第13話 早く起きた朝に。あの日のベーコンエッグトースト
ぼうっとした頭で目が覚めた。
「……ふむ」
何か、懐かしい夢を見ていた気がする。
笑い声に、彼女の笑顔。過ぎ去っていった時間だが、夢に見るの初めてではないだろうか。
「んっ、ふあぁ」
寝起きが良いとは言えない頭を上げながら、俺は窓に向かって欠伸を放った。まだ薄暗さを残す、朝の光。耳を澄ませば、鳥の鳴き声が外から聞こえる。
見なくても分かるが、一応時計を確認した。6時02分。休日にしては、随分と早起きだ。
「んー。目が冴えてしまったな」
起き上がり、そのまま洗面所へと向かう。こういうときは、多少眠くても起きてしまった方がいい。二度寝は、たいてい後悔しか生まないからだ。
朝の身嗜みを整え、歯を磨く。普段と何も変わらない日常。気分がいつもと違うのは、おそらく夢で見た笑顔のせいだろう。
「……十年、にはならないか」
大学の二回生のときだから……。そこまで考えて、俺は年月を数えるのを止めた。
腰に手を当てながら、俺は洗面台の鏡を見やる。
何とも間抜け面のおっさんだ。歯ブラシを持つ手も、もう少ししゃきっとは出来ないものだろうか。
そんなことを考えながら、俺は水道の蛇口を捻った。流れてくる水に、ぼんやりとした視線が落ちる。
「ふむ」
ぽつりと呟いて、俺は歯ブラシを口の中から引き抜いた。
◆ ◆ ◆
「んあー?」
納得のいかないような、訳が分からないとでもいうような声が、部屋の中に響きわたる。眉を寄せ、不思議そうな顔でリリスは椅子に腰掛けていた。
「おいおい、どうしたんだー? あんたの方からあたしを呼ぶなんて」
リリスは背もたれに顎を乗せながら、ぎぃぎぃと椅子の足で音を鳴らす。摩訶不思議な光景でも見たかのように、リリスは目を細めながら台所に立つ俺を見つめた。
まぁ、言わんとすることは分かる。
『おい、リリス。聞いてるか? ちょっと来てくれ』
こんなことを俺が言ったもんだから、数秒後には目を真ん丸く広げたリリスが目の前に出現していた。
慌てて出てきたのか、この間買ったTシャツが後ろ前だ。
「なに、早く起きたから朝食でも作ろうと思ってな。一人分よりは、二人分の方が作りやすい」
着間違いに気がついたのか、シャツを脱いでいるリリスに視線を向けないようにしながら、俺はフライパンの上に目を落とした。
「はぁ。そういえばあんた、料理出来るもんな。なに作ってんだ?」
漂ってきた香りに、リリスが鼻をひくひくと鳴らす。いつの間にかリリスは、椅子から立ち上がって俺の方へと足を向けていた。俺も、自分自身の鼻腔でフライパンから漂う匂いを吸い込んでいく。
「うまそうな匂いだなっ!」
口を開きかけるが、俺の感想をすかさずリリスが代弁した。その瞬間、俺の脳裏にいつかの声が蘇る。
『美味しそうな匂いねっ』
一瞬手が止まった俺を、リリスが不思議そうに見上げた。俺は一度くすりと笑い、フライパンの上のベーコンを菜箸で返していく。
脂が加熱され音を立てる。じゅうじゅうというよりは、もはやバチバチに近い。
リリスもいることだし、たっぷり八枚。大きめに広がるベーコンに、しっかりと焼き目を入れていく。
「けっこう焼くなー」
「かりかりのほうが美味いだろ」
わくわくと顔を近づけてきたリリスを、危ないと手で制しつつ、俺は乾いていくベーコンを見つめ続ける。
俺は、ベーコンはかりかりに焼いた方が好きだ。適切な焼き加減はどうか知らんが、焼き目が付いてからもしっかりと。焦げる直前を見極めていく。
「すまんが、皿を用意してくれるか。白くて大きいのだ」
「ん? いいぜ。……んー、これでいいか?」
俺のお願いでリリスが屈んだ。食器棚から白い平皿を探してきて、二枚両手に見せつけてくる。それにこくりと頷いて、俺は皿をカウンターに並べた。
黙々と作業をしている俺に、リリスがほけっと視線を向けてくる。何か言いたそうな表情に、俺は何だと横を向いた。
「いや、なんつーか。今日のあんた、ちょっと変だぞ。見たことない感じだ」
ぼへぇっと、よくもまぁそこまでアホ面になれるものだとリリスを見下ろす。今朝の俺も大概だったが、さすがにここまでではない。
ただ、鋭いかどうかでいうと、当たっているのだろう。こいつにも一応、女の成分が含まれていたということだ。
じぃっと見つめてくるリリスの瞳に、段々と気持ちがどうでもよくなってきた。これなら、話してもいいかもしれない。
どうせ、こいつに話したところで何もないのだ。
「……今朝、夢を見てな」
「はぁ、夢なー」
手元に寄せた卵を一つ、掴み上げた。こつんと、作業場の面でヒビを入れる。
昔は出来たが、今はどうかな。俺は卵を片手で割って見せた。
案の定、少し潰れてしまった黄身がフライパンに広がっていく。
「ああー。かっこつけるから」
「まぁ、見てろ。まだ三つある」
焼き加減がずれてしまう。少し作業の速度を上げながら、俺は片手でもうひとつ卵を割った。
今度は綺麗に割れたようで、真ん丸な黄身にリリスがおぉと拍手する。
「すげぇなっ! じゃあ、こっちがあたしので」
「……まぁ、構わんがな」
綺麗な方を指さして笑うリリスに、俺も何故か微笑んでしまった。彼女は潰れた方を取る子だったが、まぁ構いやしないと残り二つもフライパンに割って入れる。
続けての成功に、けたけたとリリスが楽しそうに歯を見せた。
「昔の恋人が出てきた」
「あはははっ。……って、んあ? ああ、夢の話か」
俺の呟きに、リリスは分かりにくいと眉を寄せる。それに謝る気もないまま、俺はじりじりと加熱されていく卵を見つめた。焼きすぎては、せっかくの黄身が台無しだ。
「なんだ。それで人肌恋しくなって、あたしを呼んだのかよ? びっくりだな。あんたに、そんな人間らしいところがあったなんて」
「別に、そういうわけじゃない。……というか、お前は俺のことを何だと思ってるんだ」
呆れたような俺の声に、今更何をと、リリスは更に呆れ返していく。もっともなやりとりに思わず口元を緩めながら、俺はフライパンの火を止めた。
話していてすっかり忘れていたが、トーストを焼かなければいけない。皿の上にベーコンエッグを載せながら、俺はリリスに声をかける。
「これ、向こうに持って行ってくれ。俺はトーストを焼くから」
「ん、ああ。ま、いーけどさ」
何処か釈然としない表情をしながらも、リリスは皿を運び始めた。小首を傾げつつ歩いていくリリスの背中を一秒ほど見送って、俺はオーブントースターに食パンを突っ込んでいく。
「……人肌恋しいねぇ」
面白いことを言ってくれると、リリスに聞こえないように呟いた。
恋しいなど、あるわけがない。もう、十年近くも昔の話だ。
朝が弱い彼女のために、俺が飯を作ってた。ただそれだけの、色も何も思い出せないような、そんな記憶だ。
「まぁ、感謝はしてるよ」
赤くなる電熱ケーブルを眺めながら、俺は誰に向けたわけでもなく口を開いた。
◆ ◆ ◆
「わはは、うまそうだな。すげぇうまそうだっ」
ぱぁと顔を輝かせるリリスを対面に眺めながら、俺は白い皿に目を下ろす。
かりかりに焼いたベーコン。オレンジ色に焼き上げられた、半熟の目玉焼き。それに、少しばかりのサラダとこんがり焼いたトースト。
ベーコンエッグトースト。俺が一番好きな朝食だ。
「載せて食うといいぞ。黄身が流れるからな」
ひょいとベーコンごと卵を掬う。トーストの上に載せて、俺はがぶりと噛みついた。
とたん、とろりと黄身が流れ出す。半熟の黄身がトーストに溢れ、口の中を卵のマイルドさとベーコンの塩気が満たしていく。
噛みしめると、ベーコンの旨味がじゅわりと溢れ出てきた。かりかりなのに、しっかりとした肉の旨味だ。
もう一口を運ぶ。さくりと、トーストが音を立てた。音だけで美味い。ベーコンといい、食感の美味しさをこれでもかと伝えてくれる。
さくさくとした表面から、もっちりとした内面へ。日本人が好きな食パンだ。勿論、ベーコンエッグとの相性も良い。
「うめぇっ! 気に入ったっ!」
再びの代弁。こいつがいれば特に俺は喋らなくていいのが、こいつのいいところだ。しかし声に顔を向けると、俺は思わず吹き出しそうになってしまった。
べっとりと口の周りに黄身をつけたリリスが、嬉しそうに笑っている。鼻の上にも付いているオレンジ色に、俺は呆れを通り越して笑みを浮かべた。
「後で顔洗っとけよ」
ほんと、代わりになんてなりやしない。それはあまりにも、彼女に失礼というもの。
目の前のリリスの惨状は無視しながら、塩を足したのが正解だったかなと、俺はパンに染み込んだ黄身を口に放り入れた。
しっとりと、卵が優しくパンを包んでいる。美味い。ほのかに残ったこんがり感が、とんでもなく楽しい口当たりを作り上げている。
自分の家は、目玉焼きには白ご飯だった。それと醤油。無論、今でも大好きだが、これを口に入れている瞬間はご飯派には戻れない。
最初は、いたく驚いたものだ。考えてみれば、卵サンドなんて珍しいものじゃないのだから、特段変わった組み合わせではない。
ただ、目玉焼きがパンに乗っているのが慣れなくて、初めは眉をしかめたのを覚えている。
そう。最初の最初は、彼女が焼いてくれたのだ。
「そいえば、さっき言ってた恋人ってなんだ? シオリじゃないよな?」
もぐもぐと口にトーストを入れながら、リリスがきょとんと首を傾げる。俺はトーストを片手に、ぺろぺろと指の先を舐めるリリスに目を向けた。
けれど、話して面白いことなど何もない。
「昔の話だよ。十年くらい前だ。俺がよく朝飯を作ってた」
「へぇ。いいとこあるじゃん」
意外だなと、リリスは俺の顔をマジマジと見つめてくる。馬鹿にされた感は否めないが、そこはぐっと無視をして、俺はトーストを一度置いた。
「よく、このトーストを作っててな。思い出して、急に食いたくなったわけだ」
「はぁ。まぁ、そんなこったろうと思ったよ」
もはや慣れたと言わんばかりに、リリスは食事に戻っていく。
ただ、おそらく目の前のアホ悪魔は分かってはいないだろう。
材料が揃っていたのは、偶然だった。案外、夢に見た理由はそこかもしれない。
けれど、別に一人分で食ってもいいのだ。
黄身が潰れようが誰も気にしないし、皿が出るのが遅れても大した問題ではない。
「……美味いな」
トーストを噛じっていく。音が聞こえる食パンに、ベーコンの風味。白身と黄身のコントラスト。シンプルだが、これ以上はない。
朧気な記憶の底を、潜っていく。思い出しはしないが、俺は心の中で頷いた。
確か、こんな味だったような気がする。
「いや、違うな。お前でこれだからな。やっぱり、前はもっと美味かった」
「……よく分からねぇけど、バカにされてるってのは伝わってきたぞ」
抗議の視線は華麗にかわして、俺はふむと顎に手を当てた。何か足りないような気がする。これでは、あの日々の味に届かない。
「あっ、しまった」
そういえばと、俺はテーブルを見渡した。渇いた喉に眉を寄せながら、俺は飲み物がないことに顔をしかめる。
どおりで喉が渇くはずだ。ただでさえ、塩気のあるベーコンを食べているのだから。
「ちょっと待ってろ」
勢いよく立ち上がった俺に視線を向けて、リリスはサラダをそっと俺の方へと移すのだった。
◆ ◆ ◆
「ほれ、どうだ」
ことりと目の前に置かれたティーカップに、リリスはぽかんと口を開ける。中には、優雅な紅茶の香り。俺は、満足げに自分の席にもカップを置いた。
「はは、知ってるぞこれ。紅茶だ」
くんくんと香った匂いに、リリスが顔を輝かす。さすがは歴史を変えた飲み物だ。魔界の悪魔も知ってるらしい。
だが、目の前のそれは特別製だ。
「まぁ、飲んでみろよ。美味いぞ」
カップを持ち上げ、香りを嗅ぐ。どうやら上手く出来たようだ。
口に含めば心地いい紅茶の香りと、優しげなミルクの風味が口の中に広がっていく。
ロイヤルミルクティー。高貴な味が漂う、至福の一杯だ。
「おお、何かうめーな」
初めて飲んだリリスも、驚いたようにカップを見つめる。
ロイヤルミルクティーはイギリス王朝風という意味だが、日本独自の飲み方だ。
水で煎れた紅茶にミルクを加える通常のミルクティーと違い、ミルクで直接煮出すとされる。
「だろ、ちょっとコツがあってな」
俺は再び口を付けるリリスに微笑みながら、自分も二口目を持って行った。
ミルクのコクと、紅茶の風味。確かに美味い。紅茶が動物性の旨味に消されていない。
コツといっても簡単だ。ミルクで直接煮出すのではなく、あらかじめ少量のお湯で茶葉を煮込む。強火で煮込んだ後、ミルクを加える。そのまま変わらず強火で煮込めば、風味豊かなロイヤルミルクティーの完成だ。
確か、牛乳に含まれるタンパク質が抽出の邪魔をするのだったか。そんなことを、彼女が言っていた気がした。
ごくりと喉を通る紅茶を感じる。こういうホットも良いが、アイスも美味い。今度、もう一度作ろうかと俺は台所の隅の茶葉の缶を思い出す。
あれも、つい買ってしまったものだ。ミルクティに合う、あの日の銘柄。結局面倒くさくて、今日まで開けもしなかったのに。
「ははは、なんだか悪いな。作ってもらってばっかで」
しししと笑いながら、リリスはロイヤルミルクティーを飲み干した。欠片も思ってなさそうな表情だが、言葉にしただけ上等かと俺はゆっくりとカップを持ち上げる。
しかし、今回ばかりはこいつに感謝しなければならない。
「……やっぱり、美味いな」
何せ、二人分の分量しか俺は知らない。
◆ ◆ ◆
「当然だが、皿洗いをしないといけないのが自炊の辛いところだな」
「あはは、がんばれー」
冷蔵庫に頭を突っ込んでいるリリスを背中に、俺は泡立つ洗剤を見下ろしていた。面倒だが、食器洗いのコツは食べてすぐ洗うことだ。貯めれば貯めるだけ、ろくなことにならない。
「しかしあれだなー。今日は驚いたな。あんたに、昔の女を思い出す心があったとは」
「なんだそれは。悪魔か俺は」
勝手にビールを取り出しているリリスに、俺は目を細めて声を出す。その返事にけたけたと笑いながら、リリスは気に入ったと腹を抱えた。
「そりゃいいな。あんたが悪魔になれば、いろいろと楽しそうだ」
かしゅっとプルタブを開ける音を背中に、勘弁してくれと顔を崩す。悪魔っていったらあれだ。こいつだ。俺はこんなアホな種族になりたくはない。
「それにだ。別に、恋人を思いだしていたわけじゃない。ただベーコンエッグが食いたくなっただけだ」
「へいへい。ししし、雄ってのは馬鹿だねぇ。愛すべき馬鹿って奴だ」
愉しそうに笑うリリスに、俺はしまったなぁと蛇口を捻る。今日こいつを呼んだのは、とんだ失敗だったかもしれない。
いつにも増して生意気でうざったらしい雰囲気のリリスに、俺はちらりと横目を移した。
「っぷはぁ! 朝飯食ったあとの酒はうめぇなっ!」
ごくごくと喉を鳴らす魔界の悪魔娘に、俺は深く溜め息を吐く。少しでもこいつに感謝した俺が、馬鹿だったのだろう。
思い出なんて、ろくなことにならない。
「その空き缶くらいは、ちゃんと分別して捨てろよ。さもないと、お前の鼻にわさび突っ込むからな」
「おいおいやべぇよ。こんな可愛い小悪魔に、とんだ虐待だよ」
分かっているのか分かっていないのか、リリスは鼻歌交じりにゴミ箱を覗き込む。途中で面倒くさくなったのか、当てずっぽうで空き缶を放り入れるリリスに、俺はもう一度息を吐いた。
本当に、ろくなことにならない。
「そういえば、今日は休みだろ? 昼飯はどうすんだー?」
いつの間にやらもう一本を手に持っているリリスに苦々しい顔をしながら、それでも俺は腰に手を当てた。
ベーコンエッグトーストの味を思い出す。とろりと溶けた黄身の味は、もしかしたらあの日と同じものだったのかもしれない。
「そうだなぁ、朝がパンだったから……」
ろくなことにはならないが、そんな日常こそが毎日だ。
当分はこんなもんでいいだろう。そう思いながら、俺はロイヤルミルクティーの残り香に、次の食事を思い浮かべるのだった。




