迷い水
そもそも、水とは何なのだろうか?
単発の短編です、気軽にお読み下さい。
「お部屋は3階の305号室になります」
ギリギリ間に合ったな。背後でいや増す雨音に背を押され、エレベーターを使って3階を目指す。途中ラウンジでコーヒーを飲んでいた人に不審な目で見られたが、この装いではやむを得ないだろう。305号室の前に立ち、ドアを開けようとスーツケースが上に乗ったクーラーボックスを脇に置いた。ちゃぷん
中に入るとすぐ左手にドアがある。探す手間が省けたなと思いつつドアを開けると、やはりというか
極めて一般的なユニットバスが存在していた。雫が飛び散らないよう極めて慎重に洗面所の蛇口を捻ると、透明な液体が始めは細い糸、徐々に勢いを増していくとやがては太い流れとなって、出口へ流れ込んでいく。まるで別の生き物のようではないか。これまた慎重に透明なコップにその液体を半分程度汲むと、光に透かしながら揺らしてみる。ちゃぷん
ふむ……大丈夫そうだが……
祖父はよく都会のは危ないから気を付けろ。と口癖のように言っていた。子どもに聞かせるには実感が籠もっていたので、何か危ない目に遭ったのだろう。手で仰いで匂いを嗅いでみると……なるほど、気を付けろとはそういうことか。彼らに別れを告げながらコップの中身を無機質な洗面ボウルへと注ぎ込むと、本流と一体となって消えていった。
やはり、手持ちで持たせるしかないか。コップを逆さに置き、蛇口を先程とは逆に捻ると後ろ手にドアを閉めその場を後にする。ちゃぷん
ベッドの傍まで行くと着ていたものを脱いで畳み、濡れていないかを確認してスーツケースに入れる。予め出しておいたブルーシートをヘッドボードから足先までを覆うようにベッドに被せ、その上に身を横たえながら今日一日を振り返る。
しかし、滝川さんも迂闊なことをしたものだ。第一発見者の津沼さん曰く、自宅には外国産の天然物が大漁に箱で置いてあり、飲みかけのペットボトルが横に転がっている状態で事切れていたそうだ。外国産なら大丈夫だとでも思っていたのだろうか?彼は古風な人だったから、新しい情報に疎かったのだろう。面倒くさがらずに帰省するなり、誰かに頼むなりすればよかったのに……長生きが油断を招いたのか。生を終えた時、溶けかけている姿を晒すのは相手が何であれ勘弁願いたいものだ。
深く息を吸い、感慨と共に空気中に吐き出す。憂いを含んだ呼気は部屋の湿度を上昇させ、乗っているものの動きに合わせてベッドがぎしりと音を立てる。ちゃぷん
そもそも、今回行くはずだったのは祖父だ。それをもう身体が動かないと言って押し付けてきたのである。いい加減なんとかしないと本当にその通りになってしまいそうだ。
幸い警察沙汰にはならなかったようなので、津沼さんが事後処理の殆どを担当していてくれた。お陰でやったことといえば津沼さんへの慰労と、滝川さんだったモノを故郷へと持ち帰ってやることくらいだ。そういえば、通常の火葬では骨しか残らないほどの熱で遺体を焼いてしまうが、我々の場合はどうするのだろう?どうせ帰省するのだし、祖父にでも聞いてみようか。
寝る前に間違えないように取り出したペットボトルの中身を飲み干すと、それと入れ違いに別のペットボトルを取り出す。光に透かして見てみても、特に何の変哲も無い。まじまじと見るのは初めてだったが、こういうものなのだろうか……しかし、改めて考えるとこれは非常に失礼な行為だったかもしれない。心の中で謝罪すると、他と区別するためペットボトルカバーを被せてからしまい直し、床に垂れていたブルーシートを体の上に掛けて目を閉じる。すると、すぐに意識は海の底に誘われた。ちゃぷん
――懐かしい夢を見た。
後ろから羽交い締めにされ泣き叫ぶ顔。鋭い犬歯と不揃いな歯並び。暗闇。ちゃぷん
そして、広がる視界。そうだ、帰りに祖父へ土産を持っていってやろう。都会であれば若い人間は多いだろうから、選ぶのに困らないはずだ。
翌日、ホテルを出て仰ぎ見た空は、気持ち悪いほどの快晴だった。
「あの、本当にお話するだけでお金がもらえるんですか?」
えぇ。先程もお話したとおり、祖父は暇を持て余していましてね。若い人に昔話を聞いてもらうのが唯一の楽しみなんですよ。どうぞこのソファに掛けて待っていて下さい、祖父を呼んできますから。
ただいまじいちゃん、お客さんを連れてきたよ。
客ぅ?津沼さんかい?
違う違う、お客さんだよ。
……あぁ、そうけぇ。わりぃなぁわざわざ。
お待たせしました、祖父です。
えれぇわけぇの連れてきたなぁ、よう来て下さった。
「は、初めまして。えっと、何やらお話を聞かせてくださると伺いましたが……」
あぁあぁそう畏まらんで、肩の力を抜いたって下さい。おい、茶の二つも用意せんか。
はいはい、お待ち下さいね。
考えてみれば初めての体験だ。まぁ、失敗してもその時はその時だろう。あくまでお土産なのだから、受け取れなかった祖父が悪いのである。
音を立てずに部屋に入って祖父に目配せをすると、緊張はほぐれているのかにこやかな口調で身の上話をしている彼を後ろから羽交い締めにする。すかさず祖父は驚く彼の膝の上に乗って下半身の自由をも奪うと、両腕を使って彼の口をこじ開けたまま固定する。
「ふぁめ、ふぁいをふんんれすあ!!!」
突然の出来事に驚き叫ぶ彼を見下ろすように祖父が口を開く。
祖父の口から彼の口の中へ、何十年ぶりに見る水がするりと滑り落ちていった。ちゃぷん
それで、使い心地はどうなのさ。
あぁ、素晴らしいよ。よくこんな若くて健康なのを連れてこれたな?
金で釣ればほいほい付いてくるようなのが若い人間には多いのさ。しかし、口調まで変えなくてもいいんじゃ?
いやぁ、どうしても身体に引っ張られるんだよな。お前も歳を取ってからやってみれば分かるよ。
そんなもんか。
それで、滝川さんは?
あぁ、持ってきてるよ。見る?
見るかよ死体なんて。早く川に流してきてやれ。間違っても沢の方に流すんじゃねぇぞ。
分かってるよ。そういや津沼さんだけど、じいちゃんが来なかったことにホッとしてたみたいだよ。
だろうよ。あいつはこっちのことを嫌ってるからな。
嫌ってる?なんで?
昔はあいつもこっちに住んでたんだが、まぁ方針の違いってやつで揉めてな。一族総出で引っ越しちまったんだよ。
へー、知らなかったな。方針の違いって?
あいつらよ、引っ越しに水道使うんだよ。