第08話 夜の街。BARで食べるオムライス (前編)
「ありゃ、閉まってやがる」
目の前に掛けられている「close」の看板を見つめて、俺は声を上げた。ちらりとドアの向こうに耳を澄ましてみるが、掛け間違いなどでもなさそうだ。
シーンとしている店内へと続く扉を見つめて、俺はがしがしと頭を掻いた。
今日は外での仕事が長引いた。腕時計を見れば、すでに零時を回っている。ふぅと肩に掛かるスーツの重みに、思わずため息が出てしまう。
久しぶりに好きなBARで一杯といきたかったが、今夜はタイミングが悪いらしい。しかし、ここまで来てタクシーに右手を挙げるというのも寂しすぎる。
俺は、ひとまず歩くかと夜の街を進み始めた。
・・・ ・・・ ・・・
「おっ、いい感じじゃないか」
数分歩いた先で、ひっそりとした地下に続く階段が目に止まる。階段脇の看板をちらりと確認して、俺はまぁここでいいかと一段目へと足を踏み入れた。
一段ずつ薄暗くなっていく。夜の街でそういうのを感じるのも変な話だが、それだけ今の世の中光が溢れているということだ。
降りた先の扉。その傍らにランプがぼんやりと灯っているのを見届けて、俺はぎぃと扉を開いた。
「へぇ」
中々いい雰囲気だ。シックというのだろうか。軽いジャズが流れる店内は、ほどよい静けさと明るさが混在していた。
にこりと笑みを浮かべるマスターと目を合わせ、俺はカウンターへと足を向ける。
「いらっしゃいませ。どうぞ」
席に座った俺に、マスターが一冊の手帳を差し出した。革張りの、重厚な見た目だ。妙に高級感があるその手帳を、俺はぺらりとめくっていく。
「へぇ」
本日二回目の呟き。どうやら手帳はメニューのようだ。一ページ毎に、カクテルの写真。度数や割り方なんかも軽く書いてくれている。
「こりゃいいね」
見た目にも華やかなカクテルは、見ているだけで心が躍る。しかし、男一人でカクテルっていうのもなぁと、俺はぺらぺらとページをめくり続けた。
「やっぱ、ここらへんが無難かね」
ウィスキーのページ。値段も下の方にさりげなく書かれていて、色々と安心できる。ここは店内の雰囲気で一杯やるのもいいだろう。
「このウィスキー、ロックで」
写真を指さし、それにマスターが微笑む。髭が生えたおじさまだが、妙に愛嬌のある人だ。俺は深めに腰を下ろして、ちらりと店内に目をやった。
客は、自分を合わせて三人。カウンターの端の席に、えらい美人が座っている。赤いドレスじみたワンピースに、これまた赤のピンヒール。ただ、あの仏頂面だ。危うきに近寄らず、声をかける男はいないだろう。
後は俺の後ろのソファー席で、生きてるのか死んでいるのか分からない爺様が、帽子を被って座っていた。見やると、テーブルの上のウィスキーはすでにロックの氷が溶けきっている。……本当に微動だにしない。やはり死んでいる。
「どうぞ」
爺様をさりげなく心配していると、グラスがことりとテーブルに置かれた。それに視線を戻し、俺はゆっくりと口につける。
「美味いな」
思わず呟いた。正直なところ、ウィスキーの味などよく分からん。しかし、こういう店で飲む酒はいいものだ。実際に美味く感じているのだから、これ以上確かなことなど何もない。
「さて……」
ぺらりと、手帳の後半を俺は見やる。つまみだ。ここまではゆっくりと過ごしたが、酒に肴が無いなど考えられん。
「……オムライス。いやいや、よく考えろ」
ふと、黄色に輝くオムライスに目が止まる。しかし、流石にこれはないと首を振った。
締めならまだしも、いきなりここでオムライス。さしもの俺も、いや流石にとページを送る。
バターピーナッツ。チーズの盛り合わせ。チェダーチーズと生ハムのサンドイッチ。……オムライス。
「うーむ、いかん。どうも思考が腹に流れる」
個人的には、こういうときは腹に流れるか舌に流れるかが重要だと思う。そして、一度腹に流れてしまった意識は止まらない。
「……お勧めのおつまみ、あります?」
もう、仕方がない。ここは戦略的撤退だ。このままだと収集が付かなくなる。マスターに任せてしまおう。
「そうですね。サラミはお好きですか?」
「ああ、いいね。それ貰おうか」
マスターの微笑みに、俺はそれだと小さく声を上げた。素晴らしい。ベストチョイスだ。
簡単なもんで行くのがいいなと、俺はぺらりとページを見つめる。なるほど。確かに後ろの方にサラミという文字が座っていた。
写真がなく、摘みのページはひとまとめだ。まぁ、ピーナッツやらの写真を見てもしょうがないことはしょうがないが。こうなるとやはり、先ほどのオムライスはお勧め品なのだろうか。
「……オムライス」
再びページを見つめる。とろりと溶けた、半熟のオムライスだ。これはあれだな、チキンライスの上の卵を包丁で開くタイプだ。一度テレビで見たことがあるが、そういえば開くとこを実際に見たことはない。
とろっとしてるに違いない。こんな見た目なんだ。してないと詐欺だ。
中身は何だろう。デミグラスがかかっていないし、やはりチキンライスだろうか。
「憎らしい奴め」
ここが洋食屋なら、見た瞬間オーダーをかけているところだ。何だかんだで自分は、こういうところ小心者だよなと息をつく。
別に、いいじゃないか。メニューにあるんだ。オムライス頼んでも。
しかし、そんな考えをぐびりと舌に触れるウィスキーが洗い流す。ちびちびと、何で俺はこんなものを。いっそのこと、カシスオレンジでも頼めばよかったか。そうすれば、気軽にオムライスも頼めた気がする。
何でこんなところでも男って格好つけたがるんだと、俺は自分のことながら眉を寄せた。バーでオムライスを頼んで、俺の一体何が下がるというのだろう。
「サラミです」
かたんと、思案する俺の前に皿が置かれる。続けて耳に入った小さな音に、俺はテーブルの上を見つめた。
「……これは?」
「レモン塩です」
サラミの皿の横に置かれた、白い小皿。確かに、仄かに柑橘の香りが鼻に飛び込んでくる。
見てみると、かなりの量の塩だ。レモン汁に塩を入れたというよりも、塩の山にレモンを染み込ませたような、そんな感じ。
付けて食べればいいのかなと、俺はサラミをぺちょんと付ける。水分もあるためか、かなりの量がくっついた。付けすぎたかと思うが、まぁいいやとそのまま口に運ぶ。
「……おっ。……へぇ」
口に、塩とレモンの味が広がった。続いて、しっかりとした肉の旨み。素直に美味い。そして、ぐびっとグラスに口を付ける。
「ほ、ほほぉ」
ウィスキーが口に入ってきた瞬間、思わず頬がにやけてしまった。かなりの衝撃だ。
「いかがですか?」
「いや、美味いですね。ちょっとびっくりしました」
俺の返答に、マスターがにっこりと微笑む。ありがとうございますと、ご満悦だ。
しかしと、俺はグラスを見つめる。ウィスキーの重さとキツさを、全く感じなかった。
「……これは、やばいつまみだな」
ちょいと再びつけて、ぱくりとくわえる。……ふむ。あまり付けすぎない方が美味い気がする。そして、ぐびり。
「ん、ふぅーむ。……ふふ」
いい。いいじゃないか。これは大ヒットだ。正直、ここまで美味いウィスキーは初めて飲んだ。やはり酒はつまみも大事だ。
「そうなると、頼まなければなりませんね」
手帳を掴む。このマスター、信用できる。もう無理だ。このマスターの料理を食べないで帰ったら、寝覚めが悪い。二日酔いどころの騒ぎではないだろう。
順々に攻めてやる。オムライス、貴様は最後に取っておいてやろう。
そう心の中で呟いて、俺は優雅に手帳のページをめくり始めた。