確保の瞬間、倫也が一番目立つ位置で手錠をかけられるよう、泥泥になりながら犯人の足を押さえつけていたのは優磨だった。


「ああ、優磨。お前もご苦労だったな」


 倫也は労うような口調で言いながら、心の中では(もっと愛想良くできないのか、こいつは)と舌打ちをする。上司がスポットライトを浴びているのなら、部下はその引き立て役として、もう少し誇らしげな顔をするべきだ。


「犯人の護送は地域課に任せた。俺たちは署に戻って報告書だ。……ああ、その前にコンビニに寄ってくれ。コーヒーが飲みたい。それと、着替えも必要だな」

「……了解しました」


 優磨は短く答え、覆面パトカーの運転席に乗り込んだ。

 倫也は助手席に身を沈め、大きく息を吐いた。

 窓ガラスに映る自分の顔を見る。三十代前半、脂の乗り切った男の顔だ。目尻には知性を感じさせる皺が刻まれ、精悍さを増している。

 今でこそ順風満帆な人生だが、五年前に交通事故を起こし瀕死の重傷を負った。

 事故の前後のことはあまり覚えていないが、もう仕事に復帰できないという喪失感に、リハビリもおぼつかない毎日だった。

 だが、悲しみに暮れてばかりの日々に光が差した。

 落ち込んでいた俺を励ましてくれた、大学の同窓生えみりと、息子・すずが誕生した。

 妻となったえみりは、俺の仕事を理解し、陰日向となって支えてくれる。ぼやけていた俺の視界はえみりとすずの存在によって開け、怪我も治り、今の完璧な人生が手に入った。

 信号待ちで車が止まると、運転席の優磨がふと胸ポケットに手をやる仕草をした。

 無意識の癖なのだろう。何かを確かめるように、服の上から中身を握りしめている。


「なんだ優磨。お守りか?」


 倫也が何気なく尋ねると、優磨の手がピタリと止まった。


「……ええ。姉の形見です」

「ふーん。お前、意外とセンチメンタルなんだな」


 倫也はスマホを取り出しながら、鼻で笑った。「まあ、神頼みも悪くはないが、現場で役に立つのは自分の勘と足だけだぞ。死んだ人間にすがっても、事件は解決しない」

 それは、彼なりの部下へのアドバイスのつもりだった。過去に囚われるな、俺のように前を見ろ、と。

 優磨は何も答えなかった。

 信号が青に変わる。優磨はアクセルを踏み込んだ。街灯の光が流れる一瞬、優磨の横顔が能面のように無表情に見えたことを、倫也は気にも留めなかった。



 翌朝。

 益田家のマンションは、市内でも有数の文教地区にある低層レジデンスだ。セキュリティは万全、住人たちも社会的地位の高い人間ばかり。ここには、倫也が求める「平穏」と「品格」があった。

 カーテンの隙間から、柔らかい朝の光が差し込んでいる。

 倫也は目覚めると同時に、隣で眠る妻・えみりの寝顔を確認した。その穏やかな表情を見て、満足げに頷く。

 倫也はベッドを抜け出し、リビングへと向かった。


「おはよう、倫也さん」


 キッチンでは、えみりがすでに朝食の支度をしていた。

 エプロン姿が似合う、献身的な妻。


「おはよう、えみり。いい匂いだ」


 倫也は彼女の肩を抱き、頬に軽くキスをした。えみりは少し照れたように微笑む。


「今日はトーストと、オムレツにしたわ。すずも、もうすぐ起きてくると思う」

「ああ、手伝うよ。ゴミ出しは俺が行く」

「え? でも、昨日は遅かったんでしょう? 疲れてるのに……」

「家族のためだ。これくらい、なんてことないさ」


 倫也は爽やかに笑い、ゴミ袋をまとめた。

 俺は完璧な夫だ。仕事ができるだけでなく、家庭も顧みる。誰に見せても恥ずかしくない、理想の家庭人。その自負が、彼の背筋をさらに伸ばした。

 ゴミ出しから戻ると、ダイニングテーブルには十歳の息子・すずが座っていた。


「おはよう、すず」

「……おはよう、パパ」


 すずは小さな声で挨拶し、トーストを齧った。

 倫也は息子の頭を撫でる。


「宿題は終わったか? 今度の週末はキャンプにでも行くか。新しいテントを買ったんだ」

「うん……ありがとう」


 すずの反応は薄い。この子は昔から、どこか感情が希薄なところがある。

 だが、倫也はそれを「おっとりした性格」と好意的に解釈していた。自分の遺伝子を受け継いだ息子だ。今はまだ子供だが、いずれ自分のように優秀な男になるはずだ。

 そう、すずは俺とえみりの愛の結晶だ。


「あなた、コーヒー入ったわよ」


 えみりがカップを置く。

 倫也はコーヒーを啜り、窓の外の青空を見上げた。

 なんて素晴らしい朝だ。

 過去の不幸な事故。あれは悲劇だったが、必要な試練だったのかもしれない。神は俺に、この真実の幸福を与えるために、あのような回り道を用意したのだ。

 倫也は自身の物語に陶酔していた。

 この硝子の城が、あまりにも脆く、歪な土台の上に建っていることなど、微塵も疑わずに。



 出勤した倫也を待っていたのは、称賛の言葉ではなく、一枚の奇妙なカードだった。

 県警本部の大会議室。刑事部長がスクリーンを指し示す。


「最近、巷を騒がせている『怪盗バニー』についてだ」


 スクリーンには、美術館の展示ケースに置かれた予告状が映し出されている。赤いインクで描かれた、デフォルメされたウサギのマーク。可愛らしくもあり、どこか血痕のようにも見える歪なデザインだ。

 倫也はあくびを噛み殺した。

(美術品泥棒? 管轄違いだろう)

 昨日の殺人事件のような、血湧き肉躍る捜査ではない。誰も死なず、ただ絵が消えるだけの事件など、知能犯係か二課の仕事だ。俺のようなエースが時間を割くべき案件ではない。


「被害総額は既に数億円。犯行の手口は鮮やかで、指紋ひとつ、足跡ひとつ残さない。警察の威信にかけても、次の犯行は阻止しなければならない。そこでだ、益田」


 刑事部長に名を呼ばれ、倫也は居住まいを正した。


「はい」

「お前に、この合同捜査本部の現場指揮を任せる。殺人事件で見せたその手腕、期待しているぞ」


 会議室がざわめく。花形である捜査一課のエースが、窃盗事件に投入されるのだ。それは異例の人事だったが、倫也にとっては「自分の能力があらゆる分野で求められている」という証明に他ならなかった。


「承知いたしました。私の手で、必ずやそのふざけたウサギの耳を掴んでみせましょう」


 倫也は自信たっぷりに微笑んだ。

 会議の後、デスクに戻った倫也の元へ、優磨が資料を抱えてやってきた。


「……益田さん。バニーが今回狙っているのは、県立美術館に所蔵されている日本画『野兎の図』のようです」

「ふん、ウサギがウサギを盗むのか。泥棒の趣味なんてどうでもいい。要は、金になるから盗むんだろう」


 倫也は資料をパラパラとめくり、鼻で笑った。


「犯行予告があった美術館の警備配置、お前が叩き台を作っておけ。俺は少し、家へ電話を入れる」


「……またですか?」

「ああ。すずに、今夜は遅くなると伝えておかないとな。寂しがるだろうから」


 倫也はスマホを取り出し、えみりに通話を発信した。

 優磨はその横顔をじっと見つめていた。


「……お子さん、可愛い盛りですね」


 優磨の声は平坦だった。


「ああ、目に入れても痛くないよ。俺に似て賢いしな」


 倫也は電話のコール音を聞きながら、上機嫌で答えた。

 バキッ。

 乾いた音がした。

 倫也が振り向くと、優磨が持っていたボールペンが、真ん中からへし折れていた。


「……あ、すみません。力が入りすぎました」


 優磨は無表情のまま、折れたペンをゴミ箱に捨てた。


「なんだ、安いペンを使ってるからだろ。もっといい物を使えよ」


 倫也は苦笑し、電話に出たえみりに甘い声で話しかけ始めた。

 優磨が、胸ポケットの上からお守りを握りしめ、その爪が掌に食い込むほど強く拳を固めていることに、倫也は気づかない。



 その日の深夜。

 県立美術館は、重苦しい静寂に包まれていた。

 今回のターゲットとされるのは、大正期の日本画『野兎の図』。ススキ野原に佇む一羽の白兎が描かれた、静謐な作品だ。

 倫也は展示室の中央で仁王立ちしていた。

 警備員を回廊に配置し、監視カメラも増設した。通気口も封鎖済みだ。物理的に侵入不可能な密室を作り上げた。


「益田さん、コーヒーです」


 優磨が紙コップを差し出した。


「ああ、助かる。……静かすぎるな」

「ええ。嵐の前の静けさ、というやつでしょうか」


 倫也はコーヒーを啜り、壁に掛けられた『野兎の図』を見上げた。


「こんな紙切れ一枚に数千万か。理解できん世界だ」

「……描いた画家の魂が宿ると言いますから」

「魂? バカバカしい。モノはモノだ。壊れればゴミ、盗まれれば損害。それだけだろ」


 倫也が鼻で笑った瞬間だった。

 フッ。

 館内の照明が、音もなく一斉に落ちた。


「なっ!? 電源は独立させていたはずだぞ!」


 倫也の声が闇に響く。非常灯の赤い光だけが、不気味に廊下を照らし出した。


「総員、配置につけ! 誰も逃がすな!」


 倫也は無線で合図を出すと、拳銃に手を掛け、展示室の入り口を睨んだ。

 その時だ。

 背後から、衣擦れのような、あるいは吐息のような微かな音がした。


 まさか。ここは密室だぞ。


 倫也は勢いよく振り返った。

 非常灯の薄暗い赤色の中に、それはいた。

 展示ケースの上。ハイレグのバニースーツに身を包み、長い黒髪と長い耳を揺らす女のシルエット。顔にはアイマスクをしているが、その口元は悲しげに結ばれている。


「怪盗……バニー!」


 倫也は銃口を向けた。


「動くな! 警察だ!」


 バニーは動じない。逃げようともせず、ケースの上に優雅に座ったまま、倫也を見下ろしている。

 その目が、アイマスク越しに倫也を射抜いた。

 挑発的な泥棒の目ではない。

 深く、暗く、そしてどこか冷ややかな哀れみを湛えた目。


「……探しているの」


 鈴を転がすような、しかし氷のように冷たい声が響いた。


「探している? 盗んだ絵のことか!」


 バニーは答えず、ふわりとケースから降りた。まるで重力がないかのような動きだった。彼女は『野兎の図』の前に立つと、ガラスケースを透過するように、その白い手を絵画へと伸ばした。


「なっ……!?」


 倫也は目を疑った。バニーの手が、ガラスをすり抜けたのだ。

 そして、彼女は絵画の中から、ふわりと浮かび上がる「光の粒子」のようなものをすくい上げた。

 それは淡く輝く、小さな光の球だった。

 バニーはその光を、壊れ物を扱うように両手で包み込み、自身の頬に寄せた。


「こんな所に隠れていたのね。私の可愛いうさぎちゃん」


 慈愛に満ちた声。まるで、迷子になった我が子を見つけた母親のような響き。

 彼女は光を愛おしそうに抱きしめ、その輝きは彼女の肌に吸い込まれるようにして消えた。

 その光景を見た瞬間、倫也の心臓が早鐘を打った。


 ドクン。


 美しいはずの光景なのに、なぜか強烈な吐き気が込み上げてくる。

 生理的な嫌悪感。本能的な恐怖。

 胃の腑が熱くなり、頭の奥で何かが軋むような音がした。


(なんだ……この感覚は。気持ち悪い。見ているだけで、虫唾が走る!)


 自分でもわからない、ただ「不快だ」という感情だけが込み上げ、爆発する。


「貴様……何をした!」


 倫也は恐怖を怒りで塗りつぶし、叫んだ。


「降りてこい! さもないと撃つぞ!」


 バニーはゆっくりとこちらを向いた。


「邪魔をしないで。……また、あの子が寒がるから」


 バニーが呟くと同時に、彼女の姿が揺らぎ始めた。


「待て!」


 倫也が駆け寄る。だが、その手は空を切った。

 煙幕も、閃光弾も使われていない。ただ、蜃気楼が消えるように、バニーの姿はふっと掻き消えた。

 後には、開け放たれた空の展示ケースと、一枚のカードだけが残されていた。

 赤いウサギのマーク。

 絵画はそこにあった。だが、まるで魂が抜けたように、ただの紙切れと化したように色あせて見えた。


「……逃げられた、だと?」


 明かりが復旧した展示室で、倫也は呆然と立ち尽くした。

 完璧な包囲網だった。物理的に侵入も脱出も不可能なはずだった。あの光は何だ? あの女は何だ?

 屈辱で顔が熱くなる。


「益田さん」


 いつの間にか背後に立っていた優磨をはじめ数人の部活が、色あせた絵画があった場所を呆然と見つめて言った。


「中身だけ、抜かれたようですね」

「訳の分からないことを言うな! くそっ、どこから逃げた!」


 倫也は壁を蹴り飛ばした。革靴が鈍い音を立てる。

 優磨はその様子を、何の感情も浮かばない瞳でじっと見ていた。



 帰宅したのは明け方近くだった。

 倫也は疲労と屈辱、そしてあの光景を見た時の気味の悪い吐き気を引きずったまま、玄関を開けた。


「おかえりなさい、倫也さん」


 えみりが眠い目をこすりながら出迎える。


「……ああ」


 倫也は靴を脱ぎ捨て、リビングへ入った。


「コーヒー、淹れる?」


 えみりが気遣わしげに尋ねる。


「いらない。寝る」


 倫也は短く答えた。その声には、隠しきれない棘があった。


「あら……何かあったの? そんな怖い顔して」


 えみりが心配そうに倫也の腕に触れようとした瞬間、倫也は乱暴にその手を振り払った。


「触るな!」


 自分でも驚くほどの大声が出た。

 えみりがビクリと体を震わせ、後ずさる。


「と、倫也さん……?」

「……すまん、疲れてるんだ。放っておいてくれ」


 倫也は言い訳のように吐き捨て、寝室へと向かった。

 ドアを閉める直前、リビングの隅に、早起きしていたすずが立っているのが見えた。

 すずは、じっと倫也を見ていた。

 いつもの無表情。だが、その瞳は倫也を通り越して、倫也の背後にまとわりつく「何か」を見ているようだった。

 倫也は乱暴にドアを閉めた。

 心臓がまだバクバクといっている。

 なんだ、今の苛立ちは。俺は、愛する妻にあんな態度を取るような人間じゃないはずだ。俺は完璧な夫だ。優しい父親だ。

 そうだ、全部あの怪盗のせいだ。あの女が、気味の悪い手品を見せたせいで、俺の調子が狂ったんだ。

 倫也はベッドに倒れ込み、布団を頭から被った。

 目を閉じても、あのバニーが光を抱きしめる姿が焼き付いて離れない。


「……可愛いうさぎちゃん」


 その声が、耳元でリフレインする。

 倫也の硝子の城に、ピシリと、小さな、しかし修復不可能な亀裂が入った夜だった。


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