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不安という名の感情

「ジーク、なかなか戻って来ないからどうしたのかと思って・・・ジーク?」

「し、心配性だな、アルベルトは・・・大丈夫だと言っただろう」

「どうしたんだ?顔が真っ青だ・・・」

 アルベルトが心配してジークの顔に手を伸ばして来た。それをジークは勢い良く払い除けてしまった。大きな男の手が迫る恐怖を瞬間に感じた条件反射だ。

「ジーク?」

「あっ・・・すまない。何でも無い」

 ジークは上着に右手を通し始めた。皇子の前でだらしない格好は非礼に値する。何も喋らない皇子が不気味だった。


(朝から衝突して皇子を怒らせたまま・・・でも此処にアルベルトと一緒に来たという事は私を許してくれたのだろうか・・・)


 しかし〝もう何も聞かない〟と言った皇子の声がジークの耳に蘇って来た。


(もう何も聞かないとは・・・もう何も話さないと言うことかもしれない・・・)


 ふとそんな気もした。皇子をそっと窺うと整った顔が曇り、美しく弧を描く眉が寄せられ眉間にシワを刻んでいた。その視線の先はまだ上着に袖を通していない左腕だった。しかもシャツの袖をあげたままで醜い傷痕をさらしている。この傷を見て不快に思われたのだろうとジークは咄嗟に思った。そして、さっと上着に袖を通した。

「申し訳ございません。お見苦しいものを御前にさらしまして・・・お許し下さいませ・・・」

 ジークは何故か皇子にはこの傷痕を見られたくなかった。あのドレーゼ公爵家の夜会の日を思い出してしまう。今まで気にしていなかったこれが恥ずかしいものだと知った夜。さっきもオイゲンから醜いと言われたこの傷・・・皇子にそう思われたく無かった。

 しかしローラントはいきなりジークの左手を掴み上げ、袖を一気に上へ押しやり傷痕をさらした。

「皇子!何をなさるのですかっ!」

「見せるんだ、ジーク!」

「は、放して下さい!」

 ジークはもがいたが皇子の手を払うことが出来なかった。どちらかと言えば線の細い感じの皇子がいつの間にか、がっしりとした男の腕になっていた。今なら体格的にアルベルトと大差無い感じだろう。

 ジークは、びくりと震えた。皇子が醜い傷痕に、そっと優しく触れたからだ。

「お、皇子?」

 ジークは皇子が何をしたいのか全く分からなかった。もちろんアルベルトも。

「―――ジーク。これは私の代わりに受けたものだ。そしてお前の勇気の証だ。だから醜くも見苦しいものでもない。そのようなことを言うものがいるのなら私が罰してやろう」


 そう言って傷を見つめる皇子の瞳から光りの雫が溢れその醜い傷痕に、ぽとりと落ちた。


 ジークはその涙が焼けるように熱く感じた。もう痛まない筈の傷が、ずきずきと疼くようだった。それに皇子の言葉が心に沁みて何故か胸が締め付けられる感じがした。何故皇子が涙するのか?ジークとアルベルトは驚き言葉が出なかった。その神々しい姿にジークは魅入ってしまった。しかし、はっと我に返った。皇子は自分を責めているのだ。

「皇子、私は貴方様をお護り出来て良かったと思っております。その結果がこういうものを残したとしてもお嘆きになる必要はございません。私は気にしておりませんが皇子が醜く見苦しいものでは無いと言っていただけただけで十分でございます。私は貴方様の盾となることを誇りに思っております。ですからこんなかすり傷はもとより、例えこの命を落としても悔いなどございません」


 皇子の瞳から涙が消え暗く沈んだような色が広がったようにジークは感じた。そしてジークの腕を掴む皇子の指先が冷たくなっていた。その手がゆっくりと離され何事も無かったかのように皇子は腕を組んだ。

「お前の忠誠心は分かった―――これからも励むがいい」

 それはいつもの尊大な態度の皇子だった。そして、くるりと踵を返して歩き出した。しかし数歩行った所で、ピタリと止まり振り返ることなく命令した。

「ジーク、今日はもう帰れ。そのような手では剣はまともに使えまい」

「皇子!私は大丈――」

「命令だ!私の盾を自負するのなら自分の管理はしっかりするんだな!」

 ジークは何も言い返せなかった。皇子の言う通りだ。こんな気持ちのままでは皇子を守るどころか危険にさらしてしまうかもしれない。

「ジーク、気にするな。皇子は心配されていたんだからな。じゃあな、ちゃんと手当てしろよ」

 アルベルトはジークの肩を叩いて皇子を追い掛けて行った。ジークは遠くなる皇子の後ろ姿を見送った。夜空に輝く星々を集めて造ったかのような・・・冥の神々でさえも敵わないと思う皇子の煌々しい姿。最近では本当に皇子の周りで煌く星が見える感じだった。


「私の皇子・・・」


 ジークは思わず呟いて、はっとした。

「私は何と言った?〝私の・・・〟だなどと、何と大それたことを・・・」

 アルベルトが見ていたら・・・もしくは家族が見ていたら驚いただろう。ジークが耳まで真っ赤にして顔を赤く染めていたのだ。何故こんなに顔が熱いのか?どうして胸が、どきどきとするのか分からない。熱が出てきたのかもしれないとジークは思った。絶体絶命の危機をどう乗り越えるのか考える事は沢山あるのだ。熱が出ても可笑しく無い状況だ。ジークは結局命令通りに大人しく帰宅することにしたのだった。


 ローラントはいつの間にか調練場から姿が消えたジークを探した。一人で素振りをしているアルベルトを見つけ後ろから近づいた。

「アルベルト、ジークはどうした?」

「うわっ!皇子、危ない!後ろから急に来ないで下さい!」

 アルベルトは皇子に背後からいきなり肩を掴まれて仰天した。危なく驚いて反射的に切りつける所だった。

「ジークは?」

「ジークなら手の肉刺が潰れたんで手を洗って来ると言って水場に・・・そう言えば遅いな?どうしたんだろう??心配だな。ちょっと様子を見に行って――あっ、皇子!」

 ローラントはアルベルトが話し終わらない間に水場へと歩き出していた。アルベルトは慌てて剣を鞘に収め追いかけた。

「お待ち下さい!皇子!」

 そして―――ローラントは初めて目にしたジークの傷痕に声を無くした。適当にまくり上げられたシャツから伸びた腕。あの時も思ったより細く男としては華奢だと感じていた。


(女なのだから当たり前だ・・・)


 改めて見ればジークの腕は記憶よりも更に細く感じた。そしてそのしなやかな腕に残る傷痕は思っていたよりも酷かった。


(これは神が私に与えた戒め・・・愚かだった私の証・・・)


 己の愚かさの犠牲となったジークの傷痕がローラントを苛んだ。だから後悔と共に思わず眉を顰めて見つめた。そして恥じるようにそれを隠したジークに今度は胸が締め付けられそうだった。咄嗟に手が出てしまった。掴んだジークの腕はやはり細かった。本当は謝罪を口にしたかったがそれは呑み込んだ。それを口にすれば何故だと聞かれるだろう。こんな傷痕は男なら気になるものでは無いが女となれば話しは違う。火傷を負った娘や大怪我をして傷痕が残った娘の結婚相手が見付からないとか面白可笑しく噂をする侍女達の話しを聞いたことがあった。そんな馬鹿馬鹿しい価値観が一般的だろう。


(嫌・・・私もその一人だっただろう・・・彼女に会う前までは・・・)


 ジークの傷痕に、そっと触れた。そして彼女が恥じる気持ちを少しでも和らげたいと思う言葉を口にした。

(ジーク、お前が恥じる必要は無い・・・恥ずかしいのはこの私だ・・・)

 言葉に出来ない想いが涙となって落ちた。後悔と懺悔そして愛しみ―――

『――――私は貴方様の盾となることを誇りに思っております。ですからこんなかすり傷はもとより例えこの命を落としても悔いなどございません』

 ジークの言葉にローラントの熱く溢れそうになった想いが、すっと冷たくなった。


(彼女の忠誠心が欲しい訳では無い・・・)


 このまま引き寄せて抱きしめてしまいそうな手を離した。それでもやはり引き寄せてしまおうかという想いと葛藤しながら腕を組んだ。気持ちに反抗して手が出ないようにと―――

 ローラントは焦っては駄目だと言い聞かせながらも気持ちは逸る。傷付いている手のひらに口づけをしたかった。もう剣など握る必要は無い自分が守ってやると言い出しそうだった。ローラントは他人を気遣う言葉を知らない。それは今まで必要無かったものであり必要とさえ思わなかったものだ。ジークが心配でも冷たい言葉で命令した。どういう言葉をかけていいのか分からなかったのだった。

『命令だ!私の盾を自負するのなら自分の管理はしっかりするんだな!』

 何と嫌味な言い方だろうとローラントは自分でも思った。それでもジークが無理をせずに帰ってくれれば良いと思ったのだった―――


 そして翌日―――ジークが休むと連絡が入った。アルベルトに聞いても詳しくは知らない様子だった。真面目なジークは簡単に休まない。傷が悪化したのだろうか?とローラントは心配になって来た。

 ローラントの胸は不安で渦巻いていた。不安という名の感情を最近知ったかもしれない。まるで出口の無い迷路に迷い込んだようだった。ジークは今までも休むことはあった。彼女にも休息は必要だし普通の生活もある。分かっていてもそれを良しとしない自分がいた。最近では任務の交代時間の夕刻が近づけばこの後、彼女は何をするのだろうか?何処に行くのだろうか?と気になって仕方がなかった。出来ればずっと側に居て欲しいと思う―――

 こんなに誰かに執着して独占したいと思うことは無かっただろう。今までは全てが霧に包まれたような世界だった。どうでもいい時間を只怠惰に過ごすだけの毎日・・・


(忠義の名の下に命さえ捧げると言う彼女にこれ以上求めるのは無理なのか?)


 ローラントはふとそう思ったが弱気な心を叱咤した。

「私が手に入れられないものなど無い!」

 何か考え事をしている様子だった皇子がいきなり声を上げたのでアルベルトは、ぎょっとして何か居るのかと皇子の前に出て身構えた。

「・・・アルベルト居たのか」

「居たのかって・・・もちろんでございます!護衛官が離れる訳ございませんでしょう?何事でございますか?」

「離れないか・・・そうだな・・・」

 問いに答えず呟く皇子にアルベルトは怪訝な顔をした。また考え込むローラントはそのアルベルトの言葉に心はざわめいていた。身を守る護衛官は血の繋がった家族よりも共に居る時間は多いだろう。今はローラントの希望で私室には入らないが必要となれば寝所でも付く。空気のように私生活はもちろん何もかも全て彼らと共にいる。そう思えば共に居たいと思う気持ちはそれで充たされる筈なのに・・・満ちた気分では無かった。そして考える・・・ジークから主への好意では無く異性として好意を受けた時はどう変わるのか?


(変わるとしたら・・・)


 ローラントは、はっとして頬が熱くなってしまった。ジークとの口づけやその他諸々を想像してしまったのだ。そう・・・


(腕の中に抱き込んでも真っ直ぐに見つめる瞳は伏せることは無いだろう。その瞳に口づけを落とし〝閉じて〟と囁く・・・そして彼女の凛とした唇にそっと口づけして重ねる・・・制服に隠された肢体はしなやかで水々しさに溢れているだろう。その肌に口づけして抱きたい・・・何度も何度もあの傷痕に優しく口づけをしたい・・・)


 そんな願望だけが頭に浮び身体を熱くさせるのだ。

 アルベルトは皇子が顔を赤くして一人で何やらニヤニヤと浮かれている様子を気味悪く見ているとその皇子と目が合ってしまった。

「何を見ている、アルベルト」

「い、いえ!何も!」

「・・・もう今日は私室に戻る」

「えっ?しかし今日のご予定は――」

 アルベルトは皇子から冷やかに睨まれて言葉を呑み込んだ。

「そういう気分では無い」

 皇子はそう言って、さっさと歩き出してしまった。


(はあ~全く、ジークがいないと我が儘皇子復活だからなぁ~仕方ない)


 それから私室に戻りかかった皇子はアルベルト達の目を盗んでいつものように城を抜け出したのだった。向う場所はクレール伯爵家。ジークの屋敷だ。只様子を見に行きたいという気持ちだった。そっと物陰から彼女を見るだけで不安な気持ちが治まる気がした。


(ここだな)


 先日妖魔討伐の帰りに近くを通りかかった時にこの辺りだと聞いていた。中流の一般的な貴族の屋敷で警備も甘く忍び込み易い。それでも庭先から木立に身を隠しながら屋敷へと近付いてみた。

 そして昼下がりの庭先でローラントは夢を見た。それは願望が見せた白昼夢かもしれない・・・

「ジークリンデ・・・」

「え?」

 夢にまで見た暁の女神は夕暮れでもないのに立っていた。そして彼女は驚いたように振向いたのだった。


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