真相の唄
その夜、真幌市は狂乱の都と化していた。
真夜中であるにも関わらず、町中をパトカーと救急車が走り回り、派手なサイレンが鳴り響く。警官や救急隊員やマスコミ関係者があちこち走り回り、さらには大勢の野次馬たちが町中を徘徊し、さながら大規模なイベント会場の中にいるかのようであった。実のところ、皆この突然の事態に驚愕し、ただただ戸惑っていたのだが。
もっとも、それも当然であろう。日本の犯罪史上、類を見ない凶悪かつ不可解な事件が、この真幌市で起きてしまったのだから。
報道によれば、日本でも五本の指に入る暴力団である沢田組と士想会……その両団体の幹部が、それぞれの組員を率いて巨大倉庫にて対峙し交渉した。
しかし交渉は決裂し、挙げ句に拳銃やショットガンなどをぶっ放して殺し合いを始め、最終的に居合わせた百名近い組員がみな死亡したのだ。
しかも、現場は戦場のごとき有り様であった。殺人現場や死体を見慣れていたベテラン刑事ですら、思わず顔をしかめて目を逸らしてしまうほどに。大勢の人間が肉片と化し、あちこちに転がっているのだ。五体が揃った状態の死体は半分もない。若く現場の経験が少ない警官の中には、あまりに凄惨な光景を前に、その場で吐いてしまう者もいた。それも、一人や二人ではない。
死体の処理に駆り出された警官の数もまた、日本の犯罪史上最多であった。マスコミは連日、この事件を報道し……さらには、他国の主要なニュース番組のスタッフたちも、連日のように真幌市を訪れる有り様であった。
平和な国であったはずの日本。「平和ボケ」と揶揄される事もあった日本人だが、この事件がきっかけとなり、世界中の人々に「日本の安全神話」が揺らいでいる事実を知らしめることとなってしまった。しかし皮肉にも、各国からマスコミが訪れたお陰で、真幌市の景気は良くなったのだ。
後から判明した事であるが、沢田組と士想会の動きを見張っていた警官たちは全員、何者かに気絶させらされていたのだった。しかし、その事実を知っているのは警察の上層部と現場の人間たちだけである。即座に箝口令が敷かれ……その事実を知る者は、現在では僅かしかいない。
その頃『ちびっこの家』では……。
「か、海斗くん!? 君、どうしたんだ!?」
驚愕の表情を浮かべ、後藤は叫んでいた。
彼の目の前には、海斗がいる。上半身は裸で、汚いズボンを穿いただけの格好である。片手には、カバンをぶら下げていた。明らかに、普通ではない風体である。
だが、さらに異様な点があった。海斗の体は、水を被ったかのようにびしょ濡れなのだ。まるで、大急ぎで体を洗ったかのように。
「海斗くん、何があったか知らないが、まずは体を拭こう。濡れたままだと風邪ひくよ」
戸惑いながらも、海斗の手を引こうとする後藤。しかし、海斗はその手を払いのけた。
「俺に触らないでください……」
海斗の声は低く、凄みに満ちている。後藤は得体の知れない何かを感じ、慌てて飛び退いた。
すると、海斗はカバンから何かを取り出す。
それは、札束だった。
「あちこちから、かき集めてきました。これ、使ってください」
「えっ? このお金、一体どうしたの?」
唖然とした様子で尋ねる後藤。だが、海斗はかぶりを振る。
「あなたは知らない方がいいです。知る必要もありません。それに、俺はこの町を離れますから。お世話になりました」
そう言って、海斗は深々と頭を下げる。後藤はあまりに急な展開を前に、何も言えずに目を白黒させているだけだ。
「もう、会うこともないでしょうが、元気でいてください。あと、その金で今日子と明日菜の墓に、花束を供えてあげてください」
その言葉の後、海斗は頭を上げた。そして後藤に背中を向け、ゆっくりと歩いて行く。まるで、別れを惜しんでいるかのように。
だが、その時――
「かいとおぉぉ!」
声と同時に、海斗の前に現れた者がいた。
健太郎だ。
「かいとお! 行かないでよぉ! 行っちゃ嫌だ!」
叫びながら、必死の形相でしがみつく健太郎。だが、海斗はあっさりと突き放した。
「健太郎、俺は旅に出るんだよ。もう、ここにはいられないんだ」
「何でだよ!? 何で行くんだよ! 理由を教えてくれよお!」
なおも海斗にしがみついて行き、必死に訴えかける健太郎……海斗は、そんな彼をじっと見下ろした。
「じゃあ、教えてやる。何で、俺が旅に出なきゃならないのかを」
海斗は語り始めた。この真幌市で起きた世にも奇怪な事件、その真相を――
・・・
「率直に言って、信じられない話ですね。出来の悪い三流ホラー小説みたいですよ」
高岡健太郎の長い話を聞き終えて、天田士郎は正直な感想を洩らす。いつの間にか陽は沈み、窓から見える風景は暗い。士郎は冷えきったコーヒーに口を付けた。
「私は聞いたままを話したまでです。正直に言うと、多少は私の想像で補完した部分はありますが」
そう応える高岡の表情は和んでいる。士郎に話をしたことで、本人の中にあるつかえを吐き出せたのかもしれない。
誰も信じないであろう話を、己の胸の中だけに止めていた事によるつかえ。それを今、ようやく他人に吐き出せたのだ。今の高岡からは、どこかホッとした雰囲気が感じられた。
「まあ、警察の発表よりは信憑性はありますね。二匹の吸血鬼が、百人近いヤクザを皆殺しにした……その方が、まだマシな結論ではあります。ただ、オカルト系の雑誌でも、このネタは買ってくれないでしょうがね」
そう言うと、士郎は封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。
「これは取材に協力していただいた謝礼です。どうぞ、受け取ってください」
「えっ?」
「こんな時代に、孤児院を経営していくのは大変でしょう。大した額じゃありませんが、受け取ってください」
言いながら、士郎は立ち上がった。高岡の手に封筒を握らせると、その場を去って行く。
高岡は、封筒の中を覗いた。途端に目が丸くなる。百万円の札束が、三つ入っていたのだ。
「な、何ですかこれ!? こんな金額、受け取れないですよ!」
慌てて立ち上がる高岡。すると、入口にいた士郎は振り向いた。
「でしたら、宮田今日子さんと宮田明日菜さん、それに小林昭一さんの墓に花束を供えてあげてください」
喫茶店を出た後、士郎はゆっくりと町を歩いていた。辺りは既に暗くなっており、空には星が出ている。
高岡の話は、非常に長かった。だが話し終えた後、彼はまるで憑き物が落ちたかのように安らかな表情を浮かべていた。
誰にも言うことが出来ず、一人で抱え込んでいた秘密。それは、単なるつかえ以上のものだったのだろう。一種の呪縛と言えるようなものになっていたのかもしれない。しかし今、高岡はようやく呪縛から解放されたのだ。
そんな事を考えながら、士郎は歩き続ける。閑静な住宅地を、のんびりと進んで行く。まだ十時だというのに、人通りはほとんど無い。
やがて、前方に公園が見えて来た。士郎は迷うことなく、公園へと入って行った。
その公園は緑に覆われており、あちこちに大きな木も植えられている。さらに公園の真ん中には、巨大な池があった。池を挟んだ向こう側には、砂場やブランコなどの遊具が設置されている場所がある。
だが、士郎はそちらには行かなかった。入り口の近くに設置されていたベンチに腰かける。
そして、夜空に向かい問いかけた。
「なあ、いつまで付いて来る気だ?」
すると、木の陰からのっそりと姿を現した男がいた。年齢は二十代半ばだろうか。端正な顔立ちと青白い肌、肩まで伸びた黒髪が印象的である。背はさほど高くなく、細身の体を黒い革のコートで覆っていた。
男は、士郎の座っているベンチから五メートルほど離れた位置で立ち止まり、冷たい目で士郎をじっと見つめている。
「あんたは、探偵ストーリーの宮藤俊作スタイルかと思ってたんだが、ちょいと好みが変わったようだな。一昔前のバンドマンみたいだぜ」
男に向かい軽口を叩く士郎。だが、脇にはじんわりと汗をかいている。士郎は理解していた。目の前に現れた男こそ、高岡が話していた有田海斗に間違いないのだ。
一方、海斗は黙ったまま、こちらを見ていた。だが次の瞬間、一気に跳躍する――
直後、士郎の背後へと降り立った。五メートルの距離を、助走もなく一瞬で飛び越えたのだ。
さらに海斗は、士郎の耳元に顔を寄せる。
「いいか……あの金に免じて、命だけは助けてやる。だがな、もう健太郎と孤児院には関わるんじゃねえ。いいな?」
「ああ、大丈夫だよ。もう関わらないから安心するよう言っといてくれ」
士郎は、軽い口調で答えた。しかし、額にも汗がにじんでいる。
「それは賢明だ。で、お前は何が目的なんだ? ルポライターなんて嘘だろう。お前からは、血の匂いがする」
「バレちゃあ仕方ねえな。ちょっと、あんたに情報を持ってきたんだよ」
「情報だと?」
「ああ、それもとびっきりの極秘情報だ。それを教えに来たんだよ。だからさ、とりあえず、ここに座ってくれよ。そこに居られたら、ビビって小便漏らすかもしれねえから」
言いながら、士郎は自分の座っているベンチを手で叩いた。
すると、海斗は瞬時に移動した。音も立てずに、一瞬で士郎の隣に移動したのだ。士郎は思わず苦笑していた。
「凄い奴だな」
「そんなことより、情報ってのは何だ?」
そう言うと、海斗はじっと見つめてきた。妙に澄んだ瞳だ、と士郎は思った。俗世間から離れて生活しているせいか、あるいは吸血鬼ゆえか。
「あんたは、あの事件において極めて重要な役割を果たした人物を二人、討ち漏らしている。その事を知っているのか?」
士郎のその言葉を聞いた途端、海斗の表情が一変した。目付きが鋭くなり、口元も歪んでいる。
「どういう事だ? まさか浦川か?」
「違う違う。浦川はあの事件に関しては、何の役割も果たしてない。あいつを逃したのは正解だよ」
「じゃあ、他に誰がいたんだ?」
「まず一人は、平田銀士だ。もっとも、あんたはこの名前に聞き覚えはないだろうさ。あの件が始まってから、いきなり真幌市に派遣された組員だからね。当時、十八歳くらいだったかな。その平田が、ダンプカーを手配したんだよ。あの最悪のタイミングでね。その後、平田は庄野の指示で組長のところに報告に行った。そのため、平田はあんたに殺されずに済んだのさ。運のいい男だよ」
その話を聞いた途端、海斗の瞳が紅く光った。
「そいつは今、どこにいる?」
「まあ、落ち着きなよ。その平田は瞬く間に出世し、沢田組の組長を殺して組を乗っ取ったのさ……ところが、だ。その後、平田はとある事件に巻き込まれて死んだよ。こいつにリベンジするには、あんたも地獄に逝かなきゃ無理だろうな。地獄ってのが実在すれば、の話だが」
軽い口調で言った士郎。だが、その表情は硬直した。鋭く尖る何かが、士郎の喉に当てられているのだ。
それは、海斗の手から伸びた鉤爪だった。
「お前、そんな下らねえことを教えるために――」
「おいおい待て、落ち着けってばよう。あと、もう一人いるんだよ。あの事件の、本当の黒幕がな」
「本当の黒幕?」
「そうさ。思い出してみてくれよ、沢田組と士想会が戦争を始めたきっかけが何だったのか」
「そ、それは……」
海斗の口調が変わる。と同時に、喉に突きつけられた鉤爪も引っ込められた。一方、士郎はほっとした表情で口を開く。
「あんたも、当時の事情は知ってるだろう。始まりはどっかのバカが、沢田組の幹部の藤原とボディーガードを射殺したことだ」
士郎はそこで言葉を止め、海斗の表情を窺う。しかし、海斗は完全に混乱しきっているような様子であった。下を向き、黙ったままじっとしている。先ほどまでの、怪物めいた雰囲気――事実、怪物なのだが――が消え去っていた。
ややあって、士郎は言葉を続ける。
「藤原が殺られた翌日、今度は士想会の幹部である橋田が、ボディーガードもろともショットガンで殺られた。で、そこから抗争状態に入り武闘派の庄野がやって来た訳だが……おかしいと思わないか? あまりにもタイミングが良すぎる。誰が殺ったかも判明してないのに、いきなりショットガンで報復だぜ。そもそも、最初の殺しだって変だ。藤原を殺しても、当時の士想会には何のメリットもなかった」
「ああ、確かにな」
答える海斗。だが、その言葉には力が無い。未だに動揺から覚めていないようだ。
「そこで俺は、当時の事件を洗い直した。あちこちの情報網を使い、金をバラ撒き徹底的に調べ……その結果、一人の男が浮かび上がったのさ。あの抗争を引き起こした挙げ句、何事もなかったような面でのうのうと生きてる奴がね。そいつこそが、諸悪の根源さ」
そう言って、士郎はニヤリと笑う。
「そいつは今、どこにいるんだ?」
低い声で尋ねる海斗。その表情は、再び怪物のそれへと変わっていた。