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過去に縛られる恋 12

 先生は慣れた様子で病院の廊下を進む。私は病院独特の匂いと雰囲気に、すっかり萎縮していた。

 先を行く先生の背中には迷いなく、いつもと変わらない、背筋の伸びた綺麗な歩き方なのに、なんだか、今だけは少し頼りなく見えた。

「ここだ」

 先生はある部屋の前に立つと、軽くノックをしてその中に入った。

 私は慌てそれに続く。

 部屋に入って、私は息を飲んだ。

 機械音が支配する世界。そのただ中に管に繋がれた男の人がいた。

 人形みたいに動かない。ううん、機械音と共に奇妙に胸だけが上下している。

 先生は、私を振り返ると、私に小さく微笑んだ。

「紹介しよう。私の夫の百崎だ」

 私はすぐには理解出来なかった。

 先生が私を連れて来た意図も、先生の背負うものも、そこにある彼らの想いの深さも……。

 先生はベッドの近くまで私の手を引いた。

 そこには、色のない、生きていると言うより生かされてる人間が横たわっていた。髪や髭何かは綺麗に手入れされていて、形だけは普通の人間と変わらない。でも、よくドラマでみる『眠ってるみたい』な感じではなかった。

 私は言葉を無くして、ただ立ち尽くす。

「一之瀬、行くぞ」

 私は静かに頷いた。


 私達は病院の中庭にやってきた。先生は私をベンチに座らせ、すぐにどこかに行ってしまった。

 私はぼんやりと、世話の行き届いた美しい花壇を眺める。ワレモコウの朱が揺れていた。その鮮やかさはあまりにさっきの病室とは違っていて……私は言葉をなくす。

 機械音がまだ耳を離れない。

「ほれ」

 先生が缶コーヒーを手に戻ってきた。受け取ると、その温かさにホッとする。

「……驚いたか」

 私は素直に頷いた。

 先生はコーヒーを一口飲むと、ゆっくりと自分の話をし始めた。


 先生と旦那さんは大学の同期。卒業と同時に結婚を約束していた。けど、旦那さんの実家が猛反対。半ばかけおち状態で旦那さんは卒業前に家を出た。

 卒業式の後、二人はその足で一緒に籍を入れに行くつもりだった。だけど、先生は相手の両親に掴まり、待ち合わせの場所には行けなかった。そして、事故が起こってしまったのだ。

 旦那さんは待ち合わせの場所に突っ込んで来たトラックの下敷きになった。

 その手には、結婚指輪がしっかり握られてたらしい。

「婚姻届を私が来る前に出してたみたいだ。たぶん待ち合わせに来ないから、向こうの親と鉢合わせしてるのを勘づいて、先に一人で出したのかもしれない」

 先生は遠くを見つめながらそう言った。

 旦那さんの回復の見込みはほぼ無く、あの機械、人工呼吸器なしでは生きられない体になった。

 向こうの両親は延命を拒否した。

「私は諦められなかった。回復の望みはなくても、生きていて欲しかったんだ」

 呟くような声は、冷たい風にかき消された。

 先生は深い溜め息を一つついた。

「自分でも、エゴイストだと思う。向こうの両親は泣いて私に頼んだよ『これ以上、息子を苦しめないでくれ』って」

 自嘲する。赤く熟れた太陽は、ビルの隙間に落ちようとしていた。その赤みさす光に、先生の横顔は泣いてる様に見えた。

「だが、決定権は配偶者の私にあった。……私は彼との約束通り、彼と生きて行く事を選んだんだ」

 掠れた声が先生の苦悩を表してるかの様だ。

「けど、今も正解はわからない。ただ、後悔はしてるよ。私はただの一度も彼にキチンと自分の想いを伝えた事がなかったんだ」

 静かに先生は瞼を閉じた。

「いつでも伝えられる。そう思い込んでいたんだ」

 長い睫毛が揺れていた。

 先生がどんなに辛く、悩み、後悔してるのか、私にはそれは深すぎて想像も出来なかった。

 ふと、先生は小さく笑い、私を振り返った。

「だから、私はまだ夫に恋したまま、愛になれない恋のままなんだよ」

 最後の太陽の一筋が落ちた。

 空に残ったのは、太陽がさっきまでそこにあった証しを示す、微かな淡い色の余韻だけ。

「一之瀬、後悔しない恋をしろ。私が教えてやれるのはこれくらいだ」

 私はこの静かな声を、自分の中に刻みつけるように頷いた。

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