旅立ちの序章④
自分自身と見つめ合いながら悩んでいると、後ろから物音が聞こえた。
振り返ると父親がパジャマ姿で立っている。しかし、決して寝起きの顔ではなかった。
目が合うと僕はすぐに目をそらしてうつむいた。いつもとは違う父親の異様な雰囲気に僕は戸惑っていたのだ。やがて父親が僕のほうに近づいてこう言った。
「なんで東京なんだ?」
その言葉に僕は少し黙りこんだ。父親はゆっくり窓のカーテンを開いた。薄暗い部屋に朝日が差し込み一気に部屋が明るくなった。
険しい父親の横顔がはっきり映った。僕が東京に行くことを告げたあの時も実は起きていたのだろう。
あえて何も言わず布団で何か考えていたのだろう。きっとあの時も今と同じ表情をしていたのだろう。僕は思わずつぶやいた。
「東京なら何か見つかる気がして」
別に目的があったわけでもない、ただ東京という大都会、そして自由ということに憧れを持っていただけだった。その気持ちを悟っているように父親はため息を吐きながらこう言った。
「東京か。若い時は俺もそうだった」
父親の意外な言葉に僕はまた戸惑っていた。生まれた時から無難な生活をして、夢も憧れも持たず楽して生きていたのだろうと僕は思っていたからだ。
そんな父親が僕と同じ年頃で僕と同じ考えを持っていたことに驚きを感じると同時に少し嫌な気持ちにもなっていた。僕も将来こういう大人になるのかと一瞬思ったからだ。
その時、ふと父親の顔を見ると険しい顔から一転、何故か穏やかな表情に変わった。そして僕の顔をじっくり見てこう言った。
「お前は運がいい。きっといい人生を送る」
何故急にそんなことを言うのか、そしてその根拠はなんなのか、疑問に思った。きっとまたろくでもないことを言っているのだろうと思った僕は、あきれた顔で問いかけた。
「なんでそんなことわかるの?」
東京行きに賛成すれば、ひねくれ者の僕は逆に行かなくなるとでも思っているのか。そう思うと東京に行きたい気持ちが増していた。
「俺は絶対東京行くからね」
僕はそう言い切った。誰も僕を止めることなんか出来ない。黙ったままの父親を無視するように、僕は冷めたコーヒーを机に置いたまま部屋を出ようとした。
「お前には福運がある」
静まりかえった部屋で父親はふと沈黙を破った。思いもよらないその言葉に僕も立ち止まった。
「福運?」
そう問いかけた。でも振り返りはしなかった。やがて父親は僕のほうに近づいて、そっと僕の肩に手を置きながら話を続けた。
「福運ってのはお前が持って生まれたものだ。だからいい人生を送れる。信じる信じないはお前の自由だ」
父親はそう言って僕の肩を二回軽く叩くと、先に部屋を後にした。すごく根拠のない抽象的な言い方だったが、何故か素直に受け止められた。父親は昔からそうだった。
「大物になる」とか「女は花だ」とか根拠のない事ばかり言ってきた。でもその言葉ひとつひとつがいつも記憶に残った。
父親は人前でしゃべるのが苦手で、地味な存在だった。
姉の結婚式のスピーチだって顔を真っ赤にして緊張しまくっていたのを覚えている。けれど、仕事の愚痴も言わず、嘘もつかず、約束も破ったことのない父親は周りからの評判がとてもよかった。
それは母親にも言えることで、母親はスーパーのパート勤めだったが朝早くから新聞配達もしていた。家事を済ませ、空いている時間は内職をして家計を助けた。父親の稼ぎが悪くても文句ひとつ言わないし、ちゃんと貯金もしていた。近所からの評判もよく町内会長まで務めるほどだった。
そんな両親から生まれた僕はきっと評判のいい人間に育つだろうと誰もが思っていた。しかし、現実はそうじゃない。僕はわがままで平気で嘘もつく、暇な時はダラダラと過ごし、両親の悪口も言いたい放題だった。そんな僕が周りから評判がいいわけがなく、嫌悪感を抱かれることも少なくなかった。同じ血を受け継いだとは思えないほどだ。
人のいい両親に少し後ろめたさを感じていたが、僕はそれでも自分を変えようとはしなかった。自分の人生は自分で切り開きたいと思っていたからだ。
前に父親がこんなことを言っていたのを覚えている。
「人はみんな支えあって生きてる。人に優しく出来る人間は人から優しくされるし、人を助ける人間はいつか自分も助けてもらえる。それが人だ。他の動物にはない唯一の感情なんだよ」
その言葉を聞いて熱いものを感じたのは確かだった。でも信じたわけじゃなかった。
人にいくら優しくしたって優しくされるとはかぎらない。いくら人を助けたって自分が助けてもらえるとはかぎらない。そんな保証なんてどこにもないじゃないか。
所詮、全部綺麗事に聞こえていた。だから父親がそう言った時も反論した。でも父親は自分の念を曲げようとはしなかった。
「いつか分かるさ」
いつもそう言って話を終わらせた。わがままで屁理屈な僕と話しているのも嫌なのだろう、だったら僕が出て行く。そう思ったのも東京に行く動機につながっていた。そのほうが僕も楽だし、両親も楽だろうと考えていた。
とにかく、いろいろな理由が重なって僕は家を出ることにした。
次の日の早朝、僕は十九年間住み続けたこの家を出ていくことにした。グレて不良になったわけでもない。勝ち組のボンボンになったわけでもない。
でも今のままでは何も変わらないし、僕がこの世に生まれた意味もない。人と同じレールの上を走るそんな人生はまっぴらだと思っていた。
僕は父親とは違い、もっと広い世界でもっとデカイことがやりたいのだ。そして多くの刺激がほしかった。僕はそう思いながら駅までの道のりをただひたすら歩いていた。
もう後戻りは出来ない、一言ぐらい両親に挨拶すればよかったと思ったが、二人とも寝ていたので僕は黙って家を出てきた。
故郷を離れるのはもっと寂しいものだと思っていたがそうでもない、意外と僕は平然としていた。東京という憧れの町に行ける嬉しさと、もう誰にも文句を言われない開放感とで逆に気持ちは高ぶっていた。
慣れ親しんだ友人たちとも別れを告げた時、挫折しようが成功しようがもうどうにでもなれと思っていた。
僕は強い人間でもなければ弱い人間でもない、それはただ普通の少年が普通の枠からはみ出そうとしているだけだった。
・ヒマラヤゆきのした 花言葉(秘めた感情)




