第06話 金曜の晩に。カクテルバーのフルーツサンド (後編)
俺は空になったグラスをテーブルの端に寄せ、呆れた顔でリリスを見つめる。
ミックスカクテルを美味しそうに飲むリリスは、満足顔だ。怒っても仕方ないと、俺はメニューに手を伸ばす。
さて、ここまで来ればツマミだ。よくよく見れば、ありきたりなメニューの他にこの店ならではといったメニューがいくつか見受けられた。
ちょうどチーズの盛り合わせを持った店員が近づいてきている。俺はそれを受け取りながら、店員に開いたメニューの中からいくつか指さしていく。
「フルーツサンドと、このピサンゴレンというのを。あと、ソルティドッグとチチを一杯ずつ」
頷く店員に、俺もふぅと一息を入れる。
結局、カクテルは有名どころを頼むことになってしまった。まぁ、せっかくの生ジュースだ。飲み比べるためにも、飲んだことがあるもののほうがいい。
しかし、このピサンゴレン。聞いたことのない料理なのでつい頼んでしまったが、詳細が書いていない。どんな料理なのだろうか。
名前の雰囲気からして、東南アジアのものではありそうだ。辛いのか辛くないのか。あまりに辛すぎるようなら、リリスに全部任せてしまおう。
「乳? おっぱい飲むのか?」
メニューをぼんやりと眺めていた俺に、リリスが妙なことを呟いてくる。一瞬何のことか分からなかったが、先ほど頼んだカクテルの名前を思い出して、俺はくすりと笑ってしまった。
「チチってのはカクテルの名前だよ。別におっぱいじゃない」
「あ、そうなのか。びっくりしたぜ」
まぁ、リリスの言うことも分からなくはない。実際、このチチというカクテル、それなりに有名だが名前の由来を知っている人は少ないだろう。
「ウォッカにパイナップルジュースとココナッツミルクを混ぜたカクテルだ。美味いぞ」
「へぇー、ココナッツミルク。それでチチか」
俺の説明に、リリスが予想通りの返事をしてくれる。飲んだことのある人でも、チチの由来をココナッツミルクや牛乳と勘違いしてる人は多い。悪魔のリリスが勘違いするのも当然だろう。
「いや、そもそもチチは日本語の乳とは関係ないんだ。アメリカのスラングで……そうだな、日本語に訳せば『粋』って感じの言葉かな」
「いきぃ? ますます分けわかんねぇな」
リリスの眉がおもいきり中央に寄る。これもしかたない。俺も、粋を完璧に説明しろと言われても困ってしまう。
笑いながらリリスの表情の変化を楽しんでいると、店員がグラスを二つ持ってきた。リリスの目の前に置かれた白いカクテルに、俺は説明を付け加える。
「それがチチだ。元々はフランス語の『シシ』が語源らしくてな。ブラウスの胸元のフリルって意味らしいぞ」
「ふーん。そっちの方が可愛くて、あたしは好きだな」
そう言って、リリスはグラスに刺さっていたパインの実をぱくりとくわえた。グラスに口を付け、一口飲んで顔を綻ばせる。
確かに、リリスが飲むならフリルの方が合っているだろう。スーツの胸元から見えるブラウスにも、ちょこんとフリルが付いているし。
どうもリリスは、見た目通りにかなり少女趣味のようだ。
リリスを見ながら口に含んだソルティードッグが、いい感じに口に流れ込んでくる。グラスのふちの塩が、何ともいい塩梅だ。
「やっぱり、生ジュースを使ってるだけあって美味いな」
舌に当たるグレープフルーツの酸味が、何とも心地いい。少しだけ残った果肉が、普通のカクテルにはない食感を与えてくれている。
どことなし、酒なのに腹が満たされるのを感じた。健康にもよさそうだ。
「お、きたぞっ!」
リリスが目を輝かせ、料理を持ってきた店員を見あげる。俺も待ちわびていたので、目の前に置かれた皿に身を乗り出した。
「ほぅ。綺麗なもんだな」
テーブルの上の一皿に、思わず唸る。
真っ白い大きな皿。その上に、これまた真っ白なパンに真っ白なクリーム。白尽くしの皿の中で、色とりどりのフルーツが宝石のように輝いている。
なんとも高貴で上品な一品だ。赤いイチゴに緑のキュウイ。黄色いのはマンゴーだろうか。まるで芸術品のような美しさだ。
「うめぇっ! 甘ぇっ!」
そんな芸術を、リリスが鷲掴みにして口に放り込む。俺は苦笑しつつ、全部食べられる前にフルーツサンドに手を伸ばした。
指の先だけで分かる。ふんわりしたパンに、柔らかなクリーム。口に入れずとも、美味いのが伝わってきた。
しかし、そうも言っていられない。俺は形を崩さぬように慎重にフルーツサンドを口に運ぶ。
噛みしめた瞬間、じゅわりと噛み切ったフルーツから果汁が染み出た。
「う、美味いな」
驚いて口にしてしまう。もう一度、慌てるように口に入れた。
しっとりとしたパン。そして、ほんのりと甘いクリーム。
絶妙だ。甘ったるくないクリームが、見事にフルーツを包み込んでくれている。パンもクリームも、まったくフルーツの邪魔をしていない。
フルーツの甘さ。それを引き立てているようだ。美味い。フルーツサンドを、何処か見くびっていた。こんなに美味いものだったとは。
「こうして食べてみると、イチゴはやはり王様だな」
「うまいよなっ! 可愛いしっ!」
リリスも嬉しそうに頬張っているが、言っていることは的を得ている。白いクリームに、イチゴの赤。この美しさこそが、イチゴが長くスイーツの世界で愛され続ける理由だ。味だけではない。
「いや、しかしびっくりだな。実は初めて食ったんだ、フルーツサンド」
「ほうなのか? むぐっ、よかったな、めちゃくちゃうめぇもん」
リリスの言葉に、素直に頷く。今まで、気になったことはあったが何処か恥ずかしくて買えなかったのだ。ケーキを買うのとは一段高いハードルが、おっさんにはある。
リリスと来て正解だったなと、俺はテーブルの上のもう一つの料理に目を向けた。
そこには、綺麗に盛りつけられた春巻きのような料理が、四つほど皿の上に並んでいる。俺は、その料理をマジマジと見つめた。
「これがピサンゴレンか。美味そうだが、何を揚げてるのか分からんな」
「食ってみればいいじゃん。冷めちまうぜ」
ふーむと観察している俺の前で、リリスはピサンゴレンをひょいと摘んで持って行った。あっと思ったが、リリスの言うことも尤もである。熱い料理は熱いうちにというのは鉄則だ。
「そうだな。……はむっ」
思い切って、かじり付いた。もぐもぐと口を動かして、舌に感じる味に思わず驚く。
「って、デザートかっ」
甘い。見た目からツマミ系を想像して口に運んだが、口の中にはねっとりとした甘さ。そしてほんの少しの酸味が広がっていた。
中身は、噛み口を見なくても分かる。バナナだ。ほんのりとした酸味は、やや若いバナナを使っているからか。
「うまいなっ。ほっこりしてる」
「そうだな。案外といける」
サクサクとした衣。丁寧に巻かれているのは、ライスシートだろうか。その中に、厚めの衣が一層存在する。天ぷらと春巻きが混ざったような食感だ。
デザートなのだろうが、中のバナナが若いおかげかそんなに甘ったるくない。酒に予想以上に合うと、俺はカクテルを喉に流す。
「……しかし、今日はやけに色んな国のもんを飲んだし食ったな」
ふと、そんな感想が口から漏れた。
ピサンゴレンの詳しい出所はしらないが、おそらく東南アジアだろう。それを、イギリスのカクテルで飲んでいるのだ。
ぼうっとグラスの縁の塩を見つめている俺に、リリスがけたけたと笑い声を上げた。
「そりゃそうさ。酒はどの国の奴も飲むからな。飲んだくれは、どこにだっているぜ」
リリスの笑顔に、俺はゆっくりと頷く。
こうして色々な国に想いを馳せれるのも、カクテルや料理のいいところなのかもしれない。どんな国の人間だって、それこそ悪魔だって、酒も飲めば飯も食う。
「……そういえば、し忘れていたな」
飲み進めている内に、大事なことに気が付いた。こいつが一人でぐびぐび飲むもんだから、すっかり忘れていたのだ。
グラスを持ち上げた俺に、リリスがきょとんと顔を傾ける。真似をして持ち上げられたリリスのグラスに、俺はちょこんとグラスを合わせた。
「乾杯」
まぁ、少しくらい遅れるのはいいだろう。まだまだ夜は始まったばかりなのだから。




