第03話 昼食時。鶏豚白湯らーめん
「し、しまった……」
速見誠一郎は、手のひらの中にある食券の文字を見て呆然と立ち尽くした。
鶏豚醤油らーめん 750円
ふるふると手が震える。なんてことだと、誠一郎は己の迂闊さを呪った。
「くぅ。先走りすぎたか」
本来ならば、自分が押すべきは隣のボタンのはずだ。そして、出てきた食券には鶏豚白湯らーめんと書かれていなくてはならない。
「事情を話して返金してもらう……のは悪いか」
店内をちらりと見ると、忙しそうに店長がカウンター客の接客に追われている。返金は当然の権利だとしても、この忙しさの中、店長の手を煩わせるのはしのびない。
「醤油もありだが。……今日は白湯の気分だったんだよなぁ」
同じラーメンだと思うかもしれないが、醤油らーめんと白湯らーめんではもはや別の料理である。特に塩気の問題が大きい。少し舌にしょっぱさを感じるここの醤油らーめんは、それなりの気分のときでないと喉が受け付けないのだ。
「食えないことはないが、今のコンディションを考えると白湯一択だな。よし、白湯を買おう」
無駄金になる可能性もあるが、上手いこと食券を渡すときに事情を説明すれば対応してくれるかもしれない。ともすればまずは白湯の食券を購入すべきだと、俺はぽちりと食券機のボタンを押した。
「うむ。鶏豚白湯らーめん。間違いないな」
手に握った食券に書かれた文字を確認して、俺はよしと頷いた。思わぬトラブルはあったが、特に時間が押しているわけでもない。この後は美味いラーメンに舌鼓を打つことにしよう。
「はーい! 2名様ごあんなーい!!」
そんなことを考えながら扉を開けた俺を、店員は予期せぬ言葉で出迎えた。
「……ん、二名?」
「うおっ! なんか床べとべとしてんぞ。大丈夫かこの店」
自分の隣から聞こえる大変失礼な声に聞き覚えがあって、俺はじろりと視線を向ける。
「……お前。何でここに?」
「あんたに呼ばれたからに決まってんじゃん。……何だよその目は。人のこと呼んでおいて」
信じらんないと、リリスは驚きをわざとらしく目と口で表した。何このおっさんと、俺の右手にある食券の一枚を奪い取る。
「はは。なんて書いてるかわかんねぇ。こっちにするぜ」
ぴらりとリリスが見つめる先には、鶏豚醤油らーめんの文字。今回はどうやら、買い間違えた食券の始末に悩んだのが原因でこいつはやってきたらしい。
まぁ、特別高いものでもないしと、俺はリリスにさっさと座るように指示を出した。ここまで来れば、せめて店の邪魔にはならないようにしないといけない。
「あいよー。醤油一丁白湯一丁!!」
厨房にいる店主にカウンター越しに食券を渡し、俺は丸椅子にゆったりと腰かけた。リリスも、俺の横にちょこんと座る。
「また制服か。他のバリエーションはないのか」
「ん? 何かまずかったか? 今度出てくるときには別の格好にするよ」
別にまずいというわけではないがと、俺は眉を寄せた。そして、すぐにまた出てくるつもりかと呆れたようにリリスを見つめる。
よくよく見ないでも美少女だ。それにしても、平日の昼間からアラサー男が制服少女と二人でラーメン。同僚には見せられない姿だ。やはり平日に出てくるときには制服は止めろと後で言っておこう。
「狭いけど美味そうな匂いだな。おっ、こりゃ何だ」
かちゃかちゃと、リリスは餃子用の小皿や紅ショウガの容器を興味深げに眺める。今回はラーメンしか頼んでないので小皿は必要ないが、紅ショウガは後で使うことになるだろう。
「あいよ! 醤油と白湯。上から失礼しますね」
そうこうしているうちに、カウンターに丼が二つ置かれた。店主のにかっとした笑顔に会釈をしつつ、熱々のラーメンを手元に運ぶ。リリスも、きゃっほーいと丼に手を伸ばした。
「おほほ。これだよこれ」
頂きますと、俺は割り箸を手に両手を合わせる。湯気が立つラーメンを見下ろしていると、とたんに食欲が増してきた。
クリーミーな色の塩白湯スープの上に、白ネギが細くこんもりと盛られている。具材はシンプルに、叉焼とメンマと白ネギのみ。煮卵を追加することもできるが、俺は特にこのラーメンに関しては必要性を感じない。
シンプルな代わりに、叉焼はたっぷり三枚。五ミリほどの厚みの肉は、箸で持つだけで容易に断ち切れる。
「まずはスープを」
ずずずと、スープを一口含む。
美味い。とんこつほど油ギッシュでもなく、かといって塩ラーメンほどあっさりもしすぎていない。やや薄味で物足りなさも残るが、これは後への布石とも言える。
ちらりと、目の前に貼られているメニューに目をやった。
鶏豚白湯らーめん。愛知県名古屋コーチン、鹿児島産豚をたくさん使い、濃厚ながらもクリーミーな味のスープに仕上げました、か。なるほど。確かに説明通りの味だ。
まずはスープを楽しむ等と言っていると、このラーメンフリークがという目で見られることがある。いや、別に誰に言われたわけでもないのだが。何となく、通ぶってると思われている気がする。
そんな意見には、ほっといてくれと言いたい。俺たちは、一定の手順、色々なうんちく、こだわり。それらをわざと頭の中でシュミレートすることで、よりラーメンを食べることを楽しんでいるのだ。俺などは、ときおり料理マンガの審査員役になったつもりで食べたりもする。
「はふっ。ふっ。ずずずっ」
割り箸で麺をつかみ、スープを絡めた麺を音をたてて口の中に入れていく。硬さは普通で頼んだが、問題ない。細目の麺が、あっさりとしているくせにしっかりとしているスープによく合っている。
最近ではつけ麺はじめ太麺の需要も増えてきているが、俺はやはり細麺が好きだ。このぷちぷちと麺を噛み切る感触は、脳内の麻薬物質を分泌させる。
そういえば、魚介系ラーメンを最近はよく見かけるのだが。俺はあれがちょっと苦手だ。というのも、どこもかしこも似たような味なのである。最初に食べたときは新しいし美味いもんだから、すげぇラーメンが出てきたぜとテンションを上げたものだ。だが、あそこまで画一的な味の店が建ち並ぶと、何か大事な文化が壊れていってる気さえする。
とりあえず、魚粉をかけてれば何とかなるんじゃない? という考えはそろそろ止めて欲しい。ぎょふんぎょふんしてるラーメンとつけ麺は、ちょっと食傷気味である。
ちなみに、まだ魚介系ラーメンを食べたことがないという人は、一度是非食べてみて欲しい。どこで食べても、たいてい美味いから。
「くそっ。あちっ。あついっ」
はふはふと俺がラーメンを楽しんでいると、隣から悲痛な声が聞こえてきた。何事だと横を向けば、リリスが素手でラーメンを掴もうとして悪戦苦闘している。
「……お前。それは無理だろう。まだ箸使えないのか?」
「使えるわけ無いだろっ。あんな無茶苦茶な道具。くそっ、だめだ熱いっ」
指先が赤くなっているリリスを見て、俺はさすがに可哀想だと店主に声をかけた。
「すいません、フォークありますか? ちょっとこの子外国の子で」
店主も涙目のリリスに気が付いたのか、すぐにフォークを持ってきてくれる。意外と多いんですよーと、リリスに微笑みながらフォークを手渡した。流石はラーメン。ワールドワイドだ。
「ふー。ふー」
先ほどの熱さを警戒してか、リリスはフォークに巻き付けた麺をふーふーと口で冷ます。何というか、悪魔ってこんな貧弱な存在なのだろうかと少し切なくなった。
「むぐっ。んむんむ。……うめぇ!」
ラーメンをついに食べたリリスが、ぱぁと華やいだ表情を俺に向ける。そうだろうと、俺も自慢げに首の角度を変えた。
「そうだ。スープはあんまり飲むなよ。二杯目の分がなくなるからな」
うめーうめーとスープを丼から飲んでいたリリスに、俺はちょいと注意する。その間にもずるずると食べていた麺は、そろそろなくなりそうだ。
ネギとメンマはほとんど消えてしまったが、三枚あった叉焼はまだ二枚残っている。俺はそれを満足そうに眺めると、あらかじめ用意しておいた一〇〇円玉をカウンターの上に置いた。
「店長、替え玉」
「あいよ、硬さは?」
「硬めで」
俺と店長のやりとりを、リリスが不思議そうな顔で見送る。追加で注文した謎の品物に、リリスは説明を求めた。
「カエダマ? 追加で食うのか」
「ふふ。まぁ、黙って食っていたまえ。叉焼は一枚残しておけよ」
まさに三枚目の叉焼に手をつけようとしていたリリスが、うぐっと手を止める。しかし、麺と一緒に食べたいのだがと表情で訴えかけた。
「あいよ、替え玉ね」
そんなやりとりの間に、かたんとカウンターに替え玉が到着する。三〇秒ほどだろうか。素晴らしい。
白ネギがちょんと盛られた替え玉を、俺は丁寧に丼に流し入れた。それを見ていたリリスが、おぉーと信じられない顔をする。
「すげぇ」
「これで一〇〇円だからな。頼まない奴は馬鹿というものよ」
昨今、ラーメンの値段も徐々に上がってきて、一杯七五〇円というのも別段高いものではなくなってきた。とはいうものの、やはり定食ほどの値段は違和感があるもので……。それを解決してくれるのがこの替え玉である。二杯で八五〇円。一杯四〇〇円少しと言われれば、気兼ねなく食べられるという物だ。
それに、替え玉には味においてもメリットが多い。
「さてさて。これに紅ショウガをですね」
がぱりと容器を開け、トングで目一杯に紅ショウガをつかみ取る。そして、それをどちゃりと丼の中に入れた。
「……美味い。最高だ」
紅ショウガを具のように麺と一緒に口に入れる。爽やかな風味が鼻を抜け、俺はその美味さに身を震わせた。
少し物足りないと考えていた塩気が、紅ショウガによって完璧に補完されている。しゃくしゃくとした歯触りも、何とも心地いい。
「素晴らしい。紅ショウガだけで、こうも変わるとは」
これこそが替え玉の醍醐味、味変えである。店によっては高菜を入れてもいいし、差し支えないならニンニクをたっぷりと入れてもいいだろう。
「あたしもカエダマおくれ」
リリスが、俺の後を追うように店長に替え玉を頼む。俺はリリスの分の一〇〇円玉をカウンターの上に置いてやった。
ずぷりと箸を入れ、とろとろの叉焼を口に運ぶ。紅ショウガの風味が残る口を、溶けるように叉焼の油が溶けてった。
「うむ。やはり二枚残しておいて正解だったか」
美味すぎる。油の固まりが、何故こうも美味いのか。動物性タンパク質。旨味成分のアミノ酸が、これでもかと俺の脳みそを揺さぶってくる。
その肉の旨味が残るうちに、ずぞぞぞっと麺をすする。美味い。本当に美味い。理屈とか関係無しに美味い。
「……もうちょっと入れよう」
おもむろに紅ショウガを追加する。確実に塩分過多だが、それがどうした。美味いもんは美味い。
近頃は健康志向だか何だか知らないが、その煽りはラーメンにも及んでしまっている。油分と塩分の固まりのラーメンは身体に悪い食べ物の代表に上げられ、特にとんこつラーメンなんかはひどい扱いを受けているような気がする。
その流れで、ヘルシーラーメンなるものも出てきた。見たことがある人もいるだろう。百貨店などのレストラン街にも進出している、あの野菜たっぷりのラーメンである。この際はっきり言わせて貰うが、俺はあの手のラーメンが嫌いだ。
そもそも野菜が食いたいならタンメンやチャンポンという選択肢が元々あるし、それ以前に身体のことを考えてラーメンを食うなと言いたい。
毎日食べるものでもないんだし、たまのラーメンくらいはがっつりといきたいものである。「へるし~。逆に身体にいいよね~」などと、顔をふるふる震わして言ってる輩を見ると、はり倒したくなる。……俺だけだろうか?
ああ、俺、身体に悪いことしてるわ。と、こういう背徳感もラーメンの醍醐味の一つだと思うのだが、どうだろう?
「うん、美味い。もう寿命が多少減ってもいい。俺は紅ショウガを入れるぞ」
寿命を犠牲にして一時の快楽を求める俺を、リリスが呆れたような表情で見つめる。長い時間を生きる悪魔には分かるまい。人間にとって、時間は有限なのだ。食えるときに好きなものを食っておく。これが、幸せに生きる一つのコツだ。
何か間違っている気もするが、俺はそんなことは脇に置いといて、追加の紅ショウガへと手を伸ばすのだった。