帰郷②
名古屋駅を降りた僕はふとあることを思い出していた。
「あっ・・・」
実家に帰ることで頭がいっぱいだったため、母親に帰ることを告げていなかったのだ。突然現れてもきっといい顔はしてくれないだろう。だからせめて連絡を入れておこうと思った。
「もしもし。あ、俺だけど」
「健次?どうしたの?」
「仕事が休めたから帰ろうと思って。いいかな?」
「ええ・・・いいけど仕事大丈夫なの?」
「うん。実はもう名古屋にいるんだ」
「そう。早く帰ってきなさい。お父さんが待ってるから」
「うん」
僕はそう言って話を切った。
久しぶりに聞いた母親の声は前回と違って落ち着いていた。父親が死んでもすぐに家に帰らなかった僕に対して優しい口調だった。今考えてみれば父親が死んで一週間以上経っている。少し落ち着いてもいてもおかしくないか。
最寄り駅を降りた僕は、実家に向かって歩きだした。駅からそう遠くない実家への道のりは少し複雑だった。見慣れた風景はどこか懐かしさを感じた。東京に憧れて必死に上を見つめていた頃の自分を思い出していた。
あの頃はひたすら普通という言葉や平凡、安定、そんなものを嫌って生きていた。夢だけを見続けて怖いもの知らずに歩き続けたあの頃が何だか懐かしく感じていた。
小池さんに出した五枚の原稿用紙もこの住み慣れた町が舞台になっている。僕が生まれて、両親を知って、友達が出来て、仕事をして、いろいろな出会いを経験をした。原稿用紙の中で一番楽しかったことを書いた後、一番大事なことを書き記していた。
その話を思いついたのは由美の前で泣いたのがきっかけだったわけではない。きっかけはずっとその前からあったのだ。だけど僕自身それに気づかず、時間だけが過ぎていった。まるでおじいさんが眼鏡を失くしたと言って結局自分の額にあったという話のように、逃げた青い鳥を探しに行ったらすでに鳥は家に帰っていたという話のように、目の前のものほど、身近な者ほど見えにくかったりもするものだ。僕にはそんな幸せが見えなかった。
玄関の目の前に立った僕はインターホンを鳴らした。玄関を開けて出てきた母親は僕を見て優しく微笑んだ。家の中には誰もいないのか、少し寂しげだったのが僕の最初の印象だ。
「ご飯は?」
「ああ、食べるよ」
「チラシ寿司でいい?」
「うん」
「昨日もお客さんが来たから作ったんだけど、余っちゃってね。ちょうどよかった」
母親がキッチンでそんな話をしている中、僕は荷物を置きながらすぐに仏壇に視線も送った。
そこには照れ臭いくさそうに微笑んでいる父親の遺品が置いてあった。
「父さん・・・」
「健次、仕事って何して」
母親は父親の遺影の前で泣いている僕を見てそれ以上何も言わなかった。それは今まで僕が一度も見せたことのない顔で、頑なに見せようとはしなかった顔だった。男が泣くのはカッコ悪いと思ったいたから。走馬灯のように父親との記憶が蘇った時、何故か涙が止まらなかった。
ラーメン屋で吉幾三の「雪国」を歌って「お前は大物になる」と言った父親の顔も、徒競走で一番を取った時に初めて見せた父親の涙も、二人の女の子に告白された時「デブを選べ」と言った父親の顔も、油まみれで帰ってきた時に僕が怒鳴ったあの日の困った父親の顔も、好きな子が出来たと言って「女は花だ」と言った父親の声も、引きこもった時いつも励ましにきた父親の声も、お前には「福運がある」と言って僕の肩を二回叩いた父親の顔も、気がつけばすべて僕のために言ってくれた言葉で僕のことを見つめている顔だった。
「健次、がんばれ!」
記憶の奥の方で一瞬だけ僕の耳にそう聞こえた・・・。
最寄駅で買ったオトントグロッサムの花を父親の遺影に飾った。
もちろん花言葉を知っての上で僕は父親にその花を捧げた。チラシ寿司を食べながら僕は母親に聞いた。
「葬式何人くらい来たの?」
「さあ?いちいち覚えてないわ」
「愛されてたのかな」
「お父さんは人に嫌われないからね」
「愛されてたんだね」
「お母さんが愛した人だもん。当然よ」
「母さんこれからどうするの?」
「何が?」
「父さんが死んで一人ぼっちじゃん。姉さんとこ行かないの?」
「・・・・いいわよ。迷惑かかるし」
「迷惑じゃないと思うけどな」
「いいの」
「じゃ、俺が母さんの面倒みるよ」
「何言ってるの。あんたは東京で仕事してるでしょ」
「関係ないよ」
「お父さんの葬式にも出れないほど忙しかったんでしょ?」
「まあ・・・そうだけど」
「そういや、あんた仕事なにしてるの?」
「脚本家」
母親はチラシ寿司を吐き出した。
「脚本家ってドラマの台本とか書く?」
「そう」
「ちょっとすごいじゃない!ちょっとあんたにそんな才能があるなんてね」
「あ、いや、その、なんていうか・・・そこまですごいレベルじゃなく・・・」
「謙遜しなくていいわよ!そりゃ帰ってこれないわね」
「あ、はあ・・・」
僕は引くに引けない状況に戸惑っていた。母親は人の話を聞かない癖がある。トイレ掃除しかしていません、なんて弁解するのも面倒だったのでそのまま受け流すことにした。それは僕の悪い癖だ。
「家のことは気にしなくていいから。あんたは好きなことやんなさい。いいの。いいの。子供を三人も産んでるのよ。並の男より強い精神力持ってるんだから」
そう言って笑みを浮かべながら母親は僕の肩を叩いた。父親よりも力強い。
しかし、うっすらと光る涙を僕は見逃さなかった。母親はやっぱり寂しいのだ、僕のことを思って、作り笑顔を浮かべて僕をまた東京に帰そうとしている気がした。きっと僕の嘘も見抜いている。
「母さん・・・」
「無理しなくていいわよ。あ、健次。今日は泊まっていけるんでしょ?お布団用意しといたし、お風呂も出来てるから」
母親のその優しさが僕にはとても辛かった。
親というのはどうしてそこまで子供のことを大事にするのか、僕は東京に出て行った後もそれだけが分からなかった。それは僕に子供が出来て親にならない限り分からないのかもしれない。
「母さん」
「何?」
「今日は泊まれないんだ・・・」
「どうして?休みじゃないの?」
「明日も朝早いから。もう帰らないと・・・」
「まだ来たばかりじゃない。もう夜遅いし」
「泊まれないんだよ!」
「そう・・・」
僕は寂しそうに肩を落とす母親を冷たくあしらった。
「また連絡する」
玄関の外まで見送る母親にそう言い残し、僕は実家を出た。実家にいるとやっぱり甘えてしまう。そう思った僕は最終の新幹線で東京に向かうことにした。
少し冷たいと思ったが、今の僕にはどうしてもやりたいことがある。脚本家として一人前になること。父親が死んでもすぐに帰らなかった僕に母親を幸せにする資格などなかった。母親の顔を直視できない弱い自分がまだいた。
家を出る前に母親が言った言葉を思い出していた。
(あんたは何やっても長続きしないから苦労すると思うけど、なんでも挑戦することは良いことよ。何事もプラスに考えなさい)
プラス思考。
何処かで聞いたような言葉だった。小池さんに怒られた時、由美が励ましてくれた言葉でもあった。自分はまだまだできる。成功者は最大のポジティブマンだ。それだけが今の僕を支えていた。




