大陸の西の涯に住む龍と妹の話 月見草の宴
王国の西、夏でも雪をまとった険しい山々の、更に先。道のない峰を下りた、海を臨む崖の上。
妖精に祝福されたその地に、ぽつりと小さな館がある。
巨大な切り株そのままのような形。二階建て位の高さで、透明なガラスを貼った窓がいくつも見える。
暖かい日射しの朝。
赤銅色の髪の少女、ノカが目を覚ました。起き抜けに顔を洗って、身支度を整え、鏡の前に座る。
短く整えた前髪の下に緑色の大きな瞳、幼さの残る顔。見慣れた顔ににこりと笑って、髪をおさげに編んでゆく。
裏の泉へ水を汲みに行こうと木のバケツを下げて、表へ出ると、ノカの髪と同じ色のちいさな猫、ニコが伸びをひとつして、するりとついてきた。
空は真っ青で、太陽がまぶしい。
小さな光の輪がいくつも空から振りそそぐ。
「今日もいい天気だねー」
小さな肩に、ふわふわと編まれた髪に、キラキラと楽しそうに輝く緑色の瞳に、優しく暖かく触れる光の輪が嬉しくてにこにこしてしまう。
「うー。まぶしい‥‥刺さる‥‥」
ニコがブツブツいいながらついてくる。
「ニコは毎日夜更かししすぎなんだよ。光ちゃん達がこんなに気持ちいい朝なのに」
「ボクは夜行性なんですー。あんなキレイな月の夜に散歩しないなんて、もったいなすぎるよ」
光の輪がいくつもニコにぶつかってきて、クスクスと笑い声が聞こえる。
「えー‥‥月はきれいだけど、夜はすぐ寝ちゃうよ」
「うん。ノカは無理しないでちゃんと夜はベッドに入ってね。そとで寝られたらボクには運べないんだから」
ニコがウンウンとなんだか偉そうにうなずいている。
思わず頬をふくらますと、庭先の草むらに目がいった。
濃淡の緑の気配のそこここに、薄紅色の粒が見える。
よく見ると自然のままに生い茂る草の間に、白いつぼみが沢山ついていた。
「あれ?いつの間に‥‥」
草が風にそよいでいる。
風の透明な円がいくつも葉っぱの上を遊んで、ノカの頬にも翔んでくる。
ニコがつぼみに近寄っていって覗きこんだ。
「うん‥‥この感じだと夕方には咲いてるだろうね」
「ほんと?!それは楽しみだなあ」
「さて、問題はノカがいつまで起きていられるかだね」
ニコがニヤリと笑って付け加えた。
***
「おはよう、ノカ。」
奥の扉から長い黒髪を後ろでひとつに括った少年がやってくる。
「おはよう、ルーシェ。」
「ノカは今日も楽しそうだね」
ルーシェはとなりまで来て、上からわしゃわしゃとノカの頭をなでる。
「そとの草むらに月見草のつぼみがついていたよ。ニコが、夕方には咲くって」
「へえ、それは楽しみだ。」
朝ごはんをテーブルに運ぶと、ルーシェが長い足を投げ出して、頬杖をついる。眠そうにでっかいあくびをひとつした。
柔らかい黒髪が額の三本の角を避けて蒼い目を半分伏せた端正な顔にかかっている。
「はー。スープが疲れたお腹にしみるわ。」
「お兄ちゃんはご飯食べたら寝るの?」
「そうそう。またうっかり徹夜でゲームやっちゃった。フレンドが離してくれんのよ。お兄ちゃん面倒見がいいから」
「ルーシェ様相変わらず意味不明のこと言ってますね」
「ルーシェはどこに行っても人気者だね」
「やはり俺様の素晴らしさは世界を越えても伝わるものなのだ。そんな本当の事を言ってもお世辞にはならないぞ」
ふざけた言い方をしてニヤリと笑うルーシェに、ニコがハイハイと覚めた顔をする。
「今日は夕方からごちそうだね。桜の実のお酒と葡萄酒を外に用意しなくちゃ」
「ボクのハムも忘れないでね」
「それでは俺は起きたら鳥でも狩ってこよう。」
「はいはーい!私はてりやきが食べたいです!」
「てりやきね。ノカは野菜も食べろよー」
「野菜はじゃがいもがいいです!」
ノカが小さくちぎったパンをスープに浸して、ニコの口に持っていく。ニコは雫が垂れないように器用に口に入れて、ノカの指先をペロリと嘗めた。
「ニコお行儀が悪いぞ」
「ボクはネコだからいいんです」
ニコが皿に盛られた薄切りのハムにがぶっと噛みつくと、
顔を軽く振ってあっという間に口の中に収める。
ノカがまたパンをニコの口に持っていくと、ぱくっと食べて、今度は指先をペロペロ嘗める。
「くすぐったいー!」
ノカがケラケラと笑う。
「ニコ。俺様の可愛い妹を舐めまわすんじゃなよ、はしたない」
ルーシェが不満顔でニコを睨むと、ニコはべーっと舌を出してノカの肩の上に乗って頬に顔をこすり付けた。
「あはは、いつもこうならカワイイのにね」
ノカがニコに頬をすりつけて笑っている。
「はいはい。ボクは喋るとかわいくないからね」
「あー、拗ねてる。ニコかわいい!」
ノカがニコを捕まえて追加で頬擦りしようとすると、するんと手から逃げてしまった。
「まったく、ノカはニコに甘すぎるぞ」
ルーシェはニコを一睨みして、食べ終わった食器を片付ける。ノカの横に来ると、頬にキスをした。
「おやすみ、ノカ」
ノカがルーシェの頬にキスをする。
「おやすみ、ルーシェ」
「ま、ゆっくり食べてな」
ルーシェがノカの頭をぽんぽんと叩いて、手をヒラヒラさせて奥の部屋に戻っていく。
ニコがノカの隣の椅子の上にくるんと丸まって目を閉じた。
さて。ノカが食べ終わるにはまだ少しかかりそうだ。
***
キラキラと輝いていた陽が傾いて、空が縁から赤く染まってくる。だいだい色と朱色の光の輪がふわふわと漂う。
肩にニコを乗せたノカが、外のテーブルに夜空色のテーブルクロスをかけて、ベンチにクッションを乗せる。
草むらを見ると、あちらこちらで薄紅色の粒が少しづつ拡がってほんのりと白く光っている。
「わ、もう咲いちゃうよ」
ノカがバタバタと慌てて瓶や皿を運ぶ。
「ルーシェ様ー!そろそろ咲きますよ」
ニコが、奥に向かって声をかける。
ルーシェが大きな鉄板にのった焼きたての鳥の肉をもって外に出てきた。
「お兄ちゃんはやくはやく!」
「おまたせ。うまそうに焼けたよ」
ルーシェがテーブルの真ん中に鉄板をおいて、ノカの隣に腰を下ろした。ニコがノカの肩から下りて、肘掛けの上ですっと背筋を伸ばした。
「お腹へったよ、すごくおいしそう‥‥」
草むらの白い光が広がるのと一緒に、つぼみがゆっくりと開いていく。光が重なりあって、草むら全体が薄く発光している。
ノカがじっと見つめる先に、霞のように何かの像が濃くなったり薄くなったりして浮かび上がろうとしていた。
うふふ。うふふふふ。さざめきのような無数の小さな笑い声が光の中に満ちている。
やがて花の上の霞がふわっと大きくひろがって、するすると収縮していった。白色の、まだ幼い少女の姿が浮かんでいる。
少女はにっこりと笑うと、長いスカートの縁をつまんで持ち上げて、優雅にお辞儀をした。
「こんにちわ ひめさま てんくうのかみりゅうさま おひさしぶりでございます」
ノカが微笑んで手を伸ばすと、少女は空を一足づつ踏み出してふうわりと近づいてきて、その手をとった。
「今年もあなたに会えて嬉しいわ。とても綺麗ね」
口調はかしこまっているが、顔はいつも通りの満身の笑みだ。
「ありがとうございます」
少女が取った手に口づけると、手のひらの上に一輪の月見草が現れて、すっと透明の花の杯に変わった。
傍らの果実酒の瓶を丁寧に両手で捧げ持って、ノカの杯を満たす。
「おめしあがりくださいませ ひめさま」
ノカがそっと杯に唇をつけて、傾ける。
こくん、と喉をならして飲み込むと、ノカのからだの隅々まで月見草の光が繋がってゆく。
少女が嬉しそうに頬を上気させて見つめている。
「とってもおいしいわ」
少女の綺麗な顔が、蕩けそうにゆるむ。
ノカがゆっくりと飲み干すと、再び杯を満たして、後ろに下がった。
少女が優雅に頭を下げて、ルーシェの前に進み出る。
「久しぶりだ。今年の君も美しいね」
「ありがとうございます」
ルーシェの手をとって口づけると、同じように花の杯が現れる。注がれた果実酒を、ルーシェが一気に煽った。
「よいのみっぷりでございます」
ルーシェの体に光が満ちてゆく。
少女がにっこりと笑って再び杯を満たす。
「さあ、それでは食べようか?」
「まってました!」
ノカがいっただっきまーすと元気に告げて、てりやきにかぶりつく。おいしい!おいしい!とモグモグしながら口を動かしている。
ニコがひょい、とテーブルの上に乗って、自分の杯の果実酒をペロリと舐めた。
「ひめさま おくちもとにたれがついていますわ」
少女がにこにこと手を伸ばして口元を拭う。
無心で食べるノカを少女が幸せそうに見つめている。
陽がゆっくりと沈んで、空が蒼く染まっていく。小さな館の前の草むらは、白い花が無数に咲いていて、光に包まれて美しい。東から月が上ってきている。
花から現れた少女は少しづつ成長していて、ノカと同じぐらいの姿になっている。肘掛けの上に腰かけて、ノカにぴったりと寄り添っていた。
「姫様、杯が空いていますわ」
ノカが杯を手にすると、少女がゆっくりと新しい酒を満たす。
「おいしーい!」
頬を赤くしたノカが杯を飲み干して言った。
「ノカ飲み過ぎてない?大丈夫?」
ニコがノカの顔を覗きこむ。
「だいじょうぶだよー」
へらへらっと笑ったノカの頬をニコがぷにぷにと肉球でつつく。
「眷属様、わたくしの注ぐ御酒は最上の品ですので悪酔いなど致しませんよ」
少女がずいっとニコの顔の前に顔を出す。
「だとしてもノカはまだ小さいから飲み過ぎはダメだよ」
ニコと少女が間近でにっこりと笑ったまま目から火花を散らしている。
「仲のいいことだね」
ルーシェがニヤニヤと笑いながら言って、杯の米の酒を飲み干す。
ノカがニコと少女をまとめてぎゅっとバグした。
「ニコも月見草ちゃんもだいすき!」
ふたりの頬にぐりぐりっと顔をこすりつけると、嬉しそうに目を細めた。
「わたくしも姫様が大好きです」
少女がうっとりと目を閉じてつぶやくと、ニコがノカの頬をぺろりと舐めた。
「ノカ。お兄ちゃんも仲間に入れてくれ」
「お兄ちゃんもだいすきー!!」
***
月が空高く輝いて、辺りを照らしている。白い月明かりの中で、月見草の花が薄紅色に染まっていた。
少女はすっかり育って、大人の女性になっていた。
背が大きく開いたドレスの膝の上で、ノカがスヤスヤと寝息をたてている。女の手がゆっくりした動きでノカの髪を撫でていた。
「月見草、そろそろノカを離してやってくれ」
ルーシェが静かに告げると、女の細い指先がノカの頬をそろり、となぞった。
「あと少し‥‥姫様とともに‥‥」
つぶやくように言って女がノカの頬に顔を寄せる。
ノカが夢見るように笑った。
「‥‥フォノルーシュカはまだ幼い。ゆっくり眠らせてやってくれ」
ルーシェが静かな笑みを湛えて女を見下ろす。
ルーシェがゆっくりと手を延べて、ノカを抱き上げた。
「姫様、おやすみなさいませ‥‥」
女は名残惜しそうに、そっとノカの頬に手を添えてキスをした。
ルーシェが女に微笑んでから、背を向けてノカを館の中に運んでいった。
ニコがテーブルからベンチに下りる。着く瞬間、ふわりと輪郭が膨らんで‥‥そこに、赤銅色の大きな豹がいた。
「眷属様は、いつも姫様とご一緒で羨ましいです」
女が館の方を見つめたままぽつりと言った。
ニコも無言で館の方を見つめている。
月の光がまっすぐに降りてくる。女の背に触れて、吸い込まれていく。
辺りは薄蒼色に染まっている。
月見草が、月の光を受けて薄紅色に輝く。風を受けてそよぐ。‥‥まるで静かに微笑みを湛えているように。
館の奥からルーシェが戻ってきた。
豹の姿をとるニコを目に留める。
「ニコ、フォノルーシュカの代わりを。」
ベンチに横たわっていた豹は、顔を巡らしてルーシェを捉える。数刻見つめあって、ニコが目をそらした。
口の中で何かを唱えて、ニコのかたちが再び変わる。
額にかかる赤銅色の髪。ノカに比べると、いくらか細い瞳。どこまでも白い肌に、少し冷たい印象の相貌の少年。
ニコが杯を手に取ると、女がそっと酒を注ぐ。
「ニコのその姿を見るのは何時ぶりだろう」
ルーシェがニコの顔を覗きこむ。
「僕はフォノルーシュカの写し身ですから。フォノルーシュカがいる限り必要ありません」
ルーシェの手が楽しそうにニコの頬を撫でる。
「せっかく美しいのに、勿体ない」
「ルーシェ様の美しさには敵いません」
ニコが嫌そうにルーシェを見つめ返した。
「その姿をノカに見られると甘えられないから隠しているんだろ?」
ルーシェがニヤリと笑う。
「この姿で甘えていたら我ながらドン引きです」
「大変如何わしいと思いますわ」
「頬を舐めまわして猥褻だね」
「ちゃんとわかっているからこうしているんじゃありませんか」
ニコがうんざりした顔でベンチの背に体を預けて杯を煽る。
「良い飲みっぷりでございます。次は米の御酒を注ぎましょう」
女が妖しくにっこりと笑って、すぐに次を注ぐ。
「神龍様もたっぷりお飲みくださいませ」
ルーシェの杯を満たして、女がふっと姿勢を正した。輝く月見草の群に目をやる。輝きは最高潮に達して辺りを薄紅色に染めている。
「舞の支度が整いましてございます」
女の衣装がふわりと変わる。
袖のない舞衣から出たすんなりとした腕に風の衣をかけて、足先までを緩やかに覆う布は左右が腿の上まで開いている。
女は優雅に一礼すると、空を踏んで月明かりの中央に進み出た。
しゃらん‥‥しゃらん‥‥しゃららん‥‥
腕を伸ばせば腕輪が、歩を進めれば足輪が、胸を反らせば首輪と耳飾りが密やかな音を立てる。
しなやかに、すべて繋がっているように。指先の、足先の、髪の先までの表情一つ一つが美しく、調っている。
どこからか妙なる音が降りてくる。
女の右手がすっと真横に伸びる。
その先に、同じ姿かたちのの女がもうひとり現れる。
左手をすっと真横に差し伸べる。
その先に、同じ姿かたちの女が現れる。
女たちは意思を同じくする者のように、広がり、重なり、完璧な調和を現す。
しゃらん‥‥しゃらん‥‥
こころを動かすように。こころを満たすように。世界と調和するように。
ニコが見つめる。
しゃらん‥‥しゃらん‥‥
ルーシェの視界で揺れる。
しゃらん‥‥しゃらん‥‥
汗を持たない女たちの躰から、光の粒が生まれる。
動きが早くなる。
残る姿が揺れる。
輝きが増してゆく。
ーー世界の隅まで、光が満ちてゆく。
女の有り様が、恍惚に震える‥‥‥‥
女はひとつに還り、まっすぐにそこに在った。
蕩けたような瞳から、雫がひとすじ頬をつたう。ふたりを見つめる。
「神龍様、眷属様。姫様をよろしくお願いいたします」
音の消えた空間に女の声が静かに響きわたる。
そっと空を見上げてからゆっくりと頭を下げると、ふっと空に溶けた。
東の空が白々と明けている。
***
ノカが目を覚ます。
ぼんやりとした頭で辺りを見回すと、いつものように傍らに小さな猫の姿があった。
「ニコ‥‥」
小さく寝息をたてているニコは、小さな声にも触れる手にも目を覚まさなかった。
まだはっきりしない頭で見つめるニコの完全に弛緩した寝姿に癒される。
「昨日も夜更かししたのね」
よく考えるとどうやってベッドに入ったのか憶えていない。服は昨夜のままだ。
(お兄ちゃんが運んでくれたのかしら)
月見草の姿を思い出して、挨拶もできなかったことに少し寂しい気持ちになる。
「大きくなって、最後まで見守れるようになりたいな」
つぶやいて体を起こす。
窓から見える空はどこまでも青い。
今日も気持ちのいい天気になりそうだ。
しばらくぼんやりと外を眺めていると、傍らの猫がぴくんと震えて目を覚ました。
つたない文章ですが、読んでくださってありがとうございます。