優しい勘違い
渡辺一徹は旧友の黒沢と飲んだ帰り、新橋駅近くの高架橋からフェンス越しに下を通る電車を何本もじっと見ていた。
渡辺が社長を務める九十九鉄工所に新しい工作機械を入れるかどうかで、数年来の悩みを相談したのだった。
社員三十七名を食わせて行くには現状維持だけではジリビンで「攻めの経営が必要だ」と言われて来たところであった。
それでも設備投資に数千万はかかるであろう。
どうするか頭が痛いところだ。
「オジさん、早まっちゃダメだよ」
下を向いて悩んでいると突然、若いお嬢さんに声を掛けられた。必死の涙声だ。
どこかで見た顔だが、よく判らない。
何かの誤解だろうが、咄嗟に言葉が出て来ない。
「借金か何か知らないけど、元気なのに死ぬなんてもったいない。私の父は病気でもう長くはないのよ。オジさんも家族の気持ちをよく考えて」
お嬢さんは真剣な眼差しをしていた。
「僕は死にません」
父上に同情して短く答えた渡辺は(相手の勘違いだったが)お嬢さんから何かしらの勇気を貰ったような気がした。
翌日、渡辺は経理の内山君と三菱UFJ銀行に融資を頼みに行った。
挨拶と名刺交換をして、融資係主任の大原氏が担当となった。
工作機械の導入で精度と時間が改善され、定年で辞めて行く熟練工対策にも一役買い、受注拡大も期待出来ると説明した。
そして太田区にある九十九鉄工所の土地を担保に、三千万円を利子三%で借りることにした。
ふと、渡辺はパンフレットの少女に気が付いた。
(あっ、昨日のお嬢さんだ)
すかさず「この子は誰ですか」と大原氏に聞くと「かおりんですね。僕は大ファンなんです。歌手でアイドルの野村香織さんです」と説明された。
そうか、かおりんと言うのか、きっと病院で看病の帰りだったのであろう。
とても良い娘さんだったなと思った。