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パレンケ幻想

作者: 三坂淳一

「 パレンケ幻想 」(時代背景は1978年10月)


 パレンケは深い靄に包まれていた。

 しっとりと濡れた砂利道を踏みしめて歩く私の眼の前に、パレンケの遺跡がひっそりと

その壮麗な姿を現した。


 憧れのパレンケ!


 私は、この密林に囲まれた遺跡に憧れていた。


 「妻とよく行ったよ。妻も亡くなり、この年齢ではもう二度と行くことも無いだろうが。マヤの遺跡の中では、このパレンケが一番好きだ。コウイチ、一度は行ってごらん」

 アパートの管理人の老フアンが私によく言っていた言葉を思い出す。


 歩いていく道の右手に階段状のピラミッドがある。

 22メートルという高さがあり、「碑銘の神殿」と呼ばれているピラミッドである。


 「それまで、メキシコのピラミッドはエジプトのピラミッドとは異なり、墓を持たないと云われてきた。ところが、1952年のアルベルト・ルス博士のこの偉大な発見により、墓のあるピラミッドもメキシコに存在するということが確認された。碑銘の神殿の重要さはここにあります」


 冷房の効かない暑い教室の中で、考古学教室の助手のフアニータが額の汗をハンカチで押さえながら、我々に語った。

 あれは、8月の暑い日の午後だった。


 今は10月。


 左手正面には、四層の塔を持つ、「宮殿」と呼ばれる建物がある。

 中庭を四つ持ち、パレンケの王が居住した館であろうと云われている優美な建物である。


 私は、「碑銘の神殿」の正面の広場に立って、神殿を見上げた。広場には雑草が疎らに生え、朝露が靴を濡らした。

 神殿の背後は小高い丘になっており、白い神殿を緑の手で優しく抱きかかえるように屹立している。


 「順子が結婚するということ、知ってるでしょう? 知らなかったの。来年の春だって」

 「誰と?」

 「順子のゼミの講師、という噂よ」

 「来年の春に日本に帰ってすぐ、ということか」

 「あなた、順子とつきあっていたんでしょう。全然知らなかったの? おかしいわ? てっきり、承知の上かと思ってた」

 「シティとメリダでは、遠くてどうしようもないよ。それに、もう三ヶ月も会っていないし」

 睦美がシティからメリダに遊びにきて、ユカタン大学の前のカフェテリア・ポップで交わした私たちの退屈な会話。


 ゆっくりと神殿の69段の階段を登る。階段は急で、スニーカーの足元を気にしながら登っていった。

 頂上に腰を下ろし、周囲を見渡す。

 右手に「宮殿」が見える。あたりは、柔らかな緑の平原である。朝靄はだいぶ晴れてきたようだ。それまでのぼんやりとした風景が急に鮮やかな輪郭を持ち始めてきた。

 暑くなってきた。


 「明日はメリダに発ってしまうのね。でも、時々はシティに遊びに来るんでしょう。その時は連絡してね。睦美にも連絡して、三人でタスコに行こうよ」

 順子は、シティ近郊の保養地、オアステペックのレストラン・ヤウテペックのバーでマルガリータのグラスを口許に運びながら、私に言った。

 それ以後、順子には3ヶ月会っていない。


 「去る者は日々に疎し、と云うよ。女性の場合は特にこの傾向が顕著だね。女性にしてみれば、常に自分は中心でいたいんだ。逆に言うと、自分から離れている者に対しては、必要以上に冷淡になりやすいんだ。田中君、注意した方がいいよ」

 メリダの社会人研修生の辻真一郎が、サンタ・ルシア公園前のエル・トロバドール・ボエミアというバル(酒場)でコロナビールを飲みながら、私に忠告してくれた。


 ふと、見下ろすと、階段を登ろうとしている夫婦連れと少女の姿が目に入った。

 少女の赤い帽子が私の眼に鮮やかに映った。

 靄は完全に消え失せ、暑い日差しが容赦なくあたりを照りつけ始めていた。

 午前10時になろうとしていた。そろそろ、観光客が増える時刻となっていた。


 「ブエノス・ディアス(今日は)!」

 頂上に辿りついた中年の紳士が私に話しかけてきた。私も挨拶を返した。

 「日本人?」

 「ええ、そうです」

 「観光?」

 「今は、メリダに住んでいるのですが、今日は遺跡見物に来たのです」

 「ほう、メリダに。学生かな?」

 「はい。日墨交換留学の学生です。今は、ユカタン大学で考古学を勉強しています」

 「私はホセ・マルホ。これは私の家内で、リンダ。あれが娘のマルシア」

 「田中浩一です。はじめまして」

 「スペイン語が上手だね。こちらに来て、何年になるの?」

 「まだ、三ヶ月ですが、スペイン語は日本で三年間勉強してきました」

 「道理で、お上手なんですね」

 彼は懐からタバコを取り出し、私に勧めながら、話した。

 「実は、去年、日本に行ったんですよ。家内も一緒で。医学の学会が東京で開催されたので、出席しまして」

 「医者なんですか?」

 「ええ、主人はメキシコシティで医院を開いているの」

 彼の妻のリンダが微笑みながら言った。

 「家族で旅行ですか?」

 私が訊くと、またリンダが答えた。

 「ええ、主人にお願いして、ここユカタン半島を旅行しているの。あっ、マルシア、そっちに行っちゃ駄目! お父様がついていないと危ないわよ」

 見ると、マルシアは頂上の神殿の中を覗き込んでいた。


 「見て! 天井はマヤのアーチ天井よ。それに、壁はマヤ文字でいっぱい」

 マルシアの赤い帽子が神殿の石柱の蔭から見え隠れしていた。

 「ちっとも私の言うことなんか聞かないんだから」

 夫人が肩を軽くすくめながらこぼした。

 「さて、マルシアについて行こうか。それでは、失礼しますよ」

 セニョール・マルホが夫人の肩を抱いてマルシアの方へと歩み寄っていった。


 彼らを見送った後、私はそのまま頂上の石段に腰を下ろし、前面に広がる緑の地平線をぼんやりと眺めた。現在は管理されているこの遺跡も、かつては鬱蒼とした密林に埋もれていた。

 このチアパス州のウスマシンタ川の流域の密林での樹木の生育は驚くほど速い。

 人為的に管理されていない農園は数年で草原となり、数十年で密林に化すと云われている。

 神秘さと厳粛さがふたつながらある、と云われるこのバレンケ遺跡は、マヤの神話では創造主ハチャキュムが住んでいて、世界の中心であるとされている。

 しかし、現実には、紀元603年に生まれ、12歳で即位したパカル王が68年の長きにわたり君臨したということが遺跡に残されたマヤ文字から解読されており、実際には生身の人間による統治支配が行われていたのである。


 そのパカル王がこの「碑銘の神殿」の地下に葬られていた。翡翠の仮面を被せられたミイラ化した遺体をアルベルト・ルス博士が発見したのである。


 緑には眼を休ませる作用があると云う。しかし、全てが緑という部屋に閉じ込められた人は例外なく発狂してしまう、ということを以前聞いたことがある。

 緑の恐怖!

 見渡す限り、緑に覆われた地平線を眺めながら、私の胸は騒ぎ、恐怖感すら覚えていた。


 「セニョール・タナカ! あなたもピラミッドの地下を覗いてきたらどうか。見事なレリーフの石盤を見ることができるよ」

 振り向くと、そこにセニョール・マルホが立っていた。夫人と娘のマルシアも、こちらを見て微笑んでいた。

 「グラスィアス(ありがとう)! 今から観てきます。地下はどうでした?」

 「ひんやりとして涼しいわよ。でも、ちょっと不気味で、ねぇ、ホセ」

 夫人は夫の相槌を求めた。

 「ご婦人方にはそうかも知れんが、男にはなんともないよ。・・・、さて、ホテルに帰って昼食とするか」

 「ホテルはどちらにお泊りですか?」

 「オテル・カシュランです。あのバス・ターミナル近くの」

 「ああ、あの新しいホテルですね。ここへ来る途中で見ました」

 「セニョール・タナカは、どちらのホテルに?」

 「僕は、ビリャエルモーサのホテルに今晩泊まる予定をしています」

 「そうすると、夕方にはここを発つおつもりですな」

 「ええ、今日は一日、のんびりと見物していきますよ」

 「それではまた、午後にでも」

 彼らは慎重に階段を下りていった。夫人の白い帽子とマルシアの赤い帽子がひらひらと舞い降りるように遠ざかっていった。


 私は狭い階段をゆっくりと降りていった。所々の階段は少し破損しており、慎重に歩を運ばなければならなかった。

 地下階段の天井には破損防止の網に覆われた裸電球が取り付けられ、足元を照らしていたが、全体に暗く、静謐な雰囲気が漂っていた。


 地下室の墓室はマヤ独特のアーチ状の部屋になっており、中央には大きな石棺が安置されている。その石棺を覆っているのが、素晴らしい浮き彫りが施されている石盤で、5トンの重量があり、人・神・植物そして神聖マヤ文字が隙間無く彫刻されている。

 隙間を恐れるかのように、びっしりと彫刻を施すことにマヤ人は情熱を感じていたのだろうか。

 その浮き彫りを見詰めていると、頭の中が混沌としてくる。

 見方によっては、宇宙船を操縦している宇宙人のようにも見える図案であり、現在もいろいろと論議が絶えない石盤レリーフである。


 また、ここに葬られている人物も実はまだ明確には判っていない。

 パカル王であるとする説と、全く別な人物であるとする説と、二説ある。

 この翡翠の仮面をつけ、豪華な副葬品と共に葬られていた人物は、当時としてはかなり長身の男性であった。推定年齢で、40から50歳でその身長は173センチメートルであったと云う。パカル王は80歳の長命であったはずで、明らかな年齢差がある。また、マヤ族は小柄な民族であり、当時の平均身長は157センチメートルであったと推定されている。そしてまた、6人の殉死者を伴って葬られた、この人物は西暦650年、28歳の時に王座に上り、20年の間このパレンケを支配したとも云われている。

 明らかに、パカル王の事蹟とは異なっているのだ。

 この神官王は一体何者だったのか。

 ここにも、宇宙人説が語られる要素がある。

 それから、200年を待たず、このパレンケは放棄され、密林の中に埋もれていった。

 メキシコの多くの遺跡のように、放棄された理由もまだ判っていない。現在のパレンケに残るマヤの暦の最終年号は西暦に換算すると、785年である。この年以降の年は刻まれていない。その後、何が起こり、何故放棄されたのか。それらの謎に関して、パレンケは今も黙し、語らない。


 私は、照明ランプに照らし出された、その石盤レリーフを見詰めながら、豹の預言者の書とも言われ、ユカタン州のインディオの年代記でもある、チラム・バラムの書に書かれた、不気味な詩句を思い出した。

 チラム・バラムの書にはこのように書かれている。


 食べよ、食べよ、汝にはパンもある

 飲め、飲め、汝には水もある

 あの日、ちりが大地を支配した

 あの日、地面は輝いていた

あの日、雲がたちこめた

あの日、山が高く聳えた

あの日、強い男がその土地を奪った

あの日、全てが廃墟と化した

あの日、柔らかい葉は打ち砕かれた

あの日、死人の目は閉じられた

あの日、三つのしるしが木にあった

あの日、老いも若きもそこで吊るされた

あの日、戦いの旗が高く掲げられた

そして、彼らは森の奥へと散り散りに入っていった


私は、暫くしてから、そこを離れ、地下室の階段を登っていった。

薄暗がりの中から急に眩しいほどの光に満ち溢れた階上に出た私の目に、真昼の太陽は強烈だった。雲ひとつ無い空に、太陽はほぼ天の頂点にあり、その強烈な光を地上に照射していた。


私はピラミッドの階段を下りていった。

「碑銘の神殿」の前の広場は観光客で溢れ、陽気で声高な会話が交わされていた。


「来年は就職ね。浩一は商事会社を希望するの?」

「今は分からないけれど、多分、どこかの商事会社に入り、またこのメキシコに来るかも知れない。そういくと、いいけどね」

「私は、就職するかも知れないし、思い切って結婚してしまうかも知れない。実は、日本を出発する前に、或るひとから結婚を申し込まれているの」

「・・・」

「浩一のお嫁さんになってあげてもいいな、とも思っているけど、・・・」

「結婚、か・・・。まだ早い気がするな」

「・・・。そうね、まだ早いわね」

「・・・」

オアステペックでの私たちの会話は途切れた。

順子は私を見詰めたが、私は順子の眼から、顔を背け、窓を激しく叩く雨に目を移した。

あの時、順子は私の言葉を待っていたのに。


私は「宮殿」の方に歩いていった。

四層の塔を持つ、この建物は強烈な陽射しに照らされ、ほんのりと茶褐色を帯びていたが、全体的には白く乾ききった印象を与えていた。


私は「宮殿」の階段を上り、半ば崩れかけた入口から塔の方へ歩み寄った。塔には狭く急な階段があり、人ひとり通るのがようやくといった狭さだった。

私はその階段を昇って、塔の最上階に出た。


最上階から周囲をぐるりと眺めた。

左手に「碑銘の神殿」の神秘的な姿が見えた。

ここからは宮殿の全体が見渡すことができ、その眺望の素晴らしさから、往時は天体観測所及び物見の塔としての役割を果たしていたものと思われた。石は、おそらくはセメントであろうが、セメントで接着されており、その柱は頑丈で重量感に溢れていた。

私は柱に凭れ、周囲の景観を暫く楽しんだ。


ふと、気がつくと、眼下の広場には先ほどの親子が居た。リンダの白い帽子とマルシアの赤い帽子ですぐ判った。マルシアがこちらに向かって手を振った。赤い帽子もゆらゆらと揺れた。私も思わず手を振った。彼らはこちらに歩いてきた。私は塔を下り、彼らを迎えた。


「ブエナス・タルデス、セニョール・マルホ!」

「ムイ・ブエナス・タルデス、セニョール・タナカ!」

「もう、昼食は済んだのですか?」

「ええ、ホテルで簡単に。急に暑くなったね」

「そうですね。とても暑いですね」

「ところで、ここへは車で来たのかね」

「ええ、メリダから友達の車を借りて」

「今夜はビリャエルモーサ泊まりと言っていたね」

「ええ。夕方までここに居て、それからビリャエルモーサまで車で行きます」

「ホセ! 私とマルシアは塔に昇りますわ」

リンダが言って、マルシアと共に塔の階段へ向かって歩いていった。


「失礼ですけど、奥さんはずいぶん若いかたですね」

ホセは少し肩をすくめて言った。

「そうです。若いです。・・・。若すぎます」

ちらりと、こちらを警戒するような目つきを見せた後で、ホセは続けた。

「リンダは二度目の妻なのです。マルシアの母は五年前に心臓病で亡くなりました。で、リンダとは二年前に結婚したばかりなんです」

「マルシアとは、そう年も離れていないような感じを受けますが」

「10歳しか離れていません。私とは15歳ほど違います」

ホセの顔に微かな苦渋の色が走った。私は話題を変えた方が良いと思った。

「ところで、セニョール・マルホ、このパレンケの後、どちらに行かれる予定なんですか?」

「そうだねえ、これから、メリダ、チチェン・イッツァ、ウシュマル、カンクーン、コスメルと旅行するつもりでいるんだ。十日後には、メキシコシティに戻る予定でいるんだ」

「かなり、長期の旅行ですね。僕も明後日にはメリダに戻っています」

「じゃあ、また、メリダで会えるかも知れないな。私たちは、モンテホ・パレス・ホテルに泊まっているから、訪ねておいで。メリダには五日間ほど居るから。一緒に食事でもしよう」

「グラスィアス。メリダは僕の庭みたいなものですから、その時は道案内しますよ」

ホセは笑って私の肩を叩いた。私は雑談を交わしながら、ホセに好感を持った。ホセにはどこか哀しみがあり、その哀しみに私は好感を持った。


「ホセ! 塔に昇ってきたら。素晴らしい風景よ」

リンダとマルシアが戻ってきて、ホセにも昇ってくるよう促した。

「それじゃあ、昇ってくることとしようか。セニョール・タナカ、失礼するよ」


「セニョール・タナカ、もう、お食事は済んだの?」

リンダの声は少しハスキーで、耳に快く響いた。

「いや、まだなんです。あまり食欲がなくて」

「若い人がそんなことを言っちゃ駄目。もりもり食べなくっちゃ」

「あなたと同じくらいの年齢ですよ、セニョーラ」

私は笑いながら、夫人に言った。

「あら、そうなの。幾つ?」

リンダは少し好奇心を覗かせて私に訊いた。

「22歳です」

「日本人は若く見えるのね。私と三つしか違っていないのね。マルシア、あなたとは七つ違いよ」

マルシアは少しはにかんだような表情を浮かべて私を見た。

「ママ、私、宮殿の内部を見てくるわ」

と言って、マルシアは小走りに去っていった。

「あの子は内気で。・・・、でも、もう15歳なのよ」

「可愛らしいセニョリータですよ」

「今、メリダに住んでいるの? あそこは蒸し暑いでしょう」

「ええ、シティと比べたら、ずっと蒸し暑いです。でも、もう慣れました。これからがメリダは快適な季節を迎えます」

「実は、明日、メリダに行くのよ。ホセは今までに二回ほど行っているけれど、私とマルシアは初めてなの。それで、楽しみにしているのよ」

「お泊りは、モンテホ・パレス・ホテルとのことですね。セニョール・マルホから聞きました。僕も明後日には帰るので、もしかするとセントロかどこかでばったり会うかも知れませんね。」

「そうだといいわねぇ。その時はまた、私たちの話相手になって頂戴ね」

「ええ、喜んで」

「セニョール・タナカ」

「いや、浩一と呼んで下さい。その方が発音しやすいから」

「そうね、じゃあ、コウイチ、日本ではどこに住んでいるの?」

「生まれは京都ですが、今は大阪に住んでいます。大学が大阪なので」

「京都、大阪。知っているわ。東京の次に行ったのが京都で、その次が大阪だったの。京都は美しい街で、大阪はとても賑やかな街だったわ。そう、東京と同じぐらい大きな街でとても活気に溢れた街」

「日本の食事はどうでした?」

「シティでも食べたことはあったけれど、さすがに日本で食べる日本食は違うわ。すき焼き、天麩羅、神戸ビーフ、・・・、とても美味しかったわ。料理も美味しかったけれど、日本のひと、とても親切にしてくれたし、楽しい思い出になっているわ」

「美人には誰でも親切ですよ」

「あらっ、コウイチはお口がお上手ね」

そう言って、夫人は軽く私を見詰めた。少し挑むような魅惑的な眼差しだった。


そこに、ホセが現れた。別れに際して、ホセは名刺をくれた。

「シティに来たら、ここに電話しなさい。ホテル代が勿体無いから、家に泊まればいい」


彼らと別れてから、私も宮殿の中を観てまわった。嘗ては漆喰が塗られ、鮮やかな色彩で目を楽しませたであろう壁も今では一様に白くごつごつとした壁となっていた。

いつのまにか、陽は翳り、黒い雲が空一面を覆い始めていた。

10月はまだスコールのある季節だった。気がつくと、観光客も大分減りはじめていた。


宮殿の内部を観た後、裏手に点在する幾つかの小さな神殿を見物して廻った。

太陽の神殿、葉の十字架の神殿、十字架の神殿、北の神殿、コンデの神殿、浮き彫りの神殿と、まるでお伽の国の森の妖精たちが住む住居のような神殿跡が数多く点在しているさまはメルヘンの世界だった。

丘の中腹にある「葉の十字架の神殿」の内部を観ていると、突然雨音がして、スコールが襲来した。もの凄いスコールで視界は完全に雨で遮られた。私は壁に身を寄せるようにして、このスコールを避けた。それでも、雨水の跳ね返りで私のズボンの裾はすぐずぶ濡れとなった。


スコールの激しい雨音を聴いている内に、私の聴覚は痺れ、ひどく幻想的な感覚に陥っていった。私はズボンのポケットを探り、ナイフを取り出した。ナイフはスイスのビクトリノックス社製のもので、日本を出国する時に叔父から貰ったものだった。十字の紋章がついた赤い柄のナイフで鋭利な刃を持っていた。私はそのナイフの刃を開き、左手の手首の静脈に押し当てた。ステンレスの刃は鋭い切れ味を示すはずだった。このまま、手前に引くだけで良かった。人に見られることも無く、この激しいスコールの中で私はこのパレンケに来た真の目的を果たすことができるのだ。


パレンケで死にたい。

それが今回の私の旅の最終目的であり、これまでの人生という旅の終わりだったのだ。

私は順子を愛していた。

今も愛しているし、それを三ヶ月前に順子に告げるべきだったのだ。

どうして、あの時、素直な気持ちで、結婚して欲しい、と言えなかったのか。

順子は私の優柔不断さに絶望し、好きでもない求婚者に結婚を承諾する返事を与えたのだろう。いや、順子は私を本当は愛していなかったのかも知れない。もう、そんなことはどうでもいい。今は簡単に死ぬことができる。死は、・・・、死はおそらく甘美なものであろう。このまま、刃を手前に引いて、壁に凭れて眠ればいいのだ。それで全てが終わる。


刃を一気に引こうとした時だった。

足元で動くものがあった。

私は、ハッとして、それを凝視した。

蛇だった。

蝮のような蛇だった。

三角形の頭をしていた。毒蛇!

私は思わず、右手に持っていたナイフを蛇に投げつけた。

蛇は驚いたように、足元を離れ、スコールの中に身をくねらせて逃げていった。


ナイフと共に、私の、・・・、死への情熱も消え失せてしまった。

私は嘲笑した。自分自身を嘲笑した。

しかし、私の笑い声はスコールにかき消され、いつしか、私は泣いていた。


スコールは30分ほどでやんだ。


黒い雲はかなたに去り、再び強い陽射しがあたりを照らしはじめた。私は葉の十字架の神殿を出て、あてどもなく、さまよい歩いた。私の心は虚ろで重く沈んでいた。時々、草むらの水たまりに足を取られ、私のスニーカーは既にずぶ濡れであった。歩くたびに、水を撒き散らすほどだった。強烈な陽射しの中で、堪え難いほどの蒸し暑さが支配していた。 

最悪の気分だった。


どれほど歩いたことか、いつしか私はパレンケの遺跡群から遠く離れて草原を歩いていた。時々、メリダで買ったパナマ帽を脱ぎ、額に噴き出している汗をハンカチで拭いとった。


草原には潅木が疎らに生育し、葉をいっぱいつけた背の高い樹木も散在していた。私は歩き疲れ、木陰に腰を下ろし、陽射しを避けて休息した。時々、涼しい風も吹き、私は暫くぼんやりと体を休めた。


七面鳥がいた。

こちらに歩いて近づいてきた。かなり大きな七面鳥で、この付近の農家で飼われているのだろう。顔は赤く、びっくりしたような表情をしている。忙しく動きまわり、地面をついばんでいた。次第に、私の心は和んできた。いつしか、七面鳥は二匹に増えていた。先ほどの七面鳥の胴体は黒い羽毛で覆われていたが、新しく現れた七面鳥は茶褐色の羽毛で覆われていた。時々、顔と顔が触れ合った。それはあたかも、夫婦の七面鳥が接吻をしているかのようであった。微笑ましい光景だった。


暫くして、私は立ち上がり、また付近を歩いた。ふと、水の音が聞こえた。耳を澄ました。音は草原の下の方から聞こえていた。私は水音がする方向へ歩いて行った。草原はふいに途切れ、川が流れていた。先ほどのスコールで増水したのであろう。川の流れは急であった。川を見るのはひさしぶりだった。私の住んでいるメリダを始め、ユカタン州には川が無い。州の水源は、セノーテと呼ばれる地下の泉であり、川は存在しなかったのである。


川は少し濁っていたが、10人ばかりの人が水浴をしていた。蒸し暑さから逃れる手段としては最適だった。カラフルな水着が水と戯れていた。どこからか、私の名前を呼ぶ声がした。私はその声の方を見た。そこに白い水着を着たマルシアが居た。手を振っていた。


私はマルシアの方に近づいていった。彼女は濡れた髪に手をかけて、微笑んでいた。

ヴィーナスを思わせた。可愛いヴィーナスだった。


「川の水は冷たい?」

「少し冷たい。けど、涼しくなるわ」

「パパとママは?」

「あちらの方にいるわ」

「水着は持ってきたの?」

「着ていたの」

私は笑い。マルシアも綺麗な歯並びを見せて笑った。こうして見ると、マルシアの肌は際立って白かった。ホセは典型的なメスティーソで浅黒い肌をしている。おそらく、マルシアの母はクリオーリョ系で白人としての血が色濃く流れていたのだろう。若い肌は水を弾き、輝いていた。15歳とはとても思えぬほどの成熟さに私は圧倒される思いだった。 

既に豊満な胸と魅力的にくびれている腰、そしてすらりと伸びた足は十分に女性としての魅惑を備えていた。

「僕も泳ぎたいけれど、今は水着を持っていないんだ。残念だなぁ」

マルシアは肩をすくめた。


「7月頃、オアステペックに居た?」

マルシアが思いがけないことを訊いてきた。訊いてみると、家族旅行でオアステペックに行った際、丁度研修中の私たちを見かけたとのことだった。陸奥とか辻とかいう名前までマルシアは覚えており、私をびっくりさせた。

オアステペックは懐かしいところであり、私と順子は毎晩のように会い、いろんなことを語り合った。あの頃、私たちは幸せだった。


「いつ頃、ここを発つの?」

「私が戻ってくるのを、パパとママは待っているの」

「それじゃ、もう帰るのかい?」

「ええ、これからホテルに帰って、支度してメリダに行くの」

「メリダまでは700キロほどあるから、途中で一泊するんだろう?」

「ええ、どこかで。ホテルの名前は忘れちゃったけど、昨夜、パパが予約していたわ」

私たちは岸辺の岩に腰掛けて、暫く話した。横を向くたびに、マルシアの胸元の膨らみが目に入り、眩しかった。

「こんなこと、訊いていいかな?」

「えっ、どんなこと?」

「つまり、・・・、リンダと君は年齢がそうは離れていないだろう。リンダは君にとって、母親というよりは、むしろ・・・」

「年齢の離れた姉さんみたいな存在ではないか、ということ?」

「うん、そうなんだ。お互いにやりづらいと思うんだ」

「でも、リンダは私には母親として接しているわよ」

「君は?」

私の質問にマルシアは苦笑して答えなかった。マルシアが急に大人びて見えた。

川の流れに目を向けていたマルシアが急に私の方に向き直って言った。

「ねえ、これから話すことは、・・・、内緒よ。誰にも話さないと約束して!」

私は戸惑いながら、話さないと彼女に誓った。

「リンダはとても官能的な女なの」

私は「官能的な」という言葉を呟いた。あまり使われない単語で耳に馴染んでいなかった。

「そうよ。とても官能的な女なのよ。リンダはパパには若すぎるのよ。リンダはまだ若い女だから、女としては構わないけれど、妻としては許されないことをしているの」

「・・・」

「私は知っているんだから。パパは知らないようだけれど、私は知っているんだから」

マルシアの声には怒気が含まれていた。

私はマルシアの顔から眼をそらし、青く晴れあがった空を見上げた。先ほどの強烈な陽射しはもう随分と柔らかくなっていた。そろそろ、ホセとリンダのところに戻るべきだろう。私はマルシアを促し、立ち上がった。

川の岸辺のベンチで、ホセとリンダは所在なげにマルシアの帰りを待っていた。


「セニョール・マルホ! あなたの可愛いヴィーナスをお連れしましたよ」

私が陽気に言うと、ホセは大袈裟に喜んだ。

「セニョール・タナカ、どうもありがとう。あまりに帰りがおそいので、娘はパレンケの神官にさらわれてしまったのかと思ったよ」

「どういたしまして。さぁーて、もう帰るとしますか。僕も明るいうちにビリャエルモーサに着かないと」

「メリダに戻ってきたら、ホテルに電話をよこしなさい。一緒に食事をしよう」

「はい、必ず電話します。タコスの美味しい店を知っていますから、ご案内しますよ」


私たちはパレンケの入口のところで別れた。

私は駐車場の方へ歩きはじめた。マルシアが赤い帽子を振った。私も彼らに手を振った。

私の心は静かに満たされていった。

人は人の関係の中でしか、癒されないのだと思った。

人によって傷つけられた心は、人によってしか癒されない。

自然はあまり関与しない。そう思った。


ハンドルを握り、私はダットサンを走らせた。旧式であるが、ダットサンは快調に走り、ビリャエルモーサを目指した。これから、150キロの旅が始まる。

道端の木々が後ろに走り去る。車のラジオをつけた。丁度、マリアッチがかかっていた。

ホセ、リンダそしてマルシアの旅はどんな旅になるだろうか。

蠢惑的で官能的なリンダ、清純な少女から魅惑的な大人の女性へと変貌を遂げつつあるマルシア、そして・・・、私にアディオスのメッセージを送りつけてきた順子。


車は平原の中、夕焼けを目指して一直線に走っていく。


まだ、間に合うかも知れない。


ホテルに着いたら、順子に電話をするんだ。

三ヶ月前に言えなかったことを言うために。




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