性別が壁になる恋 8
家に着いた私は、ただいまも言わないで玄関に入った。
背中で祖父が稽古に呼ぶ声がしたが、そんなのを聞き入れる余裕なんて、今は微塵もない。
私はその声を振り切る様に階段を駆け上がり、自室に飛び込むと、ベッドに力尽きて倒れ込んだ。枕に顔を思いっきり押しつける。
こんな時でさえ、思いっきり泣くことも出来ない。涙を、声にできなち叫びを、みんな枕に押し込む。
こんな気持ち、何て言ったらいいんだろう。どうしたら、この気持ちは消えてくれるんだろう。
胸を内側からかきむしる、この狂おしくて、虚しい気持ち。
ふと、手元にあった袋に目をやる。先輩が選んでくれたシューズだ。
私は唇を強く噛むと、それを思いっきり投げた。
その塊は鏡に当たる。鏡は派手な音を立てて割れた。そこに映されてた私が醜く歪む。
「どうした?」
ノック音がして、父の声がした。吐き気がしてきた。
「ほっといて」
吠える私。
一人になる時間くらい自由にさせて欲しい。いつも、いつも、私を束縛して。私は父や祖父の人形じゃないんだ。無神経にも程があるだろうが!
「何があったか知らんが。帰って来たなら道場に来い。最近、お前、身が入ってな……」
「ほっといてっつてんだよ!」
私はもう一度叫んだ。
扉がゆっくり開く。怒りを静かに浮かべた父が、私を見据えていた。
「なんだ。その口のきき方は」
そしてチラリと鏡をわったシューズを見る。
「なんだ。かけっこはもう辞めるのか。なら、ちょうどいい。今度の大会……」
父はいつでも空手、空手。もう、うんざりだ。
私なんかどうでもいいんだ。空手の優秀な後継者にしか興味がないんだ。
全く羨ましい。何にも悩まないで、馬鹿の一つ覚えみたいに空手に人生捧げれて。
「僕は、親父と違う」
「なに?」
父の太い眉が跳ね上がった。
もう、どうでもいい。
私はいつもなら怖くて逸らしてしまう、父の怒りの目を睨みつけた。
「空手、空手って。僕はそんな馬鹿みたいに空手ばっか出来ない」
「お前」
父の顔が赤くなり、奥歯が軋む音がする。
私はそれでも目をそらさない。
「空手なんて嫌いだった。ずっとずっとね。もう、僕は空手を辞める。だから出て行って!」
「何ぃ! 馬鹿者が!」
父の目に強い怒気が宿る。怒声が空気を震わせる。大きく岩の様な拳がひらめいた。
私は次の瞬間、強い衝撃に意識をさらわれ、暗い闇へと落ちた。
私は小学生に戻っていた。
小学生に戻って、家の前であのトラックを待っていた。
イケナイ
スグ、家ニ引キ換エシテ
想いとちぐはぐに、私は私を呼ぶ声に緊張した面持ちで振り返った。
初恋の子が手を振っている。
ダメ
初恋の子は数メートル先で止まったトラックから飛び下りると、私に駆け寄る。
「良かった。お前、怒ってるみたいだったからさ。俺、お前とこんなんで終わるの嫌だし」
違ウ
勘違イ シチャ ダメ
私はまだ小さかった手を握り締め、息を飲む。
全力疾走の時みたいな鼓動に、落ち着かなくなる。
ヤメテ
言ッチャ ダメ!
ダメ ダメ ダメ
私は喉が擦り切れそうな声で叫ぶ。だけど、小学生の私には全く届かない。
頬を桃色に染めた幼い私は、俯く。ゆっくり唇が動き出す。
イヤダ
見タク ナイ
「僕も、嫌だよ。離れるの。だって……」
ヤメテーーーッ!!
「好きだから」
私は呟く。相手が唖然とする。
『好き』の意味が、友情では無い事を、相手もすぐに察したのだろう。
沈黙が二人に重たくのしかかった。
私はこの時の言葉を、覚えている。いや、忘れたくても忘れられない。
「なんだよ。気持ち悪ぃな」
顔を上げた私が見たのは、酷く傷ついた相手の顔だった。
「あ…ごめ…」
伸ばした手が払われる。相手は泣きそうな顔になり
「こんななら、会いにこなければ良かった」
そういって背中を向けた。
胸にある、相手を傷つけた後悔と、あの抉る様な痛みが鮮明に甦る。
小さくなる初恋の背中に、私はもう何も出来なかった。そう何にも……。
目覚めた時、私の頬は涙で濡れていた。
でも、それは自分の涙じゃなかった。
「母さん」
「猛、大丈夫?」
冷えた母の指が、私の頬を撫でた。私はゆっくりと身を起こす。動かすと痛む顎の辺り。たぶん、父の一発が避ける事すらしなかった私の横っ面に、綺麗にヒットしたのだろう。そして、気を失ったのだ。
「痛い所ない?」
私の顔を覗きこむ母に、私は痛みを見せない様に微笑んだ。
「父さんは?」
母は黙って首を横に振った。
怒りは解けてないらしい。
母が私の手を握る。
「空手、本当に辞めるの?」
私は視線を落として黙り込んだ。
正直、今は何もかもに嫌気がさしていた。
「猛、お母さんはね、猛が嫌なら辞めて良いと思う」
「え?」
私は意外な言葉に母を凝視した。
「猛は優しい子だから、いつも人の事ばかりで……。空手を始めたのも、お父さんやお祖父さまを喜ばす為だったのよね?」
私は見透かされてる様で、頷きもしないで視線を落とした。
「でも、もし猛が空手を今でも自分の為に好きになれてないなら、もう十分よ」
母はしっかりと私の手を握り直す。
「お父さんもお祖父さまも、十分あなたで夢を見れたわ。あなたはちゃんと稽古に付き合って、成績も残した。これからは、あなたの進みたい道を行きなさい」
母の温かさが、ひび割れた胸に染みる。
「あなたが空手しなくても、例え犯罪者やお化けになっちゃって、お母さんはあなたの味方よ」
ポンっと母は私の頭に手を置いた。
「だって、あなたは私の子ども。それは変わらないんですもの」
そう、私を撫でる母の手は、細く優しく温かい。それでも、本当の事を話せない自分に、私は情けなくなった。