第16話 駆け下りた先で。安納芋の石焼きいも
小腹が空いていた。
腹はいつも空いているわけだが、今日はちょっといつもと違う。
小腹が、空いていた。
「ふむ……」
パソコンの画面から目を離し、椅子の背に体重を預ける。
壁の時計を見れば午後三時。これでもかっていうくらいにおひる時だ。
少しだけ仕事に使う資料を整理しようと思ったが、休日にも関わらず没頭しすぎたようだ。昼を食べてからもう三時間も経っている。
「よし、終わるか」
これ以上は際限がなくなりそうだ。せっかくの休日だし、ここいらで休みを堪能したいところである。
ひとまず、この微妙な腹具合をなんとかしなくてはならない。
「うーん、なにか買っておけばよかったな」
昼に食べるものがあったから油断していた。やはり摘めるものは常に置いておくべきだ。
出かけるべきか。しかし、わざわざ遠出するのも億劫な自分がいる。
そんなときだ。俺の耳に、女神の福音が聞こえてきた。
『いしや~きいも~』
がたりと、椅子から立ち上がる。
「こ、こうしちゃおれんッ!」
石焼きいも。石焼きいもだ。なんてタイミングで来やがる。
ほっこりと焼き上がった黄金色の石焼きいも。これしかない。
「財布、財布はっ!?」
探す。しまった、コートのポケットだ。こんなときに。
コートを部屋着の上から羽織り、俺は財布を掴みながら玄関へと飛び出した。
耳を澄ます。大丈夫だ、まだ近くにいる。
「急げ急げ」
ほんと、なぜ石焼きいもの親父はせっかちなのか。どうせなら、十分くらい止まってくれてればいいのに。
予想よりも早く遠ざかっていく車の音に、俺は焦りながら家の鍵をかけた。
「下りなら、階段のほうが早いな」
チラリと廊下の先のエレベーターを見やる。最上階まで上がっているようで、これならば階段のほうが早そうだ。
最近身体が鈍っていたしちょうどいい。
俺は駆け下りながら、踊り場の折り返しをカーブした。
(1秒でも早く! インを攻める!)
そのときだーー
「うおっ!?」
靴底がずりりと踊り場の床の上を流れーー
「ちょっ、まっ!?」
俺は、踊り場の壁に突っ込んだ。
「ぐ、ぐおぉおおお……ッ」
身体中を、鈍い痛みが駆けめぐる。
痛い。久しぶりだ、こんな痛み。
肩と足、ぶつけたのか背中も痛い。
「だ、誰か……ッ」
しかし、ひとまず身体はどうでもよかった。
『いしや~きいも~』
行ってしまう。俺の石焼きいもが行ってしまう。
「ま、待ってくれ。行かないでくれ」
追わなければ。しかし、立ち上がろうとするも身体のいうことがきかない。
ここまでなのか。俺は、焼きいもひとつ買うことができないのか?
神に祈る。もしも居るというのなら、助けてくれ。
「俺に、俺に石焼きいもを……ッ!」
手を伸ばす。すぐそこ。あと、ほんの少しなのに。
その願いが、天に届いた。
「……なにしてんだ?」
呆れた顔で俺を見下ろすリリスの顔に、俺は伸ばした拳を握る。
◆ ◆ ◆
「いやぁ、まさかお前が天使に見える日が来るとは」
「やめてくれよ。悪魔に向かってよ」
数分後、ホクホク顔の俺の横で、リリスは眉を寄せて俺を見上げた。
「お前に金の使い方を教えておいて正解だったな。犬猫よりは役に立つ」
「ほんと、すげーよなあんた。世が世なら心臓もぎ取ってるぜ」
ぶつくさ片眉を上げるリリスに、まぁそう言うなと右手を見せる。
そこに下げられた紙袋に、リリスはくんくんと鼻を鳴らした。
「言われるままに買ったけどよ、そりゃなんだ? うまそうな匂いしてんな」
「ふふふ、美味いぞぉ。苦労して買ったからな。なお美味いはずだ」
結局、随分と先まで走ってしまった。リリスが健脚だから間に合ったが、歳を感じ始めた俺では間に合わなかっただろう。
まぁ、ゴスロリ姿の美少女が全速力で疾走する姿は人目を引いたが、その先に石焼きいも屋がいたことだし、大した噂にはならないだろう。食い意地の張った美少女が全力疾走してるだけだ。
「家まで我慢できんな。冷めないうちに食っちまうか」
「おー、あたしにも一個くれよ。ちゃんと二つ買ったんだぜ」
誉めろよと言わんばかりのリリスの笑顔に、俺もよくやったと頷いてやる。初めの頃を考えれば、多少は使えるやつになったものだ。
褒美を与えねばなるまい。俺は、紙袋から紫色の戦利品を取り出した。
「じゃじゃーん! どうだ、焼きたてだぞっ!」
リリスの目の前にかざし、見せつけてやる。
持っている手がやけどしそうなほどの熱々さ。やはり焼きいもはこうでなくては。
しかし、紙袋から取り出された焼きいもを、リリスは複雑そうな表情で見つめていた。
「……えっ、なんだその紫色の。芋?」
俺の右手を見て、不服そうにリリスは眉を寄せる。
どうも紫色の色が珍しいらしい。確かに、知識がないと気味が悪い色ではあるかもしれない。
「そうだ、サツマイモ。こんな色だが毒なんかはないぞ」
「いや、別にそこはいーんだけどよ。……えっ、マジで芋?」
目を見開くリリスに、立ち止まって振り返る。なにをこいつはぐちゃぐちゃ言ってるんだ。
「そりゃ芋だよ。サツマイモ。焼きたてだぞ?」
「焼きたてって……えっ、マジで焼いただけの芋?」
不満たらたらのリリスの表情を見て、俺もようやく合点がいく。
ようはこいつは、焼きいもそのものが不満らしい。
「あんだけ走ったのに、ただの芋?」
「ふふふ、なるほどな。……なるほどなるほど」
これは俺も盲点だった。
怒る気はおきず、哀れな悪魔を俺は見つめる。
肩をポンと叩いて、俺は勝ち誇った顔でリリスを見つめた。
「まぁ、ただの芋だよ。うん、ただの焼いた芋だ」
「……なんだよ、その勝ち誇った顔はよ」
怒った表情のリリスを宥めながら、俺は焼きいもをリリスに渡す。
受け取りながら、リリスは熱さに声を出した。
「熱ッ!? ちょ、熱いッ!?」
あたふたと焼き芋でお手玉するリリスの前で、俺はもうひとつの芋を袋から取り出す。
ふたつとも、かなり大ぶりの芋だ。焼きいも屋の親父め、綺麗な女にはデカいのを渡しているに違いない。
レクチャーするように、俺はリリスの前で口を開けた。
「騙されたと思って食ってみろ。人間の偉大さがわかる」
そのまま、俺は皮ごと焼き芋にかぶりついた。
歯に当たる、熱々の感覚。それを無視して、大口で噛みちぎる。
「おっ、ほっ、ほほっ」
その瞬間だ。口の中に、幸せの福音が鳴り響いた。
「う、美味い」
口の中に広がる自然の甘さに、俺は思わず唸ってしまう。
美味すぎる。ちょっと驚いて、俺はもうひとくちを口に運んだ。
「こ、こいつぁ」
ねっとりとした食感。舌にまとわりついてくる。繊維質がほのかに残りながらも、まるでペーストしたかのような舌触り。
そしてこの甘さ。はっきり言って、スイートポテトのようだ。これが自然のものを焼いただけの甘さだというのか。
リリスに勝ち誇っておいてなんだが、ここまでとは思わなかった。実は焼き芋の形を模した、スイートポテトなんじゃなかろうか。
紙袋を見やり、そこに書かれていた文字に息を吐く。
「あ、安納芋か。噂に聞いていたが、美味いもんだな」
通りで値が張ると思った。しかし、値段以上の味と言える。
「美味い。ケーキだなこりゃ」
正直、そこらへんの芋のプリンだのケーキだのの何倍も美味い。これが砂糖なしの味だというのだから、凄い時代である。
「……う、うめぇ」
案の定、目をパチクリと開けて呆然としているリリスに、俺は「どうだ?」と視線を送った。
「いや、すげーうまい。なんだこれ、ほんとに芋か?」
むしゃむしゃと焼き芋をパクつきながら、リリスは不思議そうな顔で安納芋を見つめる。
俺でもびっくりしたのだ、魔界の悪魔さまにはさぞ衝撃的だっただろう。
「芋だよ。正真正銘、ただの芋だ。しかも焼いただけ。砂糖なんて使ってないぞ」
俺の説明に、リリスが「嘘だろ」と目を見開く。その顔に気をよくしながら、俺は人類の英知にかぶりついた。
甘い。とんでもない甘さだ。だが、どこか優しく懐かしい感じがする。
皮まで美味い。俺は焼き芋は皮ごと食べる。婆ちゃんがそうだったからだ。
「食物繊維が豊富で、身体にもいい」
「ほぇー、そりゃすげぇな。完璧だ」
半分以下になった芋をかじりながら、リリスは適当に相づちを打つ。
芋の甘さを堪能しながら、俺はリリスに説明してやった。
「魔界には、ここまで美味い芋はないだろう」
「そりゃあな。てか、初めて食べたよ。芋自体は食ったことあったけどな。どうなってんだ」
ぺろぺろと指を舐めながら、リリスはこちらに顔を向ける。リリスにしても興味があるらしい。それだけ、この焼き芋は世の理から外れているということだ。
「品種改良という技術だ」
「ひんしゅかいりょー?」
リリスの返事に頷きながら、簡単に説明してやる。
「美味い食い物を作り出す技術だ。調理って意味じゃないぞ? 食材の段階から、美味いものを作り出す」
「すげぇな。神の野郎もそこまではしねー」
ケタケタと笑いながら、リリスは愉快そうに目を細める。その表情にどきりとしたものを感じながら、俺は手の中の芋を見つめた。
神をも越えた、味。
俺たちは、なにを口に入れているのだろう。もしかしたら、この焼き芋はとんでもないものなのかもしれない。
「俺もよくは知らないがな。甘い芋と甘い芋を掛け合わせ続けて、より甘い芋を作っていくんだ」
「ははは、そりゃ気の長い話だな。やっぱり人間ってやつはおもしれー」
リリスの返事に、俺は最後のひとくちを放り込んだ。
美味い。ただただ、美味い。
「食い意地張ってるよな、人間」
「あんたは特にな。まぁ、あたしもそーだし、みんなそーさ。アダムのやつなんて、食べちゃダメって言われてた実を食べちゃったんだぜ」
楽しそうに笑うリリスの声を聞き、俺は遠いご先祖様を思う。
「じゃあ、いっかぁ」
どうせ食べるなら、美味いほうがいいだろう。
お読みいただきありがとうございます。
ついに本日、おひとりさまでした。第一巻の発売です。お持たせしました。これからも、リリスと誠一郎ともどもどうぞよろしくお願いいたします。




