閑話 月の使者と聖天使
「ふぅ…」
私は彼女達が出ていった講堂の中で静かに息を吐きました。
主様の命令で聖国にまで足を運んで彼女達にいろいろと教えていますが、あまりにも優秀過ぎて授業中も驚きを隠すのが大変です。
一度教えたことはほぼ完全に覚えていますし、全く予備知識のない異世界の文字と言葉を既に人の街の中で暮らしていけるほどに使いこなしている。もっと長期的に計画をして教えていたのに、良い意味で予定が狂っているといえるでしょう。
明日の授業進度をどこまで進めようか考えていると、講堂の入り口がぎぃと音を立てて開いた。入り口にはまだ15歳前後くらいのシスター服を着た少女が立っていました。私は思わず苦笑してしまう。
「まだその服を着ていらしたのですか?」
「うふふ。一週間も着ていると大分馴染んでしまって。似合いませんか?」
「とてもお似合いですよ」
うふふ。とお互いに微笑みあうと、少女はさっと顔の前で手を振ってから被っていたベールを脱いだ。
夜空に瞬く星々のように美しい金髪が腰まで流れ、曇りの無い蒼穹の瞳が私の姿を映します。顔の造形も普通の少女の印象からがらりと変わり、非常に整った美麗な顔立ちになりました。美しさを凝縮したような美貌ですが、少女の幼さが所々に残っていて、主様や熾天使様とはまた違う絶世の美女といえるでしょう。
ベールは脱いだものの、シスター服はそのままの状態で少女は私の目の前の席に座って腕を組みました。ただそれだけの姿でも絵になるほど美しいです。
「ずっと言いたかったのだけど、セラのわがままでわざわざあちらから来て頂いて申し訳ありません。それと、対応して下さってありがとうございます」
「いえ。主様のご命令ですから」
「主様、ね」
声まで変わるとは。私は驚きを隠すように頬に手を当てて笑みを深めます。
……お会いするのは初めてでしたが、この方が、かつて起きた『アリアドネの災厄』でその身を殉じた、聖天使様ですか。
私の持つユニークスキル〈魂魄眼〉。これで給仕をしているシスターの中に混ざっていた異質な存在には気付いていました。主様ほどではないにしても、これほど綺麗な魂を持った人はそうそう居ません。主様のような純粋無垢な魂とは違う、眩しいほどに光輝く光を放つ魂でした。
主様とも縁があり、フェニックス様から聞いてはいましたが。こうして直接出会うと中々衝撃的ですね。
主様の話では、以前の聖天使様の自我が聖天使のスキルの中に入って眠り、長い年月をかけて輪廻転生された体が聖天使スキルの存在を知った時に、過去の聖天使としての記憶と意識を取り戻したのだとか。フェニックス様の話では普通はありえないことだけれども、聖天使という特位階級の天使スキルとうまく共存していたから起きた珍しいケースらしいですが、詳しい話は聞かなかったのでそれ以上はわかりません。
私の知っていることは、この目の前の少女があの聖天使様御本人だということですね。それだけ分かっていれば十分です。
「月の領域は時々伺いますが、貴女と会うのは初めてでしたね?たしか、プリシラといいましたか?」
「はい」
「なんでも、あの環境で暮らしていたせいで魔力を浴びすぎて、人間なのに魔物化しそうになったのを人工魔人の応用で助かったそうですね」
「うふふ。懐かしいですね」
もう何十年も前の話ですが。私はかつては至って普通の人間でした。それでも、主様を慕う者として主様の住まう領域で暮らしていたのですが、主様の領域には非常に魔力の強い生物が沢山暮らしてたせいで、本人達の気付かないまま領域内の魔力濃度がとても濃くなってしまったのです。
体の小さい動物達から魔物化の異変が始まり、主様が対応に奔走している間に、私にも近く影響が出ることを懸念した主様が、領域から出ることを勧めてきましたが、私が主様に仕えたいと強くお願いをして、今は主様の眷族として生きています。
「あの時は、主様が呆れたような顔で『仕方ありませんね』と最終的に許しを頂きました」
「ふふふ、あの子らしいですね」
「ええ、それはもう」
おっと、あまり主様の話題はしない方が良いですね。主様は非常に心配性なので、私の知らないところに護衛を配置して情報を共有している可能性があります。
「あの娘の話をしていると夜が明けてしまいそう。本題に入りましょうか」
「そうですね」
聖天使様が言葉通り天使のような微笑みから一転して真面目な顔になります。私も姿勢を正して顔を引き締めました。
「異世界から召喚された人達…貴女はどう思いましたか?」
「質問を質問で返すようで失礼ですが、知りたいのは私の意見ですか?それとも、主様のお考えですか?」
「そうね。折角だから両方聞いてみたいですね」
私は少し考えるように頬に手をあてて目線を上にあげました。その状態で主様の言葉を思い出すようにゆっくりと口を開きます。
「主様は、彼女達は必ず面倒事を引き起こす種になるだろうと仰っていました。しかし、彼女達を排しようとは考えていないはずです。私がこうして教師として派遣されていますからね」
「面倒事を引き起こす種、ですか。彼女が『眼』で見てそう言ったのならばよっぽどのことなのでしょうね」
聖天使様がはぁと深い息を吐きました。私は眷族ではありますが、主様の能力についてはほとんど知りません。私には教える必要性がないと判断されているのか、単純に忘れているのか。私としては別に知らなくても気にしませんので特に進言するつもりはありませんが。
「私個人としても、あの方達はかなり特殊な人達のように見受けられます」
「へぇ?理由を教えてくれますか?」
「まず、非常に優秀です。短時間での馴染みのない語学の習得。すでに今日教えた一般知識は全て覚えたでしょう。特にあの男の方は、明日には渡した教科書の内容を既に読み終えている可能性もあります」
「そんなに優秀ならば、貴女も早めに帰れそうですね。…そうですか。とても優秀ですか」
私が早くに教えるべき内容を終わらせて帰れるのは良い事なのですが、それだけ優秀ということは、元居た世界でもそれなりの優秀さで生活していたということになります。
「異世界の技術、知識を沢山持った、まさに毒に薬にもなる面倒事の種ですね。いっそここに軟禁させてもいいかもしれません」
「可能ならばそれでも良いですが…」
なんとなく、軟禁されてただ生殺しにされるような人達では無いと思います。中途半端に生かすくらいならば、いっそのこと後顧の憂いを絶つために殺してしまうほうが良いかもしれません。
もっとも、私が決めることではありませんし、私としては教え子に死んで欲しくはないので、進言することはありませんが。
「どうするのかを考えるのは人の世界にお任せしましょう。万が一手に負えない事態になったら、主様も動くでしょう」
「彼女達が動いたら被害が甚大じゃないですか。…とりあえず、今後どうするかソフィアとセラと一緒に相談しておきましょう。こちらは引き続きお願いしますね?プリシラ」
「主様のご命令ですから。恙なく終わらせます」
「本当に、あの子の眷族はあの子のことが好きすぎると思います」
私は否定も肯定もせずに微笑んで返すと、聖天使様はくすくすと声に出して笑って席を立ちました。これから熾天使様達に会いに行くのでしょう。
「私は明日からこちらに来られません。何かあったら緊急用の通信端末に連絡してください」
「はい」
講堂の出入口の扉に手をかけた聖天使様は、ふと思い出したようにくるりと回って私に体を向けました。
「ごめんなさい。最後に一つだけ。あの子はいつ帰って来ますか?」
「領域に居る主様ではなく、本人のことですか?」
「ええ。本人はたしか他の大陸の調査に行っていたでしょう?今回の件で帰ってくるのかと思ったのですよ」
「どうでしょう?私には特に連絡は来ていませんね。情報は主様同士で共有しているそうなので、帰ってくるかどうかもわかりませんよ?」
「そうですか…」
何故聖天使様が主様に直接会いたいのかはわかりませんが、私が質問する前に聖天使様は「それではこれで。良い夜を」と言って出ていってしまいました。
私もこれ以上この場に残る必要が無いので、教材をまとめてから出口の扉まで歩きました。最後に講堂内を見回してから魔術具の灯りを消します。その瞬間、講堂内の奥は暗闇に隠れ、扉側に設置されている窓から月の光が仄かに講堂内を照らします。
講堂の扉を閉めて鍵をかけ、収納の能力が付与されたブレスレットにそれを仕舞います。用意されている部屋に行く前に夜空を見上げました。今日もとても良い月が出ています。
どうか、主様の願う平穏がこれからも続くようにと夜を照らす月に祈りました。




