第02話 広島で。オフィスの地下のお好み焼き (前編)
ホテルのテーブルに備え付けられている電子時計を見て、俺は軽く息を吐いた。
午後二時十五分。おやつどきよりも前の時間に、日程が終了してしまったからだ。
「驚くほどスムーズに済んだな」
腕時計でも時間を確認して、俺は眉を中央に寄せた。
仕事の話が早く片づいたのはいいことだ。この話を纏めるために広島くんだりまで来たことを考えれば、これ以上のことはない。
しかし仕事はともかく、この後が重要だ。
何せ、本来の予定では帰りの便は明日の夜である。勿論今晩も宿を取っているし、どうしたもんかと俺は頬を掻いた。
会社に電話して事情を話せば、そのまま明日は自由にしていいらしい。寧ろ上手く纏めたことを誉められたくらいだが、見知らぬ土地で自由時間を貰っても少し困る。
それならば今日のうちに帰りたいものだが、電車や宿の都合でそうもいかない。何処で暇を潰せばいいのやらと、俺はテーブルの上の観光案内を手に取った。
「広島ねぇ」
有名どころといえば、宮島だろうか。牡蠣にお好み焼き。もみじ饅頭なんてものもあった気がする。
大切な場所には違いないが、原爆ドームを見やる気分にはならないし、今日の所はお好み焼きでも食べに出るのが良さそうだ。
「おっと」
そんなことを考えているうちに、腹の虫が鳴き始めた。忘れてはいない。話を一気に纏めたせいで、昼すらまだなのだ。
俺はコートを羽織ると、おもむろにカードキーも方へ歩き出した。
ーー ーー ーー
空を見上げれば、ビルの間に綺麗な青色が覗いている。
歩道を宛もなく歩きながら、俺はとりあえず大通りの方へ歩いていた。
「お、路面電車か」
大通りの車道の中央を、ゆったりと走っていく電車を見つめる。車の群の中に電車がいる光景が面白くて、俺は小さな車両を見つめた。
本当に車と一緒に走っている。信号でちゃんと止まるし、なんだか可笑しな感覚だ。
路面電車自体がどれだけ珍しいかは知らないが、慣れない者から見れば十分奇妙な風景である。
乗ってみたい気にもなったが、正直行きたい場所も分からない。どうせなら目的地をしっかり決めた後で乗ろうと、俺はあえて大通りから離れるように足を向けた。
静かな方向へ進んでいくと、どうやらオフィス街に出たようだ。幾人か忙しなく動いているサラリーマンを除いて、一気に人通りが少なくなる。
車が少ないのはいいやねと、俺はのんびりとオフィスのビル群を見上げた。
当たり前だが今の時代、何処の県にだって高層ビルは存在する。
自分が初めて都会に出た時のことを思い出して、俺はくすりと笑みを浮かべた。あのときは、地元のいくつかの高層ビルが心の支えになったものだ。
あれがいっぱいあるだけ。あれがいっぱいあるだけ。そう心の中で唱えつつ、平静を装っていた。まぁそれも、地下鉄の駅で迷子になるまでの間だったが。
「……ん? この匂いは」
足を進めていくと、香ばしい匂いが鼻に香った。腹を刺激するこの独特な焦げの匂い。間違いなくソースだ。
しかし、何処から漂っているのかが分からない。間違いなく近くのはずだが、辺りを見渡しても暖簾の一つも見つからなかった。
看板も、道にはなし。顔を上げてみても、特に飯屋の文字は掲げられていない。
「あそこの中からじゃねーか?」
「むっ、確かに。……って、おい」
指された指先の方向に鼻を向けると、確かにビルの入り口の隙間からソースの匂いが漂ってきていた。しかし、それよりもと俺は傍らをじとりと睨む。
「急に出てくるな。びっくりするだろうが」
「そろそろ慣れてくれよ。ってか、今日はいつもと場所が違うな」
飄々と笑いながら、リリスは不思議そうに辺りを見渡した。驚いたように、俺もリリスに聞き返す。
「出張してるからな。というか、分かるのか?」
「そりゃあねぇ。ま、日本の中ならおーけーだ」
どうやら、リリスは自分が何処にいるか把握しているらしい。まぁ、それくらい出来なければ悪魔なんてやっていけないということだろうが。
GPSいらずだなと、俺はリリスの能力に初めて感心する。
「ちょうどいい。美味い店とか検索できないのか?」
「あんた、悪魔を何だと思ってるんだよ。無理に決まってるだろ」
呆れたようなリリスの表情に、俺はがっかりして息を吐いた。悪魔だのなんだの言っていても、ネットの評価サイトやカーナビに劣るようでは話にならない。
「まぁ、端からお前には期待していない。仕方ないから、あの店で食べるぞ」
「いいけど。相変わらず凄ぇな。記憶消されてた人間の発言じゃねーよ」
リリスを無視しながら、匂いの元へと俺はさっさと歩き出した。すでに三時が迫っている。急がないと、昼営業が終わりはじめる時間帯だ。
ーー ーー ーー
扉を開けると、芳醇なソースの香りが俺たちを出迎えてくれた。
どうやら地下にお好み焼き屋があるらしく、階段の横には色紙で作られた看板が張り付けられている。
階段を下りてみれば、年期のこもった色の暖簾が目に入った。どうも、このビルが出来たときからの付き合いのようだ。
汚く色変わりした黄色い暖簾の奥には、こんな時間だというのに数人のサラリーマンがお好み焼きをつついている。
社員専用じゃないだろうなと心配しながらも、俺は暖簾を潜って店に入った。
「すまない。部外者でも構わないかね?」
「あっ、いいですよー。おひとりですかー?」
常連の顔は覚えてしまっているのだろう、恰幅のよい女将がスーツ姿の俺を見て微笑む。近くのビルの社員とでも思ったのかもしれない、俺に続いて入ってきたリリスに、女将は驚いたように口を開けた。
「ふたりで」
「あ、はい。二名様ですねーっ」
くんくんと鼻を鳴らしているリリスを不思議そうに見つめながら、女将は自由に座っておくれと口で伝える。
見れば奥に一席だけある座敷のちゃぶ台席が空いているが、そこにしようか悩んでいるうちにリリスがカウンターに座ってしまった。
「そこでいいのか?」
「ん? いいよ。ほら、すげぇぜ」
フリル満載の服装で器用に丸イスに腰掛けるリリスの声に、俺は厨房へ目をやった。
「ほぅ。確かに、こういうのもいいな」
見れば、鉄板の上では音を立てながら焼きそばが踊っているところだ。ライブキッチンというほど洒落たものではないかもしれないが、これはこれで味があっていい。
リリスの横に座りながら、俺は目の前のメニューを見つめた。
変色したセロテープでカウンターに張られた厚紙。勿論、赤と黒のマジックで一発書きだ。
「広島風かぁ」
無論、お好み焼きを頼むつもりである。
しかし、この広島風のお好み焼き。実はあまり食べたことがないのだ。以前、チェーン店のお好み焼き屋で食ったときはイマイチだったが、本場だとどうだろうか。
とはいえ、メニュー自体に関西風が存在しない。そばとうどんのチョイスが出来るが、ここまで来てそばを頼まないというのもないだろう。
「おっ、牡蠣があるな。お前もこれにするか?」
ふと、壁に張られてある画用紙に目が止まる。そこには、牡蠣始めましたの文字。期間限定なのだろう。書かれている日にちを見れば、始まってそこそこ経っているようだ。
うむ、これがいい。広島で、お好み焼きに牡蠣。これ以上の選択はない。
例によって任せると腕を振るリリスに、俺は頷いて女将を見つめた。
「あぁ、すみません。無くなっちゃったんですよ。すいません」
すると、俺達の会話を聞いていた女将が申し訳なさそうに頭を下げてくる。ありゃりゃと注文の口が止まるが、そもそも遅れぎみにやってきたのはこちらだから文句も出ない。
「んー、なら無難に行くか。お前、海老と豚どっちがいい?」
「エビがいいな。というか、どっちも食いたい」
メニューを再度見つめる俺に、リリスが楽しそうに手元を覗き込んできた。写真も何もないメニューに、読めねーとリリスはけたけたと笑う。
リリスのリクエストに、俺はメニューの端のトッピングの欄を見つめた。どうやら、海老でも豚でも付け足せるようだ。
都合がいいと、俺は女将に向かって指を上げた。
「広島の豚に海老を加えたのと、僕のは牛スジで」
「はいよー。豚海老に牛すじね」
女将の返事を耳に入れつつ、俺は水の入ったグラスを口に付ける。牛すじ玉。関西風なら好物だが、広島風だとどうなんだろう。まぁ、悪いようにはならないだろうと思い、俺は女将の手元に目を落とした。
「おお、すげー」
女将が、リズミカルに卵を二つ鉄板の上で割っていく。瞬時に丸く伸ばされる卵に、俺は小さく唸りを上げた。
卵の上に載せられていく山盛りのキャベツに、思わず軽く身を乗り出してしまう。あんなに乗せて大丈夫なのだろうかと、少し心配だ。
キャベツの上に、ぱらぱらと揚げ玉が振りかけられていく。いや、形から見るにイカ天のようなものだろうか。とにかく美味そうだ。
そのキャベツ盛りに平行して、鉄板の上では豚肉と海老もじゅうじゅうと美味そうに音を立てていた。俺の牛すじはすでに火を通しているせいか、出番はまだ先らしい。
「うまそうだなっ!」
「ああ、たまらんな」
二人して厨房に身を乗り出す奇妙な二人組に、常連とおぼしき男が眉を寄せる。まあ、当然だろう。俺だけならともかく、リリスの風貌。商談相手ではなさそうだ。
しかしそんな視線は気にしていられないと、腹の音が激しさを増していく。
言ってしまえば、卵とキャベツを焼いているだけでこれなのだ。生地が出来てソースでもかけられた日には、失神してしまう。
「焼いて貰えるのはありがたいな」
本当に心の底からそう思った。自分で焼く場合、我慢できずに途中で食べてしまうかもしれない。
早く焼きあがってくれと祈りながら、俺は腹の足しにもならない水を口に付けるのだった。
ーー ーー ーー
「おお。……おお」
目の前に置かれたお好み焼きに、俺はごくりと唾を飲み込んだ。
そりゃあ、唾も出る。
あれほど山盛りだったキャベツは、いつのまにかその高さを数センチまで低くしていた。驚きの光景だが、キャベツの隙間から覗くそばの麺は、目の前の料理が注文した品であることを物語っている。
「ソースは、たっぷりだな。マヨネーズをかけよう」
「お、あたしにもくれよ」
光り輝く茶色いソースの香りを楽しみながら、俺はマヨネーズのボトルを手に取った。口に四つほどのノズルが付いていて、ボトルを握りしめれば細長いマヨネーズの線が美しく描かれる。
少しぐねったが、まぁ味に問題はない。リリスにマヨネーズを手渡し、俺は青海苔に手をかけた。
そのまま、薬味を全てソースの上に振りかける。
「ああ、もう限界だ。食うぞ」
小さめのヘラで、お好み焼きに切れ込みを入れていく。一度で細切れにしてもいいが、こういうのは食べる分だけを直前に切り分けるのが美味しく食べるコツだ。
まずは端っこからと、俺は少し焦げ目の入ったそばの部分を切り取った。勿論、ソースもマヨも抜かりはない。
「はふっ。……んっ、んんっ!?」
熱い。熱々だ。しかし、そんなこと関係ない。
美味いっ。単純に美味いっ。
「こいつぁ、予想以上だぞ」
ベタな表現だが、何処かふんわりと甘みがある。おそらく、この極限まで凝縮されたキャベツの甘みだ。何処に消えたかと思ったら、ちゃんとここに居るじゃないか。
端っこだから、これでもまだキャベツくんは少な目だ。しかし、何よりもそばの香ばしい触感が舌を打つ。
焼きそばを想像していたが、少し違う。この店が独特なのか知らないが、ぱりぱりとかた焼きそばのようだ。
これがまた、ソース味に合う。
きっと、塩胡椒か何かで作っても、それなりに美味いのだ。しかし、違う。この料理は、ソースじゃないと駄目なのだ。
「はふはふっ。美味いっ」
「あたしのもうまいぞっ」
横を見れば、リリスも必死に頬にお好み焼きを入れている。上手く熱を逃がせないのか、熱がりながらもほふほふ口を動かしていた。
そういえば、俺とリリスのお好み焼きは別味だ。その大本になっている牛すじを切り口の中に発見し、俺はその周りをヘラでえぐり取る。
「ふあぁ」
口に入れて噛みしめた瞬間、思わず溜め息が出た。何だこの肉の味は。最高じゃないか。
すじ肉特有の、しっかりしているのに何処かとろりとした部分もある。噛む度に、じゅわぁと肉の味が口に広がった。
何が凄いって、肉の味がソースにもマヨにも負けていない。こんなことってあり得るのか。美味すぎる。
「そういえば……」
そこで、ふと遠い昔の会話を思い出した。
確か、偶然知り合った友人が広島の奴だった。そいつが飯の席で、関西風のお好み焼きをお勧めの食べ方で食っていたのだ。
そいつは、広島風でやるともっと美味いんだがと言っていた。
「お、本当にあった」
きょろきょろとカウンターに目を配り、お目当てのものを発見する。
赤いキャップに本体。件の調味料を取ると、俺は恐る恐るソースの上に振りかけた。
ちょっと怖いので、端の一角にだけ七味唐辛子を振りかけていく。確か、ソースが満遍なく赤くなるくらいだ。
急に七味をかけだした俺を、リリスが興味深げに見つめる。俺よりも辛いものは得意なリリスだが、ひとまずは様子見をするらしい。
「……いざ」
結構かけたなと、俺はどきどきしながらお好み焼きを口に運んだ。鼻をつく七味の風味に、思わず目を瞑る。
「んっ? んんっ! 美味いっ!」
そして、もぐもぐと咀嚼をした後に俺は叫んだ。
額から俄に汗が滲み出る。舌にもぴりぴりとした刺激が残っている。
しかし、美味い。これは美味い。
「おお、やってみるもんだな。凄く美味いぞっ」
「ほんとかっ?」
俺の顔が華やいだのを見て、リリスが七味の容器に手を伸ばす。
七味を振るリリスの傍らで、俺は七味味のお好み焼きを食べ進めた。
牛すじにして正解だ。まず、牛すじに七味自体が合う。
ソースの新しい可能性に胸を躍らせながら、俺はお好み焼きに切れ目を入れた。
「いやぁ、広島ってのはいいところだな」
目の前に広がる味に思いを馳せながら、俺はヘラを持つ手をぴたりと止める。
「うまいところだなっ」
「はは、そうだな。美味い所だ」
リリスからトスされた七味を受け取りつつ、俺はにやりと笑みを浮かべた。
そう、美味い場所だ。楽しみで仕方がない。
何せ、明日もまだ何かをこの地で食うのだから。




