発達障害という言葉に対し………
「発達障害」
この言葉、私は好きでは無い。
障害という言葉の部分に嫌悪する。
昨今「発達障害」「ADHD」といった文字、言葉を目にする。
今から40年くらい前の時代はこのような言葉はなかったと思う。
社会学的に医療学的な見解、視点で見れば適切で妥当な表現なのかもしれない。
だとしたらその見解、視点をあらためて欲しいと思う。
人の能力は一律では無い。
運動に頭脳に精神に、そしてあらゆる能力にバラツキがあり、人は生まれてくる。
能力というものは、時に向上し時に衰退し、それは全体として見た場合に個性と呼ばれることが多い。
そして私は彼らを見たとき、私は思う。
社会一般的なものの見方、評価から見れば確かに彼らは劣等に見られるかも知れない。
だが彼らの多くは私が見る限りでは、嘘をつくことなく、誤魔化さず、他者を意図して騙すような存在では無い。
確かに生産性という偏った観点からすれば、スピードは遅くミスの発生率からすれば、常人に劣るであろう、人の良さと気の弱さから営業などを任せれば、相手につけ込まれ、目を覆いたくなるような条件が加算されるとは思う。
だがこの場合、善悪で考えるならばいったい何が善であり何が悪なのであろう。
企業として営利を最上の目的とするならば、劣等であり悪と評されると思われる。
だが人としての有り様で見るならばどうであろう。
彼らのことを悪とは呼べないと私は判断する。
少なくとも環境だ人権だと言いつつ利権をむさぼる、今時の政治家などに代表される上級市民と呼ばれる連中や不良外国人に比べればよっぽど“できた人間”である。
私は思う。
私はよくゲームをしていたのだが、RPGゲームで自分のキャラクター作成するとき。
ST、INT、VT、AGT、LUKなどのステータスに振り分けたりするのだが、発達障害者などと呼ばれている彼らはなんらかの能力に極振りしてこの世に生まれてきたのではないかと私は思っている。
そして極振りした能力が何であるのか分からず、他の能力の分野で評価されることで劣っているとみなされている。
その様に感じるのだ。
私はそんなに高い能力者では無い。
嫉妬やひがみからこの様に言っているだけかも知れない。
昔の偉人は言った。
「人の、国家のありようは、経済があってこそ」
当然に感じる部分もある。
だが私は人間がこの世に生まれた目的は、決して経済といった欲望ともとらえられる様なものなどでは無いと思いたい。
出来れば、発達障害などと呼ばれる彼らの隠れた能力を探し出し十分に伸ばせる、そんな教育システムを構築し、彼らが社会の一員として他者に一方的に利用されること無く、人として尊厳を持って生きていける。
その様な世の中になって欲しいと願う。
妻と子供がそうだとして。
この程度の見識でしか無い自分がイヤになる。




