新たなる一歩③
翌日、僕はひとつだけ小池さんに聞きたいことがあった。
「小池さんって結婚してましたっけ?」
この質問に由美は少しムッとした顔を見せたが、そんなことなど気にしなかった。
仕事の手を休めて小池さんが静かに口を開いた。
「独身だよ」
その言葉に僕は再びいたずらっぽい顔をしてこう問いかけてみた。トイレ掃除や雑用しかやらせてもらえないことに対しての嫌味でもあったのだ。
「結婚しないんですか?子供とかいらないんですか?」
すると小池さんは何も言わずに天井を指差した。
「上行こうか」
機嫌をそこねたのか、少し戸惑った僕とは対照的に意外にも小池さんの表情は穏やかだった。
屋上に着くと雲ひとつない青空を見ながら小池さんは静かに口を聞いた。
「お前は本気で脚本家になりたいのか?」
無感情に答えた。
「え、ああ、まあ」
「お前の夢なのか?」
「まあ」
小池さんはしばらく黙ったまま何も言わなかった。自分の過去でも思い出しているのか、うつむいたまま何も言わなかった。たまらず僕は小池さんの名前を呼んだ。
「小池さん?」
僕の問いかけに小池さんは、ああ、と我にかえったような顔をした。少し間をおいて僕の近くに寄ってこう言った。
「夢を実現させるためには他のすべてを捨てなきゃならん」
小池さんの目は寂しそうだった。
「全部は手に入らないさ」
小池さんの僕の肩をニ、三回叩いて背を向けた。その小池さんの後ろ姿が一瞬父親の後ろ姿と重なって見えた。
事務所に戻ると小池さんが数枚の原稿用紙を渡してきた。
「あ!健次、初仕事だ。これにお前なりの物語を書いてみろ」
「物語ですか」
「誰かに見せるとかじゃないから心配するな。少し物書きの勉強をしてみろ。明日までだ」
「明日までって・・・」
無言の圧力に断ることもできず僕は五枚の原稿用紙と睨み合った。
仕事を終え、家に帰った後も原積用紙との睨み合いは続いていた。
物語を書けと言われても何を書いていいのか思いつかなかった。僕は一度もペンを握ることなく気がつけば朝を迎えていた。
「やばい・・・」
仕事に行く時間になっても一文字も書けないままシワシワになった原稿用紙を必死に広げて僕は事務所に向かった。
小池さんに怒られるだろうと覚悟しながら重い足で事務所の扉を開いた。
「健次、持ってきたか?」
事務に入って第一声が小池さんの声だった。僕はうつむいたままカバンの中からシワシワの原稿用紙を取り出した。
「何だ?これは」
厳しい表情で小池さんが僕の原稿用紙を見た。
「す、すみません。家でずっと考えてたんですが思いつかなくて・・・」
小池さんは少しため息をついた後、由美にも同じ質問をした。
「由美は書いてきたか?」
「はい!」
小池さんは僕にだけ宿題を出したと思っていたが、由美にも同じ原稿用紙を渡していたのだ。
「お願いします!」
その声に大きく頷いた小池さんは由美の書いた五枚の原稿用紙を隅々まで読み進めた。その態度はまるで僕と正反対で物語を読むにつれ何度も笑みを浮かべ頷いていた。
やがて読み終わると、小池さんは由美に優しく微笑んだ。
「おもしろいよ、これ」
「本当ですか?ありがとうございます!」
「『主人公は冴えない男、父親を嫌って上京するが、どこに行っても相手にされなかった。そんな男が本当に大切なものは一体何かを探して成長していくストーリー』か。おもしろいよ。今時のニーズにあってる。夢ばかりでかくて実行しない男が多いからな。口だけの男が」
「そうなんですよ!夢とかカッコいいことばかり言うわりには、小心者で結局何も手に入れない馬鹿な男が主人公なんですよ」
由美は自信満々の表情で小池さんにそう言った後、僕の顔をチラッと憎らしく見て微笑んだ。
彼女は僕のことを書いているような気がした。小馬鹿にされていると思った。
「俺に対する嫌味かよ!」
「何がよ?」
「これは俺の話だろ!」
「さあ?どうかしら」
「しらじらしいクソ女が!」
「もょうどいいネタだと思ったから使わせてもらったわ!」
「やっぱり俺の話か!人を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
僕はそう言って由美に掴みかかった。暴力を振るいそうになった僕を小池さんがとめた。
「お前がいい加減にしろ!」
小池さんに手を掴まれた僕は由美から引き離された。小池さんは僕が持ってきた白紙の原稿用紙を見てこう言った。
「健次!お前の実力はこれだ。シワシワになっているのはお前の心と同じだからだ。父親も尊教出来ない人間に人を感動させる話が書けるはずがない!」
事務所に響き渡るその言葉に僕の心はえぐられるような痛みを感じた。
うなだれる僕に小池さんは再び言った。
「健次!もう一度チャンスをやる。今度は一週間だ。自分の歩いてきた道をもう一度振り返ってみろ。何が楽しかったのか、何が大事なのか、よく考えてみろ」
僕はふてくされながら再び原稿用紙を受け取った。カバンに原稿用紙をしまう。憎らしく微笑んでいる由美の顔を無視して、僕はため息まじりにトイレ掃除を始めた。




