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悪意の噂

 いつもの朝のようでいつもと違う朝―――いつものように近衛兵の調練場に向ったジークは警護の点検を始めた。彼女やアルベルトが調練場の点検をして皇子を迎えに行くのが日課だ。今日は少し早目だったのでアルベルトはまだ来ていない。調練に参加するとは言っても皇子は先に自主鍛錬を皆より先にする。今まで怠けていたから当然だ、とローラントは不機嫌な顔をして言っていた。不機嫌な顔と言うのが皇子らしいとジークはその時のやりとりを思い出して思わず微笑んでしまった。その心意気は褒められる事なのにそれが恥ずかしいと思う皇子の考えが微笑ましい。少し楽しい気分で点検をしていると後ろに人の気配を感じた。


(アルベルト?それとも誰かもう来たのだろうか?珍しい・・・)


 ジークは誰なのだろうかと振り返ろうとしたがそれを確かめる前に前方から皇子がライナーと歩いて来るのが見えた。

「ふ~んベルツ伯爵は興味ありませんと言う顔をしていてやっぱり皇子に取り入ろうとしている訳か・・・まあ、妹が花嫁候補ともなれば当然だろうな」

 嘲りを含んだ男の声が後ろから聞こえジークは、ぎくりとして振向いた。先程の気配はこの人物だったのだろう。

「それにしても寒い!まだ陽も昇らないような朝に外でうろうろするなど生まれて初めてだ!」

「貴方は・・・ドレーゼ公爵の・・・」

 涙目であくびを噛み殺している男はシャルロッテの見合いの相手だったドレーゼ公爵の放蕩息子オイゲンだ。しかもどういう訳か近衛隊の服装をしていた。彼は隊に在籍していない筈だ。

「如何にもオイゲン・ドレーゼだが・・・確か会った事は無いだろう?皇子お気に入りの護衛官殿?」

 オイゲンはジークが護衛官だと言う情報は知っているようだ。ジークはあの見合いの宴でこのオイゲンと会話はしなかったが目に留まった事がある。連れの女性とぶつかって腕の醜い傷痕を見られた時だ。その印象が強くジークの顔まで覚えてはいないだろう。しかし一応初対面の筈なのに名前を言い当てたのは不味かった。今の格好ではジークの秘密が露見するとは思えないが突然の事で声が出なかった。

「?」


 オイゲンが黙り込むジークの様子を不審がり始めた時に、アルベルトが駆けつけた。そして皇子とライナーも間近に迫った。

「おやおや、煩いアルベルトが来た」

「オイゲン!まさか本当に入隊したのかっ!」

 息せき切って走って来たアルベルトがジークに目もくれず怒鳴った。

「何で怒っている?栄えある近衛隊に入隊して何が悪い?ドレーゼ公爵家嫡男のこの私が入ってやるのに」

 オイゲンは不遜な態度で言い放った。親戚だからその噂は耳に入っていた。近衛隊は確かに貴族なら入隊出来る資格はある。それでも審査は厳しく入隊出来れば家の誉れとさえ言われている格式高いものだ。それなのに素行の良くないオイゲンが入隊を許可されるとは思えなかった。それでも入隊したと言うのなら責任者でもあるライナーでも断れないところからの圧力だろう。アルベルトはこの馬鹿な親戚が入隊しようがどうしようが気にはしない。しかし女の姿をしたジークと面識があるということを気にしたのだ。早々に露見するようなものでは無いとしても心配だった。ジークを背に庇うように二人の間に割って入った。するとオイゲンが馬鹿にしたような顔をした。


「おやおや、噂通りランセルの息子はその子にご執心な訳?実際間近で見れば成程、成程・・・男にしておくには勿体無い綺麗な護衛官。ははっ、そんなに大事な訳だ。しかも女に飽きた皇子もかなりご執心だ・・・とか?そう言う趣向の者達は少なく無いけれどね」

「なっ!何を!」

 少し図星を突かれたようなアルベルトが顔を赤くして怒鳴った。ジークはその悪意に満ちた言葉に自分を取り戻した。自分の事をどう言われようと構わないが友であるアルベルトを馬鹿にし、皇子を貶めるような発言を許す訳にはいかない。

「オイゲン殿、今の言葉を訂正し謝罪して下さい。アルベルトは大事な友人であり皇子は私が仕える大事な主です。貴方が勘ぐるような関係ではありません」

「ふ~ん」

 オイゲンはニヤニヤとしているだけでそれ以上言わなかった。しかし話題はライナーへと移って行った。

「妹が皇子の花嫁となれば直ぐにベッケラート公を押し退けて元帥になるな、絶対。羨ましい・・・女の閨のおねだりで男の出世が決まるなんて。はあ~私にも可愛い妹がいれば良かったのに」

 ジークは我慢の限界だった。反論しようと口を開きかけたがその前にライナーと皇子が近くまで来てしまった。険悪な雰囲気の三人にライナーが声をかけた。


「どうした?何かあったのか?君は・・・」


 今の今まで悪態をついていたオイゲンがいきなりライナーに向って愛想良く挨拶をした。

「おはようございます。今日、着任親しました」

 愛想は良くても横着さは名前を名乗らない挨拶に出ていた。もしくは自分の名前ぐらい知っているだろうと言うような高飛車な態度だ。それでも更に愛想良くして隣に居る皇子に視線を向けると頭を垂れた。身分の高い者でも許しが無い限り皇子に声をかけることは出来ない。声がかかるのを待っているようだ。

「・・・・・・・・・」

 ライナーは沈黙した。オイゲンの入隊は自分の知らない間に許可されたものだった。直接本人を良く知っている訳では無いが素行が非情に悪いと言う話は方々で聞いていた。だから風紀を乱す恐れのある彼を入隊させたく無かったのだが・・・ライナーでも無視出来ない筋からの決定を覆すことも出来なかったのだ。

 ローラントはと言うとこのオイゲンと初めて会った訳ではない。しかし他人に殆ど興味を示さない皇子にとってどうでも良いことだ。それに昨日から胸に痞えたようなものが燻り続け興味の無いものに気を取られるのが煩わしかった。だからいつもの不機嫌な顔のままオイゲンを無視した。皇子の視線が、すいっ、と横に流れるとその場の沈黙が深まったようだった。無視されたオイゲンは皇子のその態度に顔が一気に紅潮していた。彼の身分上、無碍に無視された経験は無く腹立たしく感じたに違いない。

「ジーク」

 オイゲンを無視した皇子はジークに声をかけた。ジークは一瞬、直ぐに返事しなかった。オイゲンの自分に向けられた視線がそれを躊躇させ返事を遅らせてしまったのだ。皇子と自分との良くない噂―――

「ジーク?」

「―――はい。何でしょうか?」

 ジークは視線を逸らしながら返事をした。いつもなら真っ直ぐな視線で答えて来るのに?


(やはり可笑しい・・・)


 ローラントは一晩考えたがやはり何が悪かったのか分からなかった。だから一分でも一秒でも早くジークに会ってそれを確かめたかった。それで迎えが来るよりも早く出た所を通りかかったライナーに見付かり同行されたのだった。しかし声をかけたものの何と切り出して良いのか分からない。それでもこのもやもやとしたものを払う為に胸に痞えたものを吐き出した。

「ジーク、昨日はどうして腹を立てていた?」

 いつもなら即答するジークが答えようとしなかった。無言で口元を引き締めている。ローラントは苛々としたものが込み上げてきた。

「ジーク!答えよ!」

「・・・・・・」

「ジーク!」

 ローラントの語尾が強くなりジークがやっと皇子に視線を向けた。それでも何処と無く目を合わそうとしていないように思えた。

「・・・私が怒っている意味が分からない皇子に何を話しても理解して頂けないでしょう。話すだけ無駄です」

 ジークの口調は厳しく冷たかった。いつものように諌めるというような感じでは無く、拒絶が滲み出ていた。

 言われたローラントは一瞬、言葉が出なかった。そして気を取り直して口を開きかけたがジークがそれを言わせなかった。

「お止め下さい。皇子とこの件で話すつもりはございません」

 ジークは皇子が小さく息を呑み瞳が大きく見開かれるのを見た。きっと烈火のように怒るに違いないと思った。それを期待した―――


(確かに皇子の為さりように腹を立てた・・・でもそれをいつものように自分の思った事を素直に伝えれば皇子も少しは分かってくれるかもしれない・・・しかし・・・)


 しかしそれでは無礼な臣下の言う事を聞く皇子という烙印を押してしまう。

(それだけならまだ良い方かもしれない・・・もしかして・・・)


 ジークは懸念した。素直に捉えず斜めから見ればオイゲンが言ったように感じられるかもしれないと思った。間違った色欲に血迷った皇子がその相手の意見を素直に聞いていた・・・と、言うもっと不名誉な烙印を押してしまうかもしれない。


(それは絶対に駄目だ!皇子は私を友だと言ってくれたがそれを周りが理解するのは難しい・・・余りにも違う二人に変な噂にしかならないのが証拠だ。さあ、皇子、怒って!)


 ジークは皇子が以前に比べて随分変わったと思っていた。皮肉れて我が儘でいつも癇癪ばかり起こしていたが今ではそれがすっかり影をひそめてしまった。アルベルトはジークの影響だと笑って言っていた。


『私のせい?』

『そうだよ。ジークはあれだけ好き放題言っているのに不思議だけどな。皇子がすっかり大人しくなったって評判さ。だから皇子の護衛官達が入れ替わらなくなったし』

『入れ替わる?』

『皇子のあのご気性では近侍する者達は長続きしないのさ』

『アルベルトは続いていただろう?』

『まぁ~俺は気に入られていた方だから風当たりは強く無かったけれど・・・ジークの比じゃないよ。皇子は本当に変わられた』


(私のせいじゃない。私は皇子自身が見落としている所を少しだけ気付かせただけ・・・後は皇子がそれを反省して変わろうとする努力をなさっただけだ・・・だから皇子、貴方を馬鹿にする私にお叱りを下さい)

 しかしジークの期待は外れてしまった。皇子の瞳は憤りに揺れていたがその感情を抑え込んでいた。

「―――分かった。もう聞かぬ。好きにするがいい」

 皇子から吐き出された言葉は冷たく怒鳴られるよりも心に突き刺さった。叱責されるという期待は外れたが効果は期待以上だった。オイゲンはこの二人の甘い関係を疑っていたようだが噂とは違うと思っただろう。

「ライナー、今日から私の相手はお前がしろ」

 皇子のその言葉にジークは、はっとしてライナーを見た。

「そうですね。残念ながらかなり上達された皇子の腕前からするとジークではもうお相手にならないだろうと思っていました」


 ライナーは気にするなと言うようにジークの肩を軽く叩いて言った。確かに皇子の剣の腕の上達は凄まじく相手になってないとジーク自身思っていた。短時間の勝負にはどうにか勝てても最後には完敗してしまう。それが悔しくて夜も眠れない程だった。男女の力の差にこれ程悔しい思いをしたことはない。ライナーは別格として考えてもいなかったが、きっとアルベルトも真面目にすれば追い抜かれてしまうだろう。

 しかしローラントは違った意味でライナーを指名した。力の差は歴然としつつある状態でいつジークを傷付けてしまうかと思うと十分な鍛錬が出来なかった。近々、切り出そうとは思っていたところだった。ローラントはジークの冷たい返答に憤ったが、ぐっとそれを抑え込んだ。今までのように怒りを爆発させては何ら変わることのない自分に逆戻りしてしまうと思った。

 それでも意味の分からない憤懣をジークからぶつけられたままでは直ぐに何も無かったかのように消化するのは難しい。だから感情を抑えて答えるしか無かった。それがどんなに冷たく聞こえるのかと言う計算まで出来ていない。ローラントはジークらしくない受け答えに懸念を抱きながら彼女に背を向けた。

 アルベルトは立ち尽くすジークを心配そうに見つめ、オイゲンは愉快そうな顔で様子を窺っている。


 そしてそれぞれの心を隠したまま白々と夜が明け始める―――


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