復讐編11 スティーレインの闇(前編)
「……!!」
セレアはとにかく圧倒された。
単なる強気、無理押しというようなものではない。
ショーコ自身が状況を冷静かつ客観的に捉えた上で、自ら背負った使命、責任。
二日酔いでぐうたらしている普段の彼女からは想像もつかない姿であった。
「……」
言うべきことを一気にぶちまけたショーコ。
身じろぎもせずに、体中の力を全て目に集約したかのような視線をセレアにぶつけ続けている。
そんな尋常でないプレッシャーを、よほどの覚悟なしに浴び続けられるものではない。
ついに、セレアはそっと目を背けてしまった。斜め下へと俯いている。
部屋の空気が動かない。
次に出てくる言葉を今や遅しと待ち構えていたショーコは、ふと異様な気配に気がついた。
「……?」
よくよく見てみると――セレアの頬を一筋、涙が伝っていた。
そんなにも嫌な思いをさせてしまったのかと、一瞬後悔に似た気持ちが過ぎっていった。
しかし、とショーコは思いなおさずにはいられない。
自分の今の思いは間違ってなどいない。
何としてでも隊を良い方向へ導いていきたいという意志に偽りも揺らぎもないつもりでいる。例え、この場でセレアからぐうの音が出なくなったとしても。
――ややしばらく沈黙の時が経過したように思われた頃だった。
「……負けましたわ。ショーコさんの強い思いに」
呟くように言ってから、ゆっくりと顔を上げたセレア。
なおも涙は止め処もなく溢れ続けている。
だが、彼女の相に悲しみの色は微塵もない。
「……!」
ショーコはドキリとした。
なんと、セレアは――泣きながらも笑みを浮かべていたからである。
何とも形容し難い表情だった。
勝ち誇っているかのような、かと思えばどこか寂しげな、しかしながら挑戦的な感じを漂わせていて、どれが本当の心情なのかつかみかねる程である。
「……いいでしょう。お話しいたしましょう。私の知りうる限りの過去を」
口調まで変わっている。
いつものおっとり気味なそれではなく、どこか脅迫的で、つきつけるような――。
「少し長くなりますわ。それに――」
そっと人差し指で涙を拭い
「途中で逃げ出したくなるような、聞くに堪えないお話ですから。最初にお断りしておきます」
セレア・スティーレインが生まれたのは今から二十六年前、祖父のヴォルデがまだ四十四歳の壮年の頃である。
彼女の父親に当たる人物、つまりヴォルデの息子になるのだが、名をフォグドといった。セレアを授かった時、彼は齢二十四歳。だが、父親の興した会社の一つ「スティーレイン機械工業株式会社」で早くも生産管理部部長を任されるほどに優秀で、才気に溢れていた。決してヴォルデが甘やかした訳ではなく、むしろ一社員として厳しく教育していたにも関わらずそのようだから、実力は推して知るべし、といったところであろう。同社はヴォルデの叔父にあたる人物を社長に戴いていたが、かなり高齢ということもあって勇退が囁かれていた。こうなると、次期社長がフォグドに落ち着くであろうということは、誰の目にも明らかであった。
今や巨大組織に発展したスティーレイン・グループだが、最初一金融会社から出発している。
二十代の終わりにその会社を興し、数年である程度の成功を収めたヴォルデは、一定の資金を得ると次々に新規で会社を立ち上げていった。他者の才能を見抜くことに長けていた彼ゆえ、適材適所の人事で配置したあとはやり方を任せるといった風だったが、他の経営者と違っていたのは、経営の細部までしっかり自分で把握していた点にある。それも周りからの報告を待つのではなく、いちいち自分の目で確認を怠らなかったから、彼の作る組織はどれ一つとして微塵も隙はなかった。
こうしてヴォルデによって興された会社は十社を超えるようになり、敏腕の経営者として国内外に知られるようになっていた。いよいよスティーレイン・グループには更なる飛躍が待っているだろうと経済界の間では噂されていた。
そんな新進気鋭のやり手・フォグドの前に、ある日一人の女性が現れる。
名をナーシャ・リベイロといい、ヴィルフェイトでは五本の指に入る大手機械メーカー・リベイロ重工の社長令嬢であった。
まだCMDという存在が普及する以前の段階ではあったものの、すでに時代の向かう先は産業用ロボット開発であるとして、ヴォルデもその関連の研究開発に力を入れていた。その中心がフォグドのいるスティーレイン機械工業であったが、何分設立年数からいえばまだルーキーの会社である。当然ノウハウが不十分だから、他者との技術提携を必要とした。そこで注目されたのがリベイロ重工だったのだが、幸運なことに社長のザムルもまた、スティーレインの目覚しい発展に関心を抱いていた。提携交渉は首尾上々に進み、難なく調印に漕ぎ着ける事ができた。
両社はほどなく提携を祝賀する宴席を設けたのだが、その場にザムルの娘・ナーシャも出席していた。
二十五歳で独身だった彼女は、二歳年下ながらも将来を嘱望されたフォグドを一目見て熱烈に恋焦がれてしまった。ヴォルデに似て長身でスマートだったから、見た目の良さもあったであろう。当然ナーシャのアプローチが始まったが、残念ながらフォグドにその気は起きなかった。美人であることに間違いはないものの、妙に派手好きで見栄張りなところがあり、その上計算高さがありありと表目に出ていて、どうあっても好きになれるとは思えなかったのである。
ナーシャはプライドの高さも手伝って、諦めようとはしなかった。
機会あるごとに接触を試みたものの、フォグドはそれとなく避けた。しかし執拗に追い回し、ある晩催された業界関係者のパーティでばったり出くわしてしまった。
本来なら無難に何事もなく済んだかも知れなかった。
が、不幸な事にこの日、彼はちょっとしたミスを犯してヴォルデから叱責を受けた挙げ句、社長昇格の話は当面据え置くと宣言されてしまっていた。多少自分に自信を持っていた彼は面白くなさもあって序盤から大杯を呷り、パーティの途中で既に前後が定かでなくなっていた。そこへやってきたのがナーシャである。
彼女は酔っているフォグドを言葉巧みに、かつその豊かな肉体を誇示してしきりに誘いをかけた。そして、彼が翌朝気付いた時にはベッドを共にしていた。
半ば逃げるようにして部屋を飛び出したものの、これが彼にとっての災いの元となった。
しばらくは会わずに済んだものの、数ヶ月してナーシャに内密に呼び出され、出向いた彼に衝撃の告白が待っていた。
「……できちゃったみたいなの。どうしたらいいかしら? お父様はまだ、知らないのよ」
うっすらと笑みを浮かべてそう告げる彼女の顔が、フォグドには魔物のように見えた。
リベイロ重工との提携関係は上手くいっている。技術供与を受けた成果は如実に現れてきており、試作段階の特殊産業用ロボットながらもプレオープンの評価は上々で、すでに大口契約の話が舞い込みつつあった。そうした実績がようやくヴォルデをして「もう少ししたら、検討しないこともないな」と言わせしめたばかりだった。
しかし、ここでナーシャとの関係をこじらせたならば、その先にどういう結末が待っているかは火を見るよりも明らかである。
彼に選択肢はなかった。
ほとんど、強制されるようにして結婚。
次の年、ナーシャは女の子を出産した。これがセレアである。
突然の入籍にヴォルデは不快な表情を隠さなかった。フォグドは故意に事実を語らなかったものの、ヴォルデは彼なりに何事かを見抜いていたらしい。しかし、初孫となるセレアの顔を見るやヴォルデの態度は一変した。その後は溺愛といってもよく、父の豹変振りを逆にフォグドが怪しんだ程である。
そのように、望まぬして持ってしまった家庭ではあったが、しばらくの間は思わぬ安定をみた。ナーシャは相も変わらず派手好きでどちらかといえば余り娘のセレアの教育に力を入れるということをしなかったが、とはいえ辛く当たるということもせず、毎日は平穏に過ぎていった。
やがてセレアが五歳を迎えようとしていた頃である。
多少の経緯を経てフォグドはスティーレイン機械工業株式会社の社長に就任しており、ヴォルデはというとグループ経営の更なる拡充を検討していた。グループ会社も二十社になんなんとし、体制一新の折にはヴォルデが会長となり、その下でフォグドが副会長になるという話も、相当現実味を帯びつつあった。
セレアの中にある両親の記憶は、この時期を最後にぷっつりと途絶えている。
ヴォルデによって、海外に在住する縁戚の元へとやられたのである。名目は六歳からの留学に備えて事前の渡航、と聞かされていた彼女は、優しい祖父が勧めることだからと何の疑いもなく受け入れた。
ただ、出発に際し両親が見送りにくることはなく、自宅を出る前にちらりと見えたナーシャの姿、それが母との永別となってしまった。父のフォグドに至っては、いつから会っていないのかすら定かではなかった。
ずっと後、セレアが成人する頃になってからようやく事実を知らされたのだが――彼女が海外へとやられた本当の理由、それは嫉妬と権力抗争がもたらしたスティーレイン・グループ最大の汚点、後に「スティーレイン事件」と称された悪夢が始まろうとしていたからであった。つまり、この暗雲をいち早く察したヴォルデは、せめて愛しい孫娘だけは巻き込まないよう、また海外の文化文物に触れつつ知性と教養を磨かせるために敢えて手元から離したのである。
――この、聞く者を不快にさせる汚らわしい出来事「スティーレイン事件」の発端は、ごく単純である。
フォグド二十七歳、スティーレイン機械工業株式会社社長に就任して少し経った頃であるが、現場で作業に従事する契約社員の女性と関係を持ってしまったのである。女性の名はアンナといい、彼よりも六歳下の二十一歳。経済的貧困層の出身で両親もなく、その日暮らしを続けているらしい。が、現場視察で一目彼女を見たフォグドは、たちまち心を奪われてしまう。
全体に均整が取れていて非の打ち所がなく、ミス・ヴィルフェイト応募者にもこれほどの美人はいないかと思われた。のみならず、控えめでいて穏やかかつ気立てもよく、ナーシャとは正反対とまでいかなくとも、そういう女性であった。既にナーシャへの愛情を失っていたフォグドであるから、何の自制心もはたらきはしなかった。社長という立場にいる自負もあったろう。アンナに対し、熱烈に求愛した。
アンナもまた、フォグドが遊びのつもりだったのならまだしも、心の底からの強い想いであることを知って気持ちがただならなくなった。経済的な安定という条件も考えなかったか、どうか。
あとはお決まりである。フォグドの素行がおかしくなっていくことに、人一倍猜疑心の強いナーシャが気付かぬ筈がない。夫の浮気を知った彼女は、その日から次第に精神の安定を失っていく。セレアが親元を離されたのはこの時で、昼間から飲酒をしたり寝てばかりいたり、かと思えば大声を上げて発狂したように暴れまわる母の姿ばかりが、最後の記憶として残されている。
ナーシャはついにフォグドに対し、離縁を宣言する。
フォグドはあっさり同意した。この時、最も恐れるべき存在であったナーシャの父・ザムルは病によって世を去っており、リベイロ重工の体制も以前とは変化していたという事情もある。しかもフォグドは、内々にアンナと所帯を持ちたいと願望していたのだった。
ナーシャが発した離縁宣言はいわばフォグドへの脅迫のつもりに過ぎなかったが、案に相違して渡りに船となってしまった。この時もフォグドはヴォルデに対し、真実を告げたりはしなかった。全て、ナーシャが原因であるような言い方をした。
離婚してその翌年のことである。フォグドは念願叶ってアンナと再婚を果たす。しかも、それから程なく二人の間に女児が誕生した。
この報せは、ナーシャを完膚なきまでに打ちのめした。
フォグドの愛情は単に自分から消滅したのではなく、気付かぬところで別の女に振り向けられていたのである。自尊心をずたずたにされたナーシャは毎晩酒に溺れては暴れ、あるいは身も世もなくなったように泣き叫ぶ、という毎日を送るようになった。
が、ある日彼女は
『スティーレイングループ拡充計画スタートへ/副会長にフォグド氏大抜擢』
という新聞記事を目にして、ふと思い立った。
(スティーレイン……そう、そもそもはスティーレインの連中よ! 私を散々に弄んだスティーレインの権威を、とことん失墜させてやるわ――)
自分を捨てておきながら、今や幸せな家庭を築いているフォグドへの復讐。
そして自分から幸せを奪った女・アンナへの嫉妬。
彼女の中で暗い情熱に火がつき燃え盛り、魔性を帯びたその炎は次々と非道な策略と化してスティーレイン・グループへと襲い掛かっていった。
スティーレイン・グループ拡充計画発動の記事が全国に出回ってから数日後のことである。
数紙あるワンコイン・ペーパー――安い日刊紙だがそれだけに内容は三流で根拠のないデマ記事ばかりで占められている――が一斉に『スティーレイン・グループ 拡充計画に際し多額の不正献金か』と報じた。そこには『フォグド氏が中心となって指示を出した疑いがある』と、彼の名前だけがはっきりと述べられていた。
人々はワンコインペーパーの体質を知っている。これだけなら何の影響もない筈だった。
ところがそれからまた数日して、今度は国内大手新聞社のうちの数紙が同様の記事を、しかもトップで掲載したのである。こうなっては、さすがに波紋を呼ばざるを得ない。ヴォルデが冷静に事態の収拾に乗り出したものの、当時の彼はまだ後のような泣く子も黙る存在ではない。完全に疑惑を晴らすには至らなかった。
勘の鋭いヴォルデは、すでに背後にナーシャの陰を見て取っている。これは一方で、フォグドに疑惑を向けさせるほかに、グループ内に叛心を起こさせることが目的ではないのかと考えた。彼がトップの御曹司であるという一事をして、面白からぬ感情を抱いている古参の連中が少なからずいるということも、ヴォルデは認識している。うるさかったのは社外よりもむしろ、そういった人間達であった。
その最中、今度は低俗で通った三流週刊誌がこぞって『スティーレイン・グループ副会長候補、女性社員と浮気か』と書きたてた。不正疑惑こそ根も葉もないでっち上げだったが、こればかりは否定する余地などない。ここにきてヴォルデはフォグドを問い詰め、フォグドも事実を認めた。
身内とその係累から噴出した一連の騒ぎを受け、ヴォルデはスタートさせた矢先のグループ拡充計画を一時ストップせざるを得なくなった。
しかし、スキャンダルは終わっていない。
フォグドの後妻・アンナがスティーレイン機械工業に契約社員として採用される以前からスティーレイン・グループの会社を幾つか転々とし、その際に重役・幹部に面会を求めることしきりであったと、さらに書きたてた週刊誌がいたのである。名前が挙がっているグループ会社の重役・幹部はいずれも――フォグド派と目される者ばかりであった。まさかと思いつつフォグドが調べさせたところ、確かにアンナはスティーレイン機械工業で採用される以前、他のグループ会社の採用面接を受けていた。
が、フォグドも少し冷静に考えるべきであった。
この時期、スティーレイングループは一次拡充計画に則って各会社の要員確保を大々的に進めていた最中だったのである。景気が低迷する中でヴォルデが進めた大幅な雇用が、貧困層の人々にとって大きな希望となったのはいうまでもない。アンナもまた雇用を希望するその一人であったという想像は、極めて容易なのである。当然、求人のある会社を回り歩いたとしても何の不思議もないのである。
ところが、反フォグド派を重役に戴いているグループ会社の連中が、まるで狙ったように随所で微妙な発言を繰り返した。
「彼女なら、うちの面接にもきていたんじゃないか。お金が入るなら、どんなことでもしますと言っていたような気がする」
「一人だけ、妙に目だっていましたよ。……そう、他の応募者よりも露出の大きい服装で」
悪意は次の悪意を招く。
ついには、こんな噂がグループ会社の間で囁かれ始めた。
フォグド氏の今の妻・アンナはその美貌にものを言わせグループ会社のある重役と肉体関係をもった。いずれフォグドを失脚せしめてその男をグループ内で昇格させるつもりなのだ、と。
一つ一つに根拠も関連性もなかったにせよ、積み重ねられた上で悪意のフィルターを通してみたならば、たちまち真実すら押し潰してしまう程の虚構として真実に取って代わってしまうこともある。
不幸な先入観だが、経済的苦境下で生活してきた人間が社会的地位のある者に近づけたならば、いずれは自らそれを欲する性向があるのだと信じる人間は少なくない。事例として皆無ではないであろうが――しかしながら、差別と偏見が生み出した妄想であるに過ぎない。
アンナへのバッシングは止まらない。
今度は、アンナから誘惑を受けたことがあるという密告が多発した。いずれも匿名で、事実確認のとりようもないものばかりであったが、もはや彼女に張られたレッテルは公然の事実として一人歩きを始めてしまった。彼女の突然の幸福を妬む向きが多かったことも災いしたろう。
この一件について、ヴォルデは沈黙を守っていた。
どうも特定複数の人間の意図だけで構成された話であるらしい、と聡明な彼は勘付いていたが、下手に騒げば反フォグド派の連中がこれを奇貨として一斉に叛旗を翻すであろう。そうなればグループは瓦解し、折角のここまでの苦労が水泡に帰してしまう。そもそもの原因はフォグド自身に帰せられるのだが、今彼を追及してそれが周囲に知れ渡れば、結果はやはり同じ事になる。一人元凶視されているアンナがこの上もなく哀れに思われたが、彼は自らに忍耐を強いる以外に術を持たなかった。
グループ内で吹き荒れる非難から逃れるため、ついにフォグドはアンナとの離婚を決意する。彼女は必死に身の潔白を訴えたが、フォグドにとっては邪魔以外の何者でもない。彼は日々不利になりつつある自身の立場を優先したかった。
離婚当時、フォグド三十一歳、アンナ二十五歳。そして、二人の間の娘はまだ三歳になったばかりであった。
スティーレイン家を追い出されたアンナは幼い娘と共にQ地区に移り、親子二人ひっそりと息を潜めるようにして暮らし始めた。
その情報を得たヴォルデは、ようやく腰を上げた。
グループと無関係の状態になった今ならば、内々だが保護の手を差し伸べる事ができる。波頭のように揺れ動いているグループの建て直しに四苦八苦しながらも彼は――今は会うことができない孫娘のセレアと、そしてアンナ親子の身を案じ続けていた。彼女を守らなかったばかりか廃品のように捨ててしまった息子に代わって、せめて生活の糧だけでも送るつもりでいた。
Q地区にある経済的困窮者達が集まる住居街に二人がいることを突き止めたヴォルデ。
すぐさま部下を遣り、当面の生活を援助すると申し出ようとしたが――そこに親子の姿はなかった。
散々に荒らされた室内。壁や天井には人為的に破壊された形跡がある。
不審に思った部下は、近隣の住民達に事情を訊いてみた。
「ああ、あの綺麗な母親と幼い女の子かね。あれはさぁ、何日前だったかねぇ――黒いスーツを着た男達が数人やってきたかと思ったら、怒鳴り声やら物を壊す音が聞こえてきて……。そのあとだよ、女の人の「助けてください! どうかその子だけは」って叫ぶ声がしてさ。おっかなくて、俺ぁ家の中で震えていたけども……女の子の泣き叫ぶ声だけが、妙に耳の奥に残っているよ」
報告を聞いたヴォルデは沈痛な顔をした。
「遅かったか……。あるいは、そんな事になりはしないかと、不安に思っていたんだよ」
「……裏組織の者達でしょうか? 奴らに、追い出されたと――」
「いや、そういうレベルの話じゃないだろう。――私の罪だ。本当に、申し訳のないことをした」
そう呟いたきり、ヴォルデは口を開かなかった。
(やはり、不穏の芽を放置すべきではなかった。グループ経営を優先したばかりに、取り返しのつかない結果を招いてしまうとは……すべて、私の不徳によるものだ)
フォグドの浮気に始まりアンナ疑惑、そして反フォグド派の暗躍。
スティーレイン・グループはかつてない苦境に立たされていた。
既に、社会的信用は失墜のどん底にある。次々と大口の契約を切られ、業績は下降の一途を辿っている。その上、グループの結束力はことごとく失われ、フォグドはともかくヴォルデの命に服さないグループ会社も増えつつある。これでは、あとは瓦解を待つしかない。今まで数々の修羅場をくぐってきたヴォルデも、さすがにこれにはこたえた。
(多少の危惧はしていたが、ここまで露骨に本性を見せるとはな……。私は経営者として失格かも知れないな)
次々と新規で会社を設立し始めた頃は多忙を極め、身が幾つあっても足らないような毎日が続いた。
かといって、誰彼構わず会社経営の代行をさせるという訳にはいかない。多少は彼と気脈が通じている人間を必要とした。そこで彼は――やや不安がなくもなかったが――親族の中から特にそうした者を選んで、グループ会社へときてもらったのである。
創業の頃こそ彼等は業績を上げるために昼夜を問わず必死に働いてくれたものだが、経営が安定してくるにつれ、各人の意識は次第にあらぬ方向へと歪んでいった。相応以上の地位や報酬を要求する者、あるいは彼の元から分離して独立を企てる者――ヴォルデなりにその修正を試みていたつもりではあったが、今回はそのウィークポイントをナーシャに衝かれてしまった。
同族経営など、決してするものではない。その結末にあるのは、私利私欲、増長。
骨身に染みて感じた。
ある日、グループ会社会議でさんざんに経営責任を追及され、疲れ切ったヴォルデ。代表から引き摺り下ろそうとする動きがあることも、何やら空気で悟っている。
(これまでか……)
元凶がどこにあるのかは見抜いている。
見抜いてはいるが、ここまで撹乱されてしまっては、どこに打つ手があるというのだろう。宙を拳で切り裂こうとするにも等しい。無念ではあるが、全て事業から撤退することを考え始めていた。ここまで信用がずたずたになった以上、現状からの再建は相当厳しいと踏んでいる。
深夜、自宅へ戻ると一通のエアメールが届いていた。
海外で暮らすセレアからであった。
細々とした海外の違いについてあれこれと書かれていたが、続けて
『こちらの毎日は楽しいです。でも、お爺様にお会いできないのがとても寂しい。私はいつかお爺様のお役に立てるように、今、多くのことに挑戦してみています。なかなか上手にはいきませんが、続けていけば、きっと上手くできるでしょう。お爺様も、どうか健康に気をつけてください』
思わず、相好を崩していた。
いつか自分の役に立とうと、この愛しい孫娘は寂しさを我慢して毎日を明るく過ごしている。セレアがそう思ってくれているということが、何よりもヴォルデの心を温かく癒しつつあった。
ふと、Q地区で行方不明になったアンナ親子のことが脳裏を過ぎった。
思えば、彼女の娘もまた、自分の孫であることに代わりはない。が、世間体を重んじたばかりに顔すら見てやれないまま、今は生死も定かでなくなってしまった。
(そうか……そうだな)
二度とこのようなことになってはならない。
だが、放っておけば――今後も忌まわしい出来事は起こっていくであろう。
それからヴォルデは数日というもの、夜を徹して思索を重ね、やがて彼自身によるグループ再生プランを練りに練った。
(まだしばらく忍耐の日々が続くだろうが……その先には、従来とは違った画期的なグループとなっているだろう。今こそ、大鉈を振るっていかねばならない)
そうしてある日出社した彼は、すぐに信頼できる部下を数名、招集した。
どの顔も若い。若いがエネルギーに満ち溢れていて、多少粗くはあったがヴォルデの経営プランを強固に推進していってくれている、頼もしい連中である。上司、管理者としてのヴォルデを慕っている彼等には、恐れというものがない。何事も最後の責任は彼がもつからなのだが、このスタンスは理に適っていた。安心できるだけに、モチベーションが飛躍的に高まっていくのである。
ここは最後の砦である彼等に力を貸して貰おうと、彼は考えたのであった。
「数日会社にいらっしゃらなかったようですが……大丈夫ですか?」
「やはり、グループ会社との関係が大変なのでは……」
皆、口々に心配してくれている。
それらを嬉しく思いつつ、ぐるりと一同の顔を見渡してから、ヴォルデは口を開いた。
「今から、グループ再生計画をスタートさせる。苦しい事も多いだろうが、今から十年ばかり、私と苦楽を共にして欲しい。その代わり、十年後には現在とは比較対象にならない堅固なグループが出来上がっているだろう」
ヴォルデが犯した最大の過ち、それは――身内親族を大量に重要なポストに就けすぎたことだと思っている。通じやすい一方で慣れ、油断、不満が生じてきて、やがて彼の指示を怠ったり、ついには背くようにまでなってしまった。
その点、今彼の目の前にいる若手達は、出身も経歴もばらばらだが、自分の実力で仕事を切り開いてきている。血縁関係などではなく、仕事を通じて関係を築いてきているから、組織としては申し分ない良好な関係である。その代わり、言いたい事もどんどんぶつけてきてヴォルデの手を焼かせることもしばしばだが、それは業務の完成度を高めたいがためであり、自分の立場や報酬、感情を主張するようなものではない。そこが、ファミリー経営で堕落しきった連中との大きな相違であろう。
「さて、早速だが、まずは掃除をしなければならない」
「掃除……ですか?」
一同、妙な顔をした。トイレ掃除でもやらされるのかと思った者もいる。
数日して、次々とグループ会社の重役・幹部が呼ばれた。皆「何で自分が来なければならないのだ」といった不満そうな顔をしている。
こういう尊大な人間達を相手に、ヴォルデのいう「掃除」は開始された。
方法は面談で、再生グループのメンバーが容赦なしにどんどん質問をぶつけていく。
質問の数は多くはない。
「今のグループ経営について、思っているところをお話ください」
「貴社としての将来の展望をお聞かせください」
そして、最後にこう尋ねられる。
「正直に仰ってください。――ナーシャ元夫人から何か依頼を受けているでしょう? それをお話しください」
怒りを露わにした者も少なくない。
「な、何を言っているのかね、君たちは!? 何故ナーシャ元夫人の名前が出てくるのだ? 勝手な思い込みもいい加減にしたまえ? ――そうか、あれか! ヴォルデの差し金だな!?」
ヴォルデ自身は別室にいて顔を出さず、じっと面談のやりとりを聞いている。
グループ会社二十三社重役に対する面談は四日がかりで行われた。
終わった後、メンバー達は聞き取りしたメモやレコーダー類を整理しながら
「結局、関連を認めたのはレットン氏とビゲ氏の二人だけでしたよ。あとは、怒り狂うばかりで……」
「いやいや、君達の大手柄だよ」にこにこしているヴォルデ。「正直、この面談で云と認める者が果たしていたものかと思っていたのだよ。二人も吐いたのだから、上出来じゃないか」
皆、もっと大掛かりな摘発になるのかと思っていた矢先、ちょっと拍子抜けする思いだった。
――ところが。
それから二日経ち、ナーシャと何らかの繋がりを持っていたと認める人間は十三人にまで増えていた。
ヴォルデから話を聞いた再生グループのメンバー達は驚いた。
「いやはや……さすがにそれは思いつきませんでしたよ」
一斉にグループ会社へ召集をかけたその日から、その職業の者に依頼してナーシャの自宅や彼女の行動を逐一偵知させていたのである。だけではなく、多少法的な問題はあったが、グループ会社の通信回線を経由した通話や通信内容に至るまで、徹底的に調べ上げていた。果たして、人目を忍んで彼女の元を訪れる者、あるいは電話で彼女とやり取りする者が現れた、ということなのであった。
が、ヴォルデにとってナーシャの存在など、既にどうでもよい。
彼のいう「掃除」の目的は、彼女の息がかかっている者、つまりグループ経営陣に対して内々で叛意を抱く者達を明確に把握し、片っ端から排除していくことにある。
この計画を実行に移すにあたり、彼は苦渋の決断を下していた。
我が息子であり本来は跡取りとすべきフォグドをグループ経営陣から完全に外し、僻地にあるグループが所有する廃棄物総合処理管理センターの一管理者にまで落とすことにしたのである。もはや、我が子といえども容赦することはできなかった。これ以上経営を誤れば――末端の契約社員にいたるまで、路頭に迷わせてしまうことになる。
しかし、この人事はヴォルデとごく一部の人間の間で依然秘匿された。
やっておくことはまだある。
ナーシャとの関連を認めた重役の管理下にあったグループ会社について調査を進め立件を急ぐ一方、グループ再編成後の体制について、部下達に仔細に検討するよう命じていた。また、メディアに対して名誉毀損が成立する見込みがあるものは訴訟の準備に入ると共に、多少手段を問わない形で記事の出所や背後関係を洗わせた。そして彼はもう一つ――行方不明になったままのアンナ親子の捜索願いを警察機構に提出している。
この間、ナーシャは報復を予見すべきであったろう。
が、それをしなかった。社長令嬢というだけで、経営に関する一切の実務も政治的処理も経験がなかったから、自分の思惑だけで事が成功裏に運んだものと思っていたのである。一連のスキャンダル報道でスティーレイン・グループの社会的名誉が失墜しつつあることに気を良くし
(後は――あの脂ぎったグループの野心家達が叛旗を翻せば、スティーレインはそれまで……)
金や利権で動かした者、あるいは彼女と寝た者もいる。
皆、自分の傀儡となって動いた。
(男なんて、馬鹿なものよね。――フォグドだって、私の傍にいればよかったものを)
彼は今、スキャンダルで散々な目に遭っている。いい気味であった。
ただ、父親のヴォルデだけ、その動向がよくわからない。立て続けに聞いた話では
「ヴォルデの奴、今になってグループ内の粛清を始めるつもりだぞ」
「あんたについて、何やら調査しているらしい。気をつけた方がいいのではないか」
無論、ナーシャとてヴォルデへの接近を企てなかった訳ではない。が、セレアを海外へ預けて以降、一目たりとも彼はナーシャに面会を許さなかった。
(まぁ、いいわ。自分の親族に、グループを食い荒らされて絶望に打ちひしがれるがいいわ……)
今さら何が出来たものかと、彼女は入ってくる情報を黙殺した。
そして――再生を誓ったヴォルデが腹心の猛者達を招集してから一月半経ったある日のこと。
そのニュースを新聞やテレビはじめ、マスコミが大きく取り上げた。
『スティーレイン・グループ 大規模整理・統合敢行/現二十三社から九社にまで縮小』
同日、グループ代表であるヴォルデによる記者会見が開かれた。
大勢の報道陣を前に彼は
「我がグループによる一連の不祥事による反省を踏まえ、経営体制について大きく改善を図ることといたしました。新体制につきましては、皆さまお手元の資料の通りです」
「ヴォルデさん、先日の不祥事の反省というお話ですが、具体的な反省点というのは?」
「同族経営です。これに尽きます」澱みなくきっぱりと言い切ったヴォルデ。「――今回整理・統合に踏み切った十四社のうち、実に十三社がこれでした。グループの上部意志決定機関による判断が現場へ迅速に伝達されない、あるいは個人的な利害関係の影響を受けやすいという点でグループの発展を阻害する要因であると私どもでは認識しております」
「では、新体制において、旧グループ会社の経営幹部の処遇はどのようになりますか?」
「一切、考慮しておりません。新体制後の人事は全て、業務本位で決定いたします」
この記者会見の模様は、グループ会社の重役・幹部を震撼させた。
つまりは、自分達の解任、あるいは解雇を意味しているからである。
新スティーレイン体制に関するプレスへの発表は矢継ぎ早に続いていく。旧グループ会社経営陣が口を差し挟む余地を与えないところまで計算し尽されていた。
「背任により、旧グループ会社三社の経営幹部を刑事告訴いたします」
「整理・統合後の新体制につきまして、各社役員人事を公表させていただきます」
「現在係争中の名誉毀損訴訟に関連しまして、関与が明白となったグループ会社役員を解任いたします」
一気呵成にこれらの発表が行われたことを知ったナーシャは愕然とした。
いずれスティーレイン身中の虫となる筈であったグループ会社が全て、ヴォルデの手によって消滅させられたのである。彼女の息がかかった連中はすべて放逐され、新体制の中には一人もいない。
(そんな、バカな……。あの爺さん、自分で自分の肉も骨も断ったっていうの!?)
泡を食ったナーシャは、フォグドの元へ急いだ。
今度は彼を利用して復仇してやろうと思い立ったが、再会したフォグドに生気はなかった。
「俺はもう、破滅さ……。Y地区廃棄物総合処理管理センターに飛ばされることになったよ」
ヴォルデ他その腹心達が秘匿していた人事である。
両手両足をもがれた同然のナーシャが次はどこへ向かおうとするか、すでにヴォルデは察していたのである。
頼みのフォグドも思うようにならず、茫然自失となって引き上げてきた彼女を、警察機構捜査課の一団が待ち受けていた。
「ナーシャ・リベイロ。誘拐幇助、人身売買幇助、ならびに犯罪行為示唆誘発の疑いで逮捕する。同行願いたい」
「……!?」
ヴォルデからの捜索願を受理した警察機構では、アンナ親子の足取りと同時に、背後関係の洗い出しを進めた。近隣住民からの事情聴取によって当夜アンナ親子の住居を襲った一団を特定の上、まずはこれを一網打尽に押さえることに成功する。
下層民街を中心に闇で活動しているグループで、様々な犯罪行為に手を染めている連中であった。殺人、テロ、強盗、誘拐、ありとあらゆる犯罪を金目的で引き受ける、いわば犯罪代行組織といっていい。
彼等はナーシャからアンナ親子を襲うよう依頼され、親子を住居から引き摺り出すやアンナを売春窟元締に売り飛ばし、幼い娘は人目につかない都市の外れの僻地に棄てたという。
警察機構はこの供述から二人の保護へと動いたが、すでに遅かった。
アンナは売春窟から逃げようとして捕まり、暴行を受けて殺されてしまったという。遺体は元締めの供述通り、U地区工業用地の排水池から発見された。が、幼い娘の方はついに発見されなかった。生死もわからない。
「私は殺してくれなんて、頼んでない!」
ナーシャは無実を叫んだが、後の祭りであった。
のちの話となるが――有罪判決を受けた彼女は獄中で体中に腫瘍ができる難病に冒され、最後には寝起きもままならない姿となって苦しみつつ息絶えたという。享年三十八歳。
彼女の死は、遠く海外に暮らすセレアの耳にすぐには伝えられなかった。余りにも悲惨な最期だけに、ヴォルデが憚ったのであった。セレアが十歳になった年のことだった。
一斉に追放された旧グループ会社幹部――その多くがヴォルデの親族、親戚関係だが――の動揺は大きく、解任を不当だとして告訴の構えを見せる者、あるいは「全てナーシャの陰謀だ」と訴える者もいたが、そのいずれも日ならずして沈黙した。自分達の所業を天下に晒されたならば、勝ち目がないことを悟ったのであろう。
ともあれ、再生のための最初の仕事「掃除」を終えた後、ヴォルデはマスコミに向かって言った。
「では、これから十年間、私は一会社の一管理者として、身を慎み表には出ない事といたします。世間の皆さまをお騒がせしてご迷惑をおかけした、その責任です」
ヴォルデ、五十一歳の時である。
彼はグループ経営を腹心の部下達に託し、自らはかつて息子が率いていたスティーレイン機械工業株式会社の後進である「スティケリア重工業株式会社」の一管理者となって日々を送り始めた。
マスコミはそれを「スティーレイン代表自らが引責、けじめ」と報じ、多少の批判と疑問視はあったものの、論調は概ね評価していた。
ヴォルデが断腸の思いで敢行したこのグループ再生計画は以降、着実な発展を遂げていく。
その陰で、彼は毎年時期になるとU地区にある公共墓地へと足を運ぶのが常になっていた。
グループの内紛に巻き込まれて悲惨な最期を遂げた女性・アンナを弔うために――。
「――これが、スティーレイン事件の顛末です」
事件名くらいは耳にしたことがあったが、その詳しい内容については初めて聞いたショーコ。
セレアが七歳の時だから、ショーコなどは二歳である。当然、事件の概要など理解できる年齢ではない。
今をときめくスティーレイン・グループにそんな暗黒の歴史が――ショーコはどう感想を漏らしていいものかわからないままに黙っている。余りにも生々し過ぎる。犠牲者まで出していたとは。
が、自らも被害者であるはずのセレアは淡々と
「本当は、出来ればずっと私の胸の内にしまっておこうと思っていましたが……この事件についてお話ししなければ、ショーコさんの質問にお答えできないものですから」
続きを語り始めた。