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第11話 憂鬱な雨の日に。専門店の牛タン定食 (後編)


「ほほぅ。これはこれは」


 目の前の盆を見て、俺は思わず頬を緩めた。

 じっくりと舐めるように見つめ、腹の虫がぐぅと鳴る。


「うまそうだなっ!」

「ああ。美味いぞ、こいつは」


 リリスの素直な感想に、俺も頷いた。ごくりと唾を飲み込み、盆の上の料理を眺める。


 牛タン。淡いピンク色に光り輝く肉の表面が、俺をこれ以上なく誘ってきていた。


「……焼き肉のタンとは全然違うな」


 箸で持ち、そのずっしりとした重さにびっくりする。

 薄くスライスされた焼き肉向けのタンと違い、見るからに肉厚な固まりだ。推測するに、焼き肉の五枚分程の厚みだろうか。


「どれ」


 とりあえず、食べないことには始まらない。俺はどきどきする鼓動を抑えながら、牛タンにかぶりついた。


 ぶつりと、歯が肉に食い込む感触が脳を揺らし、噛みきる頃には俺はうなり声を上げていた。


「お、おお。これはっ」


 驚いた。しかしまだ確定ではない。俺は審議を確かめるべく、口の中の肉を慎重に噛みしめた。

 じゅわりと、濃厚な肉の味が舌の味蕾を刺激する。


「う、美味い……」


 何だこれは。ふるふると身体が震える。牛タンとは、こんなに美味いものだったのか。


「うめぇ」


 前を向けば、目をまん丸に見開いたリリスが、アホ面を隠しもせずに口を開けていた。気持ちは分かる。俺も今はそんな面構えだろう。


「しかし、本当に美味いな。肉の中で一番美味いまであるぞ」


 噛み千切った残りを口に放り込む。うむ、やはり美味い。


 何というか、『筋肉』って感じだ。歯を押し返す程の弾力。しかし決して固くはない。

 それに、甘い。脂の甘みだ。見た目からは想像できないが、しっかりとした脂と肉の旨味が混在している。


 霜降りの肉と赤身の肉、それぞれの良いところを足したような味だ。それでいて、きちんとしたオリジナリティがある。


「焼き肉の食べ方もいいが、こういうのも素晴らしいな」


 別に、焼き肉のスライスされた牛タンが駄目ということはない。あれはあれでやはり、牛タンに合っている形状だと理解できる。

 しかし、メインとして食べる分にはインパクトが段違いだ。あれが数ある種類の中の一品であるのに対して、こちらは『牛タン』定食なのだという意気込みがはっきりと伝わってくる。


「塩加減も絶妙だ」


 味付けは素直に塩。これは焼き肉と同じだ。ほんのりと甘い肉の味が引き立てられ、食べてる最中ですら喉が鳴り、腹の虫が騒ぎ出す。


「うぅむ、タクシーの親父め。優秀どころではないな」


 何故彼が三つ星ドライバーでないのか理解に苦しむ。この店を知っているだけで、それだけの価値があるというものだ。


「うまいなー。すごくうまい」


 もぐもぐと嬉しそうに口を動かすリリスに、俺もくすりと笑みを浮かべた。基本的に「うまい」としか言わないリリスだが、確かにこの牛タンは美味い。


「独特だが、『肉っ』て感じもきちんとするな。あんまり脂っこくないのもいい感じだ」


 普通これだけしっかりした甘みがあると、大抵は脂身の多い肉か、霜降りに過ぎる感じの肉だろう。若い内はいいが、俺の歳になるとこの牛タンの筋肉具合はありがたかった。


 歯切れのよい肉の弾力。食感だけでも、ご飯が食べられそうだ。


「米は麦飯か。……へぇ。とろろも付けれるのか。しまったなぁ」


 メニューを見れば、追加料金を払えば麦飯に山芋のとろろを加えられたらしい。聞くからに豪華だ。これは是非試したい。


「すみませーん。とろろ二つくださーい」


 もはや我慢できなかった。牛タンに合うのかどうかは不明だが、わざわざ用意されているほどだ。合わないということはないだろう。店員を呼び止めて、早速リリスの分も纏めて注文する。


「トロロ?」

「ネバネバした芋だよ。ちょっと口で説明するのは難しいな。まぁ、食ったら分かる」


 首を傾げるリリスに、俺はふむと箸で麦飯を摘んだ。そして、スプーンで麦飯を食べているリリスを見やる。こいつには、ちょっと食べにくかったかもしれない。


 しかしこれも社会勉強だと、俺はテーブルの上のスープを手に取った。


「ふぅむ。なかなか」


 ずずずっと飲み込んだスープの器には、小さな肉の塊が沈んでいる。テールスープという奴だ。澄んだスープだが、しっかりと胡椒が効いていて食欲が刺激される。


「おいっ、これもうまいぜっ。食うか?」


 ふぅと一息を付いている俺に、リリスが満面の笑みで白い皿を差し出してきた。

 中身はリリスが注文した牛タンシチューだ。見た目はモロにビーフシチューで、ごろっと入っている牛タンの塊がただ者でない一皿であることを予想させる。


「すまんな。……おお、こんだけ入れてくれると嬉しいな」


 まず、肉がでかい。素晴らしいことだ。これが一番大事でもある。

 本来ビーフシチューは、肉を楽しむためのものだ。デミグラスソースはあくまで『ソース』で、メインの肉を彩る装飾に過ぎない。


 個人的にはルーを啜るシチューも嫌いではないが、やはりこういうガツンと肉を主張してくれると嬉しいものだ。


「……むっ」


 ずぷり。そんな音さえ聞こえてきそうな程に、抵抗なく箸が肉に入っていく。ほろりと切り広げた肉の感触から、俺は一瞬身構えた。


 凄まじいものがくる。そんな確信が俺の腹を鳴らす。


 恐る恐る、俺はシチューの牛タンを口に運んだ。


「ほ、ほほぉ。こ、これは」


 思わず頬が緩みきった。リリスが、「だろ?」っとしたり顔を向けてくる。


 とろりと口の中で溶ける牛タン。柔らかい。月並みな言葉ばかりが並ぶが、これは確かに肉を語る際の誉め言葉である。


 これが本当に、先ほどまで食べていたものと同じ肉なのだろうか。

 噛みしめる旨さの弾力。舌の上で溶けるほどの柔らかさ。調理法が違うとはいえ、こんな二通りの肉の美味さを一度に楽しめるとは。


 牛タン。天晴れと言うほかない。


「たまりませんなぁ、これは」

「へへ。たまりませんなー」


 同じ言葉を返してくるリリスに、俺はうんうんと頷いた。雨でよかったと思う日など、初めてかもしれない。あのタクシーの親父は天使だなと、俺は少し前髪が後退してきていた天使に祈る。


「こっちの角煮丼も美味いぞ。……しかし、牛タンの角煮か。美味いもんだな」


 自分の方のセットに付いてきていた角煮丼を、ぱくりと咥えた。甘辛い味と共に、牛タンの旨味が口に広がる。

 こちらは、やや水気を切った感じの美味しさだ。肉の繊維が、はっきりと舌を感じさせてくれる。塩焼きとも、シチューとも違う美味しさだ。


 噛みしめる美味さと、口の中で解ける柔らかさ。歯ごたえはしっかりと残しつつ、煮込むことによる美味しさも存在する。

 食感的には、ちょうど塩焼きとシチューの中間のような面白さだ。


「なるほど」


 思わず呟いた。牛タンの美味しさというのは、この食感にこそあるかもしれない。切り方や調理法、それらで全く赴きのことなる食感を楽しめる。

 もちろん、他の肉でもそうなのだろうが、それがより強く出るのかもしれない。少なくとも、一種類の部位をこんなにバラエティー豊かに食べられるのは珍しい。しかも一度にである。


「うぅむ。牛タンのファンになってしまうな」


 今まで避けてきたのが悔やまれる。これだけ美味い肉だ。他にもさぞかし美味い食い方があるのだろう。ちらりとメニューを見れば、この店だけでも他に、カレーやにぎり寿司なんてものが目に入る。


「寿司。……刺しでもいけるのか。くぅ、これはもう一度来ないといけないですな」

「そんときは呼んでくれよ。まじで」


 もぐもぐと角煮丼を咀嚼しながら、リリスが頼むぜと念を押してきた。俺としても、リリスがいれば品数を頼めるから都合がいい。


「しっかし、凄いボリュームだな。結構きつくなってきたぞ」


 ふぅと、思わずベルトを緩めてしまう。

 肉厚の牛タンに、ごろごろと転がる牛タンの角煮。シチューだって、デミグラスから肉が飛び出してしまっている。


 肉だけではない。テールスープに、とろろ付きの麦飯。思えば、最初に来たサラダにも三枚ほどハムが乗っかっていた。


 俺とはいえ、少々腹が苦しくなるラインナップだ。だが、この怒濤に感じるまでの肉のラッシュが心地いい。


 肉が食いたいときに、食いきれないほどの肉が出てくる。こんなにも幸せなことがあるのだろうか。人間に生まれてよかった。


「ふぅ。とろろ飯が箸休めだな。……うん、美味い」


 ずぞぞぞと、いつの間にやら到着していたとろろを麦飯の上にかけてみる。思った通り、中々に良い感じだ。肉続きの口の中を、とろろ独特のねばりが洗い流してくれる。


「そういえば、ギュータンって牛のベロなんだよな?」

「ん? そうだな」


 テールスープを口に含んでいると、リリスがべぇっと舌を出してきた。何が面白いのか、けたけたと笑いながら俺に舌を見せつける。


「牛ってベロでかいのな。なんか変な感じ」

「ああ、まぁそうだな。牛タンの元の塊見たら、結構すごいぞ。ずどーんって感じで」


 笑うリリスに、身振り手振りで牛タンの大きさを伝える。ほぇえとリリスが目を開き、んべぇと自分の舌を伸ばして見せた。


「あたし、ベロちっちゃいからなぁ」

「別に、でかいといいもんでもないだろ」


 もぐもぐと塩焼きを食べながら、ベロを指で引っ張り出しているリリスを見つめる。舌が大きかろうが、舌を間違って噛んでしまうリスクが増えるだけである。


「ま、あんたはキスより牛タンって感じだよな」

「よく分かってるな」


 呆れるようなリリスに眺められながら、俺はビーフシチューに手を伸ばす。何せ、ファーストキスの相手の感想は、「焼き肉の味がした」の俺である。どうせ口の中に肉を入れるなら、牛タンかステーキがいい。


「きゃははっ。まぁ、キスじゃ腹はふくれねーからな」


 心底おかしそうに、リリスはきゃはきゃはと腹を抱える。そんなに変なことを言っただろうかと、俺は眉を中央に寄せた。花より団子。昔から言われている言葉だ。


「肉を食らうってのはいいことだ。あんたを見てると、素直にそう思えるよ」

「そりゃよかった」


 にかりと笑うリリスに、釈然としない何かを感じつつも俺は牛タンに箸を伸ばす。考えてみれば、牛タンってのは牛一頭から一本しか取れないわけで、贅沢な代物だよなぁと俺は箸の先の牛タンを見つめた。


「美味いわけだ」


 牛さんも、草を食べるために一生懸命に舌を動かしているのだろう。そりゃあ歯ごたえも良くなるさと、俺は口の中の牛タンに感謝する。


 肉を食らう。腹の肉も、内蔵も、口の舌さえ食らっていく。


「美味いっ」


 やはり俺は肉が好きだと思いながら、舌の上の牛タンの味に感動する。

 絶妙な塩加減に舌鼓を打ちながら、俺はおもむろに店の窓を見つめた。


「おっ」


 牛タンに夢中で、気づかなかった。

 すっかり上がった雨を暗い窓の外に確認しながら、俺はもぐもぐと麦飯を口に運ぶ。


 どっちみち、タクシーで帰らねばならぬなと思いながら、俺はテールスープのテールの部分に取りかかった。


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