幕開けの唄
寂れた街である真幌市にも、一応は娯楽施設や飲み屋、さらには風俗店なども存在している。もっとも、そうした場所が活気づくのは夜になってからだ。昼間は、ひっそりと静まりかえっている……はずだった。
しかし、今日は事情が違うらしい。
海斗は、唖然となっていた。
真っ昼間だというのに、繁華街のど真ん中で数人の男たちが睨み合っているのだ。全員、服装や髪型はまちまちである。だが、彼らの顔つきには共通点があった。確実に、堅気ではない雰囲気を漂わせていることだ。
そんな男たちが二つの集団に分かれ、海斗の目の前で罵り合っているのだ。
「おうコラ! 調子こいてんじゃねえぞクソがぁ! 俺は士想会の戸塚だぞ! とっとと消えろや、ザコがぁ!」
片方の集団にいる男が、凄まじい形相で怒鳴り付ける。すると、もう一方の集団の中から、一人の男が前に進み出て来た。
「はぁ!? 士想会の戸塚だぁ!? 聞いたこともねえなあ、そんなクソザコの名前はよぉ!」
「んだと! 殺すぞ!」
罵声と同時に、殴りかかって行く男たち。あっという間に、多人数での乱闘が始まった。
その乱闘を尻目に、さっさとずらかる海斗。こんなものに巻き込まれても、一文の得にもならない。自分はヤクザではないし、どちらの味方でもないのだ。今は、下手に関わりあいたくない。海斗は足早に歩いて、一軒の喫茶店に入り込んだ。
小林がマスターを務めている、喫茶『猫の瞳』だ。
「やれやれ。まったく、士想会も沢田組も馬鹿ばっかりなのかね。それとも、ただ単に上の連中が、下っ端のアホ共を押さえきれてないだけなのかなあ」
言いながら、顔をしかめる海斗。すると、小林がコーヒーを差し出した。
「まあ、ただの小競り合いでしょうけどね。それでなくても、ヤクザの下っ端連中はストレス溜まりやすいし……ただ、もうそろそろ話し合って欲しいわね。でないと、こっちに火の粉が飛んで来るわよ」
「そうだよな。上の連中が早いとこ収めてくれねえと、そのうち俺まで巻き込まれそうだよ」
その時、店の扉が開く。海斗ははっとなった。タイミング的に、乱闘を終えたヤクザたちが入って来たのかと思ったのだ。
しかし、入って来たのは頭の真っ白な老人だった。杖を突きながら歩き、海斗の隣に腰かける。
そして口を開いた。
「海斗、お前もいたのかい。それにしても、あのヤクザ共は何とかならんかの」
呟くような口調で言った老人。海斗は、この老人をよく知っている。以前は、大工の棟梁をしていた戸川源吉だ。海斗は幼い時、あちこちで悪さをしては戸川に殴られたものだ。
もっとも、今は引退し年金暮らしの身であるが。
「ったく、今どきのヤクザは仁義ってものを知らねえのかよ。堅気の人間は巻き込まねえはずじゃなかったのかい。世も末だぜ」
コーヒーを飲みながら、ブツブツ呟いている戸川。もっとも、そのセリフは海斗から見れば、完全なる思い込みでしかない。ヤクザは今も昔も同じだ。程度の差はあれど、基本的には寄生虫である。一般市民にたかるノミのような存在だ。
もっとも、自分もまた同じであるが。
「なあ海斗、お前はヤクザなのかよ? 沢田組の正式な組員なのか?」
不意に海斗の方を向き、尋ねる戸川。海斗は首を振った。
「いや、違うよ。近ごろ流行りの、フリーターって奴だよ。奴らと一緒にするんじゃねえ」
「ケッ、何がふーりーただよう。要は無職みてえなもんじゃねえか。ヤクザ共と大して変わりゃしねえや」
吐き捨てるような口調で言い、戸川はコーヒーを飲んだ。
「けど、本当に困ったものよね。奴らが来ると、他のお客に迷惑なのよ。ウチは沢田組にケツモチ頼んでるけど、最近じゃあ士想会のチンピラまで姿を見せるし。このままだと、いつか店ん中で乱闘騒ぎになりそうよ」
そう言う小林は、相変わらずのしかめ面だ。もちろん、小林はヤクザ数人を相手にしても負けないだけの強さは持っている。だが、小林の強さはあくまでも一面的なものだ。個人の強さ、そして肉体の強さでしかない。
ヤクザに代表される、裏社会に蠢くアウトローたちの強みは、いざとなったら人を簡単に殺せる事だ。まともな社会生活をしていない彼らにとって、刑務所に行く事など日常の一部でしかない。どんな格闘家や武術家であろうとも、瞬時に全てを捨て去ることの出来るアウトローにかなうはずがないのだ。まともな社会人である限り、アウトローには勝てない。
そう、ヤクザの強みはそこにある。素手の喧嘩なら、ヤクザに勝てる者はいくらでもいる。だが、ヤクザの喧嘩はそこでは終わらないのだ。
昔の武術家の中には、ヤクザ十人をぶっ飛ばしたなどと武勇伝を語る者がいるが、実際にそんな事をしたらどうなるか……海斗や小林は、よく知っている。現実にそんな事をしたら、その武術家はこの世にいない可能性が高い。
「なあ海斗、お前の方からも言ってやってくれよ。ヤクザ共に、抗争をさっさと終わらせろってな」
戸川の言葉に、海斗は苦笑しながら首を振った。
「あのなあ爺さん、俺はヤクザじゃないんだぞ。それ以前に、俺の言うことを聞くような連中じゃないから。無理無理」
「でも、奴らの事務所には出入りしてるんだろうが。だったら、何とか言ってくれよ。こないだだって、暴走族を追っ払ってくれたろうが」
食い下がる戸川。彼とて、海斗が抗争を止められるような大物でないことは理解しているはず。それでも、誰かに言わずにはいられないのだろう。
「おいおい、騒いでる暴走族とヤクザの抗争を一緒にしないでくれよ」
顔をしかめながら、コーヒーを飲み干す海斗。すると、小林が口を開いた。
「でもね……いくら何でも、本格的な抗争にはならないと思うけど。あいつらも、そこまで馬鹿じゃないでしょうしね」
「そうだと、いいんだけどな」
苦り切った表情で頷く海斗。
戦争は起きてしまった以上、一刻も早く終わらせなくてはならない……ヤクザなら、そのあたりの事情は理解しているはずだ。こんな状態を長引かせていても、誰も得しない。市民が損をすれば、必然的にヤクザも損をするのだ。
その時、海斗の頭にある疑問が浮かんだ。
「なあ小林さん、奴らはここで何がしたいのかな。こんな寂れた町に居ないで、歌舞伎町にでも行けばいいのに」
「アタシもよくは知らないけど……ここらに近々、黒川運輸のでかい倉庫兼営業所が建設されるらしいわ」
「倉庫? 何だそりゃ? そんな事で、血を見るような喧嘩してんのか?」
海斗は首を傾げる。すると、小林は鼻で笑った。
「アンタ、んな事も分からないの? 営業所が出来れば、それだけ人の行き来も多くなる。必然的に、ヤクザの付け入る部分も出てくるってワケ」
「まあ、それは分かるけどよう」
言葉を返す海斗。黒川運輸と言えば、大手の運送会社だ。その倉庫兼営業所が出来るとなれば、確かに事情は変わってくる。
だが、小林の話は終わりではなかった。
「それだけじゃないの。こっから先は未確認だけど……銀星会の仕切る裏カジノが、ここらに作られる予定だって噂よ」
「銀星会だぁ!? なんで奴らが!?」
海斗は思わず叫んでいた。隣にいる戸川も、眉をひそめていた。
銀星会といえば、日本でもトップクラスの暴力団である。士想会や沢田組など、比較にならないレベルの大組織だ。
それが、この真幌市にまで進出してくるとは。
「要は、どっちが銀星会に気に入られるか……その勝負なワケ。士想会も沢田組も、銀星会とやり合う気はないのよ。むしろ、どっちが銀星会の闇カジノのおこぼれに与れるか……そのために争ってるワケ」
小林の話を聞き、不快な表情になる海斗。まさか、そんなことになっていたとは……。
「何だよそりゃあ。本当、いい迷惑だな」
吐き捨てるような口調で言ったのは戸川だった。しかし、海斗も同感である。よりによって、こんな寂れた工業地帯に闇カジノを作るとは。そのせいで、周囲の住民にとってはいい迷惑だ。
「小林さん、その闇カジノはいつ出来るんだ?」
海斗が尋ねると、小林は首を振った。
「さあ、そもそも確認もまだ取れてないしね。ただ、まったくのデタラメとも思えないのよ。そんな事情でもなければ、こんな街の利権を巡って争ったりしないでしょうね」
こちらもまた、いかにも不快そうに顔を歪めながら答える小林。
その時、またしても扉が開く。一人の男が入って来た。
「いやあ、驚きましたよ。いきなりヤクザ同士が喧嘩してるんですからね。ここは本当に怖い街ですな」
言いながら、頭を掻いている男。海斗は、その男をじっくりと観察した。中肉中背、年齢は自分よりやや上――恐らく二十八から三十二くらい――か。グレーのスーツを着て、髪型は七三だ。中小企業の営業マンのような雰囲気を醸し出している。正直、ヤクザとは思えない。
「あら、崎村さん。こんな早くからどうしたのよ」
小林が声をかけると、男は顔をしかめて首を振る。
「参りましたよ。ヤクザの乱闘に巻き込まれそうになって、仕事おっぽり出して逃げてきたんです。本当、ヤクザって嫌ですね」
言いながら、崎村と呼ばれた男はあちこち見回した。だが、その目が海斗を捉えたとたん――
「あ! いや、その、すみません! 失礼します!」
急にあたふたとした態度になり、その場で立ち上がる崎村。しかし、小林が声をかける。
「ちょっと崎村さん、こいつヤクザじゃないから。それっぽい格好してるけど、ただのチンピラよ。悪い奴じゃないわ」
小林の言葉に、崎村は安堵の表情を浮かべた。照れくさそうに笑い、頭を掻きながら座る。
すると、小林は海斗の方を向いた。
「海斗、アンタも挨拶しときなさい。この崎村さんは、最近こっちに赴任してきた人なのよ。いざとなったら、崎村さんの会社で使ってもらいなさい」
「はあ、どうも。有田海斗です」
言いながら、頭を下げる海斗。すると、崎村の方もペコペコ頭を下げる。
「い、いえ……こちらこそよろしく。崎村達也です。小さな食品会社の営業をやってますが、まさか、こんなことになっているとは。本当にまいりました。もう、田舎に帰りたい気分ですよ」
冗談とも本気ともつかない口調で、崎村は自己紹介する。もっとも、その気持ちはわからなくもない。海斗自身も、出来ることなら僅かな間だけでも、ここを離れたい気持ちはある。
だが、今はまだ離れる訳にはいかない。ひとまず、孤児院の方に知らせる必要がある……海斗は立ち上がり、勘定を済ませて出て行った。
「海斗くん、その話は本当なのかい?」
院長の後藤が、不安そうな面持ちで尋ねてきた。それに対し、海斗もしかめ面をして見せる。
「ああ。いずれ、この辺に闇カジノが出来るらしい。二つのヤクザ組織が、そのおこぼれに与ろうと争っているんだよ。子供たちが巻き込まれないよう、くれぐれも注意してくれ」
海斗の言葉に、後藤は真剣な表情で頷いた。
「それにしても、町中で喧嘩を始めるとはなあ……まさか、拳銃で撃ち合ったりはしないよね?」
「多分、そこまではいかないと思うよ。そんな事しても、お互い損するだけだしな。ただ、しばらくは気をつけた方がいいよ。俺も小さい子たちの登下校の時には、出来るだけ手を貸すからさ」
海斗の言葉に、後藤は笑みを浮かべた。
「ありがとう。君にはいつも、助けられてばっかりだな」
「何言ってんだよ。大したことはしちゃいないさ。それより、先生も気を付けなよ。ヤクザ共はピリピリしてる。本格的な抗争にはならなくても、当分は小競り合いが続くと思うよ」
孤児院を出た後、海斗は瑠璃子のいる廃工場へと向かった。
しかし、街を包むものものしい空気は、さらに濃くなっていた。沢田組と士想会、双方の組員は殺気立った表情で街中をうろうろしている。このままでは、いつ小競り合いが起きるか分からない。
いい加減にして欲しいものだ……海斗はうんざりした表情になりながら、彼らを刺激しないように目を逸らし、足を早めた。
「おい瑠璃子、いるか?」
廃工場の中に入り、声をかける海斗。しかし、返事はない。
「瑠璃子、いないのか?」
海斗はもう一度、声をかけてみた。だが、返事はない。
どこかに出かけているのだろうか。海斗は不安になり、ポケットから懐中電灯を取り出した。だが、その時――
「あたしなら、ここにいるよ」
姿を現した瑠璃子。その表情は、心なしか昨日より明るいように見える。海斗は笑みを浮かべた。
「何だよ、いるなら早く返事してくれ」
「心配した?」
からかうような口調で瑠璃子は尋ねてきた。その顔には、いたずらっ子のような表情を浮かべている。海斗はホッとした。どうやら、今まで彼女の心を悩ませていた問題が解決したらしい。
「ああ心配したよ。お前は知らないだろうがな、近頃はこの辺りで、ヤクザ同士が揉めてんだよ」
「あたしは、ヤクザなんか怖くないよ」
瑠璃子の言葉に、海斗は苦笑した。
「それもそうだな。ただ、一応は頭の中に入れといてくれよ。昼間なんか、ヤクザ同士が乱闘してたんだぜ」
「そう、あんたも大変だね」
そう言うと、不意に瑠璃子は近づいて来て、海斗の手を握る。
「ねえ、たまには外に出ない?」
「えっ?」
海斗は驚いた。ここ最近、瑠璃子は外に出ることすら嫌がっていたのに。
だが、瑠璃子はお構い無しだ。
「いいから、たまには外を歩こうよ」
二人は、廃工場の外に出た。雑草が伸び放題になっている敷地に、並んで腰かける。空には星が輝き、綺麗な満月が浮かんでいる。
「星、綺麗だね」
不意に、瑠璃子が呟くように行った。
「ああ、綺麗だよな。でも、瑠璃子も負けないくらい綺麗だぜ」
歯の浮くような言葉を返す海斗。だが、瑠璃子はニコリともしなかった。
「不思議だよね。あたし、星を見ても何ともないんだよ」
「えっ? 何いってんだよ?」
訝しげな表情で、瑠璃子を見つめる海斗。
すると、彼女は笑って見せる……とても悲しげな笑顔だった。
「太陽だって星なんだよ。他の星を見ても何ともないのに、太陽を見続けたら死ぬ……こんなの、ひどいよね。そう思わない?」
瑠璃子の口調は淡々としていた。だが奥底に秘められた悲しみは、海斗などには想像もつかないものだ。
海斗は何も言えず、下を向いた。一方、瑠璃子はさらに言葉を続ける。
「もう一度、お日さま見てみたいな。あたし、決めてるんだよ。死ぬ時は、海岸で昇ってくるお日さまを見ながらだって――」
その瞬間、海斗は背後から瑠璃子を抱き締めた。
「そんなこと、言わないでくれ。俺は、お前に死なれたら困るんだよ」
「海斗、離れないとブッ飛ばすよ」
「やりたきゃやれ」
海斗がそう言った瞬間、彼の体が宙を舞った。直後、草むらに背中から落ちる。瑠璃子が、片手で海斗を放り投げたのだ。
「痛えな……本当にブッ飛ばすことねえだろ」
・・・
その頃、沢田組の幹部である藤原昭義はボディーガードを連れて繁華街を徘徊していた。
馴染みのスナックを出た後、ほろ酔い気分で二人は裏通りを歩く。この辺りは沢田組の縄張りだ。何も心配することなどない。
そんな二人に、後ろから声をかける者がいる。
「すみません、藤原昭義さんですよね?」
「ああ? だったらどうしたってんだよ?」
言いながら、振り向く藤原。隣にいたボディーガードも、つられて振り返る。
そこに居たのは、奇妙な風体の者だった。黒い目出し帽を被り黒い革のジャンパーを着て、じっと藤原を見つめている。ボディーガードは血相を変え、慌てて藤原の前に出る。
だが遅かった。相手は既に、懐から拳銃を抜いている。
そして、轟く銃声――
一発の銃弾が、藤原の眉間に撃ち込まれる。さらに、ボディーガードの頭にも撃ち込まれた。
藤原とボディーガードは、何が起きたのかすら理解できぬうちに絶命した。一方、襲撃犯の行動にはいっさいの迷いがない。その場から、音もなく姿を消してしまった。今や、影も形も見えない。
その直後に、銃声を聞きつけた者たちが集まってきた。さらに数分後には、救急車やパトカーが急行する――
この殺人事件は、始まりの始まりだった。
その後、真幌市を襲うことになる数々の血塗られた惨劇……その、ほんの序章でしかなかったのだ。