第17話 酷使した日に。大盛りのうにいくら丼
『少し肉が付いてきたな』
腹を摘みながら、ふぅむと眉を寄せたのが数日前。
俺は、休日の昼空の下を頷きながら歩いていた。
「シューズも、買った。ウェアも、買った。うむ、完璧だな」
先ほど購入したトレーニング用品を確認しながら、俺はよしよしと手提げを揺らす。
ダイエット……というわけではないが、軽いジョギングでも始めようと思い立ち、こうして色々と買い込んでみたわけだ。
形から入るのもどうかと思うが、家の中でやるわけでない以上、それなりの形式は大切だろう。気に入った形のシューズを見つけられて幸いだった。
家に帰って着替えたら、さっそく走りに繰り出そう。そう思いつつ、俺は軽い足取りで自宅へと進んでいく。
「おっ、噂をすれば」
途中、ジョギングに勤しんでいる人とすれ違った。夫婦だろうか。揃いのウェアで、健康的に汗を流している。
「おっ、また」
よくよく見れば、街の中は歩いたり走ったりしている人たちで溢れていた。今までそんなに気にしていなかったが、こうして注意すればかなりの割合ですれ違う。
ちょうど、この辺りがジョギングコースとして人気なのだろう。そういえば、近くに大きな公園もあったなと、俺は普段の生活とは無縁の緑地を思い出した。
「しかし……」
気になる。先ほどから目に付く人たちが、皆誰かと一緒に走っている。
ジョギングくらい一人で走ればいいと思うが、やけに夫婦やカップルが目立つ。そうでなければ、五人ほどで走っている人たちも。先頭を走っているのは、ジムのインストラクターだろうか。
「うーむ」
一人で走っている人も居るには居るが、なんというか本気度が違う。心拍かなにかを測りながら走っているような、そんな本気度だ。
気にしすぎだろうか。おっさんが一人、しかも初心者が一人で走っていては変ではないだろうか。
そういえば、あまり深く考えずにシューズもウェアも買ってしまった。ジョギングとウォーキングで仕様が違ったらどうしよう。上級者の方から見たら、変な格好をしているかもしれない。
二人なら笑い話で済むが、一人で間違った格好で走っていたら……。
俺は、眉を寄せたまま残りの帰路に着いた。
◆ ◆ ◆
「はぁ!? そんなことであたしを呼んだのかよ!? 信じらんねぇ!」
目を見開いて叫ぶリリスを見やりながら、俺は姿見の前でウェアの様子を確かめていた。うむ、やはり悪くない。
「まぁそう言うな。帰りに飯も食うから。ほら、さっさと着替えろ。そんなフリフリした格好でジョギング出来ると思っているのか」
「信じらんねぇ! マジ信じらんねぇ!」
ぶつくさと文句を言っているリリスの肩を、俺はポンと叩いてやる。
とりあえず、こいつに走ってもらわないことには始まらない。こっちはシューズとウェアも揃えてしまったのだ。
「お前も食ってるだけじゃなくて、たまには動け。太るぞ」
「ありえねー。サキュバス舐めんなよ。運動なんかしなくても、いつだってナイスバディだっつーの」
目を細めるリリスに、俺はぶっと噴き出してしまう。確かにリリスは美少女だが、ナイスバディには程遠い。
「まぁ、趣味は人それぞれだからな」
「さすがのあたしもそろそろ怒るかんな? しまいにゃ精気抜くぞ」
珍しく青筋を立てて怒りを表すリリス。おかしい、何をこいつはこんなに怒っているのだろう。
とはいえ、リリスも半ば諦めたようだ。俺のウェアをじっと見つめて、ぱちんと指を宙で鳴らした。
途端、リリスのゴスロリが光と共に解け、代わりにピンク色のジャージに身を包んだリリスが現れる。
ところどころフリルと髑髏のアップリケが付いたウェアは奇妙だが、まぁ似合っていないこともない。
「おお、相変わらず便利だな」
「今回だけだかんな。あたしはあくまで、あんたと飯食うために出てきてるんだから」
呆れたように眉を寄せながら、リリスがまったくと腰に手を当てた。それにありがたいと微笑んで、俺はウェストポーチに財布を仕舞う。
「よし、いっちょやったろうじゃないか」
これで憂いは何もない。意気揚々と玄関に向かう俺を、リリスが溜め息を吐きながら付いてくるのだった。
◆ ◆ ◆
「あーもうだめだ。限界。もう無理だ」
「はあああああああっ!?」
朦朧とする意識の中、リリスの声が頭に響く。大きい声を出すな、ガンガンして気持ちが悪い。
「まだ二〇分も経ってねぇぞ!? あんたが走ろうって言いだしたんだろっ!?」
「いやぁ、頑張った。結構頑張った。割と頑張っただろこれ」
ふらふらとする足を止め、ぜぇぜぇと息を吸い込む。
どれくらい走っただろうか。一〇キロくらいは走った気がする。いや、走ったな。これは走った。走ってるだろこれは。
「だいぶ走ったな」
「走ってねぇよ!? あたしなんて汗一つかいてねぇぞ!?」
元気ハツラツをアピールしてくるリリスは、確かに息ひとつ乱していない。化け物だ。やはり悪魔ということだろう。油断してはいけない。
「魔力ってのは凄いもんだな。不可能を可能にする」
「いや、普通に筋力で走ってただけだよ。てか、あんたがひ弱すぎるんだよ。一応あんただって雄だろ? しっかりしろよ」
幻滅した視線を送ってくるリリスだが、こればかりは仕方がない。基本、俺の仕事はデスクワークなのだ。走るなんて行為、もう何年も取っていなかった。
ようやく呼吸が正常に戻ってきて、俺は一度深呼吸をする。
「なにごとも無茶はいかんな。初日にしてはよくやった。今日はここまで」
「もう二度と付き合わないからな、あたしは」
ぶくっと膨れるリリスを、まぁそう言うなと宥めつつ、俺は元気よく伸びをする。
心臓と筋肉は酷使したが、心地よい疲れだ。たまには身体も動かさないといけない。
つまり何が言いたいかというと……。
「運動したら腹が減ったな。なにか食おう」
ぽつりと呟いた俺に、リリスの呆れ顔が深くなる。言わんとしていることは分かるが、腹が減ってしまったものは仕方がない。
運動し、食事をする。これが健康というものだ。
「まぁ、あたしも飯食えるってんなら文句はねーけどな。今日はなに食うんだ?」
「それなんだがな。行ってみたい店を見繕ってたんだ。確かこの辺りだったはずだ。この際だし行ってみよう」
スマホを片手に、俺は目当ての店を検索する。以前、同僚が美味かったと言っていた店だ。行こう行こうと思って、すっかり忘れてしまっていた。
家から近い気もするが、走って二〇分はそれなりの距離である。これを機会に行っておかないと、二度と行くことはないかもしれない。
「よし! じゃあ、もう一踏ん張りだな。頑張ろうぜ!」
ルートを確認し、スマホをポケットに仕舞い込む。なにやら足踏みを始めたリリスに、俺はなにをやってるんだと眉をひそめた。
「なにを言ってるんだ。タクシーで行くに決まっているだろう」
今日はもう疲れた。どうせ短距離だし、運賃もそんなにかからないだろう。
リリスの珍獣でも見つめるような顔を無視しつつ、俺はタイミングよく走ってきたタクシーに右手をあげるのだった。
◆ ◆ ◆
「ほう、思ったよりは綺麗な店だな」
小綺麗な店構えを見やって、俺は引き戸を大きく開けた。ガラガラと音が鳴り、それを聞いた店員の挨拶が聞こえてくる。
「らっしゃい。二名様で?」
「ああ、出来ればテーブル席を」
時間がずれているからだろうか、店内の客は少ない。格好も格好だし、奥に座らせてもらうとしよう。
ランニングウェアの俺たちをちらりと見ながら、店員は俺たちを奥のテーブルへと案内した。
こういうとき、リリスがいてくれるのは助かる。この格好で一人、店に入る勇気はないからな。
「なんの店なんだここー?」
「ふふ、潔いぞ。このメニューを見るがいい」
リリスに、メニュー表を見せつける。しかし文字だらけのメニューに、リリスはイラっと眉を寄せた。
「ははは、そう怒るな。ここはな、メニューが三つしかないんだ」
「三つだけなのか?」
文字を追いながら、俺はうんうんと頷いていく。潔し。素晴らしい文字の並びだ。
「いくら丼とうに丼。あと、うにいくら丼があるがどうする?」
俺の言葉に、リリスがぽかんと口を開ける。ちなみに、大盛りもあるので正確には六種類だ。
「まぁ、ここはうにいくら丼だろうな。大盛り二つ」
なにはともあれ、今は飯だ。せっかくだしと、俺は二つの具が乗ったハイブリットを注文した。
◆ ◆ ◆
「うめぇー!」
リリスの叫びを聞いて、俺は少々安堵した。
まったく考えなしに入ったが、うにとイクラは苦手な人も多い。リリスが食べれてよかったと、今更ながらに胸をなで下ろす。
「うめぇわこれ。変な味だけど」
「あー、まぁ変わってるよな」
そういえば、イクラは回転寿司で食っていたか。そんなことを思い出しつつ、俺も自分の丼へと手をつける。
「ふむ、素晴らしいな」
まず見た目がよい。うにとイクラ。それらがこんもりと盛られているだけで心が躍る。
寿司では味わえない暴力といったところか。これだけの量のうには、ちょっとシャリには乗せられない。
「さて、どちらから行きますかね」
うにとイクラ。逃げも隠れもしないが、少々悩むところだ。最初のひとくちは……。
「やっぱうにでしょうよ」
確定。これは確定だろう。箸で飯ごと持ち上げ、口へと運ぶ。
独特な磯の香りが鼻孔をくすぐり、そして舌の上に奴が舞い込んだ。
「お、おほぉ」
これは、きた。確定。間に合った形だ。
舌の上を、ねっとりととろける……うに。柔らかいとかではない。こう、ねっとりだ。
「美味い」
そして、しみじみと感じる旨味。独特の味だ。甘いとも苦いとも、なんとも言い難いうにの味。俺は好きだ。唯一無二と言える。
「海苔もいい」
飯とうにの間の海苔も良い感じだ。磯らしさを足してくれていて、ほんのりと香ばしい。
飯も、冷たすぎない酢飯。酢の案配も絶妙だ。
「うめぇうめぇ。スシよりもどかんと食えていいな!」
笑顔を周りに振りまきながら、リリスが米粒を飛ばしてくる。なぜか鼻にまで付いてしまっているが、しかしこいつはいいことを言った。
どかんと食える。がつんとかき込める。それが丼の良さだ。
寿司はやはり上品な食い物。しかし、どうだ。俺は忘れていたのではないか。
うにとイクラという響きに、上品さを醸し出していた気がする。なんたる失態。
「まさか、お前に教えられるとはな」
「……んあ?」
間抜け面のリリスに感謝しつつ、俺は丼を持ち上げた。
うにといえど、イクラといえど、ドンブリはドンブリ。遠慮することなど、なにもない。
「いただきます」
呟いて、俺は飯をかき込んだ。
うにとイクラ。そして飯が同時に口の中に飛び込んでくる。
「む、むむぅっ!?」
これは……美味いっ! うにの風味、そしてぷちぷちと弾けるイクラの食感。
弾け、その瞬間に口の中にイクラの味が広がっていく。可能性の味だ。魚卵が持つ、生命の味が広がる。
当たり前だが、醤油に合う。かすかに効いたわさびが鼻を抜け、俺はくぅーっと額を叩いた。
「美味いっ!」
叫んだ後、次の飯をすかさず喰らう。
「なー、うまいなー」
「ああ。美味いなっ」
鼻に米粒が付くのも分かるというものだ。喰らえ。上品な必要などどこにもない。
うにとイクラが思った以上に飯に合う。合うこと自体は知っていたが、同時に食ったらより美味いとは。
うにいくら丼にして正解だった。どちらかしか乗っていなかったら、後半苦しくなっていた可能性もある。
それくらい、どちらも暴力的な味をしている。
身体にいいかは置いておこう。こんなに美味いんだ、悪いはずがない。
「いくらうまいなー。ぷちぷちしてる」
「ははっ、そうだな。いいイクラだ」
ぷちっというよりは、ぷちんって感じだ。弾けかたに強さがある。この食感は、イクラ以外では中々味わえない。
魚卵全般が苦手な人は多いが、イクラだけでも好きになって欲しいところだ。間違いなく美味いから。
「うにとイクラの組み合わせは最高だな」
「ふいふい」
もぐもぐと頷くリリスに、俺も思わず笑みが浮かぶ。
うにとイクラのクリームスパゲッティなんかもそうだが、うにとイクラ自体の相性がいい。なんだろう、併せたときの味が完成形みたいな。
そういえば、寿司ではうにとイクラが同時に乗っているのは見たことがない。美味いと思うのだが、どうだろうか。
「ふぅー、くったくった。うまかった」
ぽんと腹を叩きながら、リリスがにかりと笑みを浮かべる。行儀は悪いが、これで絵になるのだから美人は得だ。
「っと、俺も食ったな。ふぃー」
腹をさする俺を、リリスがけたけたと笑い飛ばす。アラサーのおっさんが腹を撫でる姿は、特に絵にはならないらしい。残念なことだ。
「……ふぅ。食ったなぁ」
なんだか、食べたら眠くなってきてしまった。慣れない運動もしたことだし、余計眠い。
タクシーで帰ったら、久しぶりに昼寝でもしよう。夕方になりそうだが、このさい時間はどうでもいい。
「ふぁあ」
健康的な欠伸をしている俺を、心底呆れたようにリリスが見つめる。
言いたいことは分かるが、仕方がない。
人生のコツは、無理をしないこと。
ダイエットの初日は、丼でも食って、昼寝をする。
それくらいで、ちょうどよいのだ。
お読みいただきありがとうございました。
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