暖める
思ったよりずっと早くにジョーンが帰ってきたので、カイは慌てた。
竈で、パンを焼いていて、火を見張っていて。
アパートの裏手にいるから、ジョーンが帰ってきたのは見えないはずなのに「あ、ジョーンが帰ってきたから、ちょっと離れるね」とかは難しい。
そわそわしていたら、
「おトイレかい。いっといで」
勘違いだが、察しは良い、下の階の奥さんのおかげで、
「じゃ、ちょっと」
と、抜け出せた。
ジョーンが帰ってくるときは、ちゃんと家にいて、お帰りって言ってあげたい。今日は早かったなー。
と、猫になって外の窓の庇を跳ねるように登って、部屋に入り、人に戻って服を着て整え、間一髪で出迎えて。
潮の香りやら、濡れて、吹いた風でたちどころに凍った髪に気が付いて、
お帰りという言葉より
「どうしたのっ」
が、先に出た。
氷を叩き落として、冷えた体を抱きしめて。
毒と病気を察して。
ジョーンの中から追い出す。
幸い、身に取り込んですぐだったから、大した魔力を使わなくても追い払えた。
冷えた血流に熱を送り込む。
「海に落ちて」
ジョーンが呟くように言った。
「え、よく無事で」
「俺じゃなくて、マーリオが。仕事、仲間が」
ぽつぽつと要領を得ない説明をするジョーンを部屋の奥に連れて行き、辛抱強く聞き出す。
ジョーンが無事で良かった、というのがカイの本音だったが、それは口にしなかった。
それはきっと、ジョーンの欲しい言葉ではなかったから。
寄り添い、頷いて聞きながら、
でかい図体が、寒さからでなく、震えているのを察して。
「ああ、怖かったね、ジョーン」
震えるのが止まるように、強く強く抱きしめた。
あなたの幸せな人生に、マーリオの死がふさわしくないから。
彼が死に絡め取られそうなら、止めてきてあげるから。
だから、怯えなくて良いんだよ。
暖めたお酒を飲ませて、タオルで頭から足までごしごしとして、水気をとると、ジョーンをベッドに押しやって寝かせた。
「遅くなってごめんねー、うちの人が帰ってきちゃったから。新婚だから、許して」
と、かわいらしく竈の主婦仲間に謝罪して、少しまたのろけたり、愚痴ったりをして。
焼き上がったパンを分けて、部屋に戻り。
暗くなって、風も強くなるなか、黒い猫はマーリオの家に走った。
汚い冷たい海に落ちたから、弱ったら、肺炎にもなるし、どんな感染症を起こすかわかったもんじゃない。毒も強いし。でも、数時間しか経っていなければ、胃や肺の病毒を消せばいいから、そんなに難しいことじゃない。発症さえしなければ。
マーリオは、カイの契約者との間に命を助けられるという強い縁を結んでいるので、一本の光の道が出来ている。
だから、迷わなかった。
1番アパートだった。
たどり着くと、息子達が言い合いをしていた。
マーリオはひげ面のおっさんで、子供は、みな大きい。とくに長男は16歳で、奉公に出ていたし、次男も行き先が決まっていた。三男はまだ、11歳なので、もう少し親元にいるだろうが。
と、窓の隙間から見て察したのだが。
どうやら、長男に、三男を連れていけと、マーリオの妻が言ったらしくて、反発しているようだった。
「わかって。父ちゃんは頭を強く打ってるらしいんだよ。起きないかもしれない。起きても働けないかもしれない。共倒れするわけにいかないんだよ。頼むから、あと三年もすれば、スー坊(三男)も丁稚にでも出せるだろう」
「そんな、こういうときに助け合うのが家族だろうっ」
「泥船で全員道連れにしたがる男じゃねえんだよ、お前らの父ちゃんはっっ」
あー、悪魔の僕が泣きそうだわ、ほんと。ジョーンといい、ここの人といい。
でも、そっか。
頭打ったんだなぁ。
ちなみにマーリオの妻のリラは共稼ぎで産婆をしており、ちょっと医術的な心得もあったため、仕事仲間達に戸板に乗せられて帰ってきた夫を見た瞬間、駄目かもしれないと察したのだ。そして、それは合っている。
カイはするんと、マーリオの魂の中に入り込んだ。
人の心は雑多で整頓されていない。
だが、温かい空気の魂の中だった。
「や、マーリオ。悪魔のカイγーンだ。寿命二年分と引き替えに、頭の怪我を治して、海水飲んだときの病毒消してやるけれどどうする? ただ、三ヶ月は安静にしてもらうし、うまく喋れない後遺症は残るよ。手の力も弱くなるだろう」
「仕事は?」
「休み休みぼちぼちならできるんじゃない? もしくは別の仕事を探しなよ。なんかあるだろう」
「生きたい。だが、妻子の重荷になるぐらいなら、ここですぱっと死にたい」
「努力次第かな。妻のために、子のためにがんばれるなら」
10年寿命(生命力)を貰えれば、完全に直せるのだが、マーリオはすでに38歳。ここで生命力を削ると、事故で弱った体は虚弱になって、たぶん助けても意味のないぐらいの早くに死ぬだろう。
下手したら、来年に、風邪でもひいて死ぬかもしれない。
「助けて欲しい。まだ死ねない。せめて、末の子が独立できるまで」
「契約、成立」
後日談である。
マーリオは翌日の朝、目を覚ました。
最初はろれつが回らず、手もしびれていたが。
6日もすれば、妻や子のどちらかの支えがあれば、自力で排泄も可能になった。
スプーンを持つと震えるので、食べるのは妻に頼んだ。
一ヶ月後、舌足らずだがほぼ喋れるようになり、粥なら一人で食べられるようになった。手の震えはだんだん治まっていった。
春まで仕事を休んで、リハビリして。
軽い荷物なら運べるので、日当は少し下がったが、また荷はこびに雇われた。
マーリオが復帰すると、ジョーンはすごく喜んだ。抱き合い、その日は軽く酒を飲みに行った。ジョーンがそんな風に誰かと飲むのは、そんなに多くない。
二人は、というよりカイや妻子も含んで、二家族は仲良く付き合った。
さて、それはそれである。
ぎとぎとした、生命力溢れたマーリオの命を少し取り込んで、胃もたれしたカイは、そのまま海を見に行った。
きったない海で。
本当に、怖い、事故なんて起こって当たり前な作業環境で。
今まで、荷運びだっていうから、地面の上をあっちいってこっちいって、て感じだとばかり。あまり想像とかしなかったというか。
こんな危ない作業場だって、思わないじゃないか。
もう少し安全な仕事して欲しいな。
それから飛び跳ねて黒猫はジョーンの元へ帰り、懐に潜り込んでぬくぬくとしながら。
ふっと。
青ざめた顔で、
ああして寝かされていたのは
ジョーンであった可能性もあったのだと思った瞬間。
もう少し安全な仕事して欲しいな?
そんなんじゃないよ。
安全な仕事見つけてきて、転職させよう。
やだやだやだやだ、このままなんて怖い。
「んー?」
と、ジョーンが珍しく起きて、カイを抱き寄せた。
「今日は さむい な」
互いに暖め合いながら、朝を待った。