第01話 振られた夜に。小洒落た店のチキン南蛮丼
「あの、誠一郎さん」
助手席から声が聞こえ、俺は前を見つめながら小さく呟いた。
運転中だという俺の気持ちが伝わったのだろうか、沙織はそれ以上の言葉を止める。
ちらりと確認してみると、沙織は悲痛そうな顔で組んだ指を見つめていた。
さすがに重くなった空気を不思議に思い、どうしたと沙織に声をかける。
「浮かない顔だな。……肉の気分ではない、とか?」
沙織が肩を落としている理由が思い当たらず、俺は考えられる可能性を探して口にする。これから行こうとしている店は、女性にも人気のカフェレストランだ。
腹の調子でも悪いのかと思ったが、女性に直接聞くのは紳士の嗜みではない。少し遠回しに、俺は沙織に腹具合を聞いてみた。
そんな俺の気遣いに、沙織は深く溜め息を吐く。あまり見ない光景だ。いよいよ体調が優れないのかと、俺は助手席に意識を割く。
赤信号で止まったのを見計らって、俺は沙織の方へ顔を向けた。
そこには、ふるふると両手を握りしめて何かを耐えている沙織の姿がある。
「誠一郎さんは、私のことどう思ってます?」
俺が何か声をかける前に、沙織の唇が小さく動いた。絞り出すようなその声に、俺は訳が分からず首を傾げる。
「どうって。……いい友人だが?」
沙織と一緒に飯を食いに行きだしてから、四ヶ月程。おかげで随分と夕食の幅が広がった。以前は行けなかった女性向けの店にも足を運べるようになったし、感謝していると俺は沙織に笑顔を向ける。
しかし、顔を上げた沙織の表情は笑顔とはほど遠いものだった。
「飯食べ友達としてでしょうっ!!」
突然車内で大声を出され、思わず身体がびくりと跳ねる。こんな大きな声は初めて聞いたと、俺は目を見開いて沙織を見つめた。
「きゅ、急にどうし……」
「もういやっ!! どこに行っても、ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯っ!! 食べること以外はどうでもいいんですかっ!?」
頭をかきむしる沙織を、俺は呆然と視界に映す。
これが、あの沙織だろうか? 随分と豪快になったものだと、俺は何処か現実味のない映画のように沙織を眺めた。
「映画に行ってもご飯っ! カラオケに行ってもご飯っ! 終電を逃せば、バーでご飯っ! も、もういやっ! もう無理っ!」
はあはあと息を荒くする沙織に、何か鬼気迫るものを感じて俺は背中を震わせた。
鋭く俺を睨むと、沙織はがちゃがちゃとシートベルトに手をかけていく。
「お、おい。なにして……」
「帰りますっ! もう誘わないでくださいっ!」
そう叫ぶと、俺の制止も聞かずに沙織はドアに手を向ける。車外に出るつもりだと気がつき、俺は慌てて前の信号を確認した。
「って、うおっ!」
その瞬間、背後からけたたましいクラクションの音が鳴り響く。沙織もその警告音に身を固め、俺は取りあえずシートベルトを締めるように促した。
「ひ、ひとまず何処かに止めるからっ。話はそこで聞くっ」
頭上に輝く青信号に、俺は慌てたようにアクセルを踏みしめた。
ーー ーー ーー
「……取り乱して、すみませんでした」
とある駐車場に止めた車の中で、沙織は罰が悪そうに呟いた。
勢いで出て行こうとしたのに、結局無言のまま五分ほど走行したのだ。真っ赤にした顔からは、沙織の羞恥の程が伺える。
恥ずかしそうに顔を歪まして、沙織はそれでもシートベルトに手をかけた。
「あの、その……」
「誠一郎さんは、私のこと好きじゃないですよね?」
何か声をかけねば。そう思った俺よりも先に、沙織は胸に手を当てて呟いた。予想していなかった言葉に、俺の喉が動きを止める。
「そ、そんなこと……ない、ぞ?」
必死に、口を動かす。困惑している俺の顔を見て、沙織はにこりと静かに笑った。
その笑顔の意味が分からずに、俺はただただ沙織の表情を見つめる。
「途中から、分かってたんですけどね。いいんです。私が勝手に近づいて、勝手に振られただけですから」
悲しそうに笑う沙織の目を、俺は口を開けて眺めていることしかできない。何となく、ああ終わったんだなとだけ理解できて、胸の奥がちくりと痛んだ。
「今まで、ありがとうございました」
がちゃりと、ドアが開いていく。腰を上げた沙織に、俺は小さく手を伸ばす。
「あ、その。それじゃあ」
それじゃあ、また。そう呟こうとして、それは無理だと思いとどまる。気が付いた沙織が最後に可笑しそうに笑って、俺の方へ少し屈んだ。
着飾られた服の胸元から、沙織の胸の谷間が露わになる。そういえば、随分と大胆な格好だなと、俺はぽとりと口を開いた。
「あ、服。……似合ってる」
「ふふ、もう。遅いですよ」
ただ、それでも嬉しそうに胸に手を当てながら、沙織はにこやかな笑顔を俺へと向けた。
「それじゃあ、また明日」
その言葉が、昨日までと違う意味だと分からないほど、流石にそこまで愚かではない。
颯爽と名前も知らない駅に向かって歩いていく沙織に、俺は今更になって手を振った。
ーー ーー ーー
「まいったな」
一人になった車の中で、俺はぽつりと呟いた。思い返さなくても、沙織の言うことは尤もだ。
初めて楽しく食事が出来る知り合いが出来たものだから、年甲斐もなく調子に乗ってしまった。
沙織と食事をしている時間は幸福で、知らないはずなのに、何処か抗
い難い懐かしさを覚えてしまったのだ。
「……悪いことをした」
がしがしと頭を掻く。もう少し彼女のことを見ておくべきだったと、今更ながらに後悔した。
「さて、どうするかな」
しかし、考えていても仕方がない。追いかけることなど出来ないし、言ってしまえば、もうどうしようもない。
がさりと座席の脇に隠していた雑誌を取り出して、角を折ったページを開ける。
そこには、美味しそうに輝くチキン南蛮が飾られていた。
『私、タルタルソース大好きなんですよ』
そう言って笑っていたのは、何ヶ月前だっただろうか。
もう一日早く決めていれば。行き先を黙っていなければ、また違っていたかもしれない。
しかし、それも詮のない考えだと、俺は雑誌を助手席へと投げ捨てた。
流石にこのままチキン南蛮を食べに行くわけにはいかない。そもそも、一人では入りづらい店だから沙織誘ったのだ。
独り身は独り身らしく、牛丼かラーメンでも食って帰るかと、俺は車のハンドルに手を伸ばした。
「んー、どうした? この写真の奴を食いにいくんじゃないのか?」
そのときだ。車の助手席から突然声が聞こえてきた。
俺は驚いて、その声のする方向に顔を向ける。
「ししし。久しぶりだな」
悪戯っぽく笑いながら、一人の少女が隣の助手席に脚を組んで座っていた。
先ほど放り投げた雑誌を手に取って、角を折ったページを愉快そうに眺めている。
美しい少女だ。まさに美少女と言っていいだろう。薄暗い車内でも分かる、綺麗な銀髪。幼さが残る表情に似合った、日本人離れした顔の作り。
髪に赤い花を付け、その身は黒いフリルに包まれている。ゴシックロリータとでも言うのだろうか。詳しくは知らないが、目の前の少女にはよく似合っていた。
しかしながら、その美麗さを誉めている余裕はない。突然出現した少女に、俺は叫ぶのも忘れ間抜けな声を吐き出していた。
「なっ、だ、何処からっ」
少女に視線を向け、その身体をまじまじと見つめる。
明らかに異常事態だ。沙織が車を出て行ってから、俺はドアが開く音も閉まる音も聞いてはいない。
この少女はいったい何処から現れたというのか。最初から車内に潜んでいたとは考えにくい。
俺は、幽霊でも見つめているような瞳で少女を見やった。その視線に、少女が可笑しそうにけたけた笑う。
「ぷっ、ひひひ。どうしたセイイチロー。まるで悪魔でも見たような顔だな?」
「あ、悪魔?」
少女の笑い声が、狭い車内に木霊する。何処か懐かしさを感じるその声に、俺は身体ごと少女の方へ振り向いた。
「き、君。何処かで……?」
「おいおい、君なんて他人行儀だなぁ。あんたとあたしの仲じゃないか」
にたりと、少女が笑いながら雑誌を脇に放り投げた。シートの上で胡座をかきながら、少女は俺の方へ身体を向ける。
正面から相対した少女の瞳は、妖しく光り輝いていた。
「あたしがせっかくお膳立てしてやったのに。ほんと、雌のことがてんで分かっちゃいねー」
何を言っている。そう言おうとして、けれど言葉が出てこない。喉が渇ききっている。少女の小柄な体格。危険はないはずなのに、何故か俺の背中に汗が流れた。
「こっちにも意地があるんでな。あんたの願い、叶えさせて貰うぜ」
そう言うと、少女は指をぱちんと鳴らした。
音が目の前で弾け、俺の意識が白く染まる。
ゆっくりと視界が回復していく。段々と精彩さを取り戻していく意識の中、俺は目の前の少女の顔をぼんやりと見つめた。
心底と楽しそうに笑った少女の顔には、「久しぶり」と張り付いている。
「リ、リス?」
「おう。久しぶりだな、セイイチロー」
勝手に唇からこぼれた名前。それに嬉しそうに歯を見せながら、リリスはへへへと右手を挙げた。
思い出していく記憶を頭の中で回転させながら、俺は頭痛でもしているかのように頭を押さえた。
どっと疲れが出た俺の肩に、リリスがけたけたと笑いかける。
ーー ーー ーー
「どういうことだ? 説明しろ」
アクセルを踏みしめながら、俺は横で笑っているリリスに質問した。
完全に思い出した記憶に、今までを振り返ってみる。どうも、俺はこいつのせいで色々と面倒なことになっていたようだ。
「説明っていってもさー。そのまんまだよ。あんたの記憶を消して、さよならしたつもりだったんだ」
雑誌のページを指でめくりながら、リリスは料理の写真に目を落とす。ステーキ特集で指が止まり、期待を込めた眼差しで俺の顔を見つめた。
「ステーキなら、今日は食わんぞ。この前、沙織と食ったばかりだからな」
赤信号を視界に納めて、俺は車の速度を落としていく。リリスはシートベルトを邪魔そうに眺めながら、残念そうにステーキのページを閉じた。
「サオリっていったっけ? いい雌だったのにさ。もったいないぜ、ほんと」
そして、文句でもありそうに頬を膨らます。そんなことを言われても、男女の関係とは難しいものだ。奢ってようが割り勘だろうが、怒られるときは怒られる。
「俺も反省はしてるよ。ま、そう傷口を抉らんでくれ。悪趣味だぞ」
「はは、相変わらずだな。こりゃ雌にモテんわ」
リリスの発言に心外だと眉が動くが、沙織のことを考えれば言い返せないのが辛いところだ。言われてみれば、高校のときも大学のときも、社会人になっても、恋人と別れる原因は飯だった気がする。
「一人で飯を食うのが好きだったんだよ。沙織は、一緒に食ってるから大丈夫だと思ってた」
「大丈夫なわけないだろ」
呆れたようなリリスの声に、俺は反論したくなって口を開きかける。しかし、リリスも悪魔とはいえ性別は女だ。たぶん、リリスの言うことのほうが正しいのだろう。
女心とは何と難しいものよと、俺は見えてきた目的地に腹の音を鳴らすのだった。
ーー ーー ーー
「ようやく座れたな。……カップルか女子会ばかりだが」
案内された席に腰を下ろして、俺は店の中を見渡した。
木造りで観葉植物がいっぱいの、目に優しい感じだ。店内中に洒落た音楽が奏でられていて、照明も無駄に薄暗い。
それにしても女性ばかりだなと、俺は辺りに気を向ける。これは一人で来ないで正解だった。浮いてしまうどころの話ではない。
「何食うんだ? ま、あたしはなんでもいいけどさ。できれば肉がいいな、肉が」
やけにフカフカするソファーに座りながら、リリスは胡座を書いてメニューを俺の方に放り投げた。任せるということだろう。
少しだけ低いように感じるテーブルからメニューを受け取りつつ、俺は目当ての料理を探し始める。予め食べるものが決まっているというのも、俺にしては珍しい。
黒字で大きく書かれた文字を見つけ、ほっとしたように息を吐いた。これがなければ、来た意味がない。
他にも気になる名前もあることだし、いくつか頼んでみるかとメニューに目を落とす。
「注文いいかな?」
あらかた決まったところで、俺は水を持ってきた店員に声をかけた。店員が笑顔で伝票を取り出し、俺が口にするメニューに耳を澄ませる。
頭の後ろで腕を組んでいるリリスに軽く目をやる店員に、俺はとりあえずの注文を読み上げる。
「チキン南蛮丼を二つ」
「はい、チキン南蛮丼をおふたつですね」
店員が電子伝票を操作し、俺はそれにこくりと頷く。復唱されたメニューを聞きながら、俺はぺらぺらとメニューをめくっていった。
「それと、このイベリコ豚と温泉卵のサラダと、ホタテと温野菜のマヨネーズ和え。あと、ポテトフライのアボカドディップと……」
「えっ? あ、ちょ、ちょっとお待ちくださいっ」
次々と指さしていく俺の声に慌てたように、店員が急いで電子伝票の画面を押していく。俺は更に二品ほど頼んだ後、リリスに開けたページを見せつけた。
「お前も、何か食いたいもんあれば頼んでいいぞ」
「んー、写真が付いてるのが少ないよ。あたしが好きそうなのないか?」
リリスの困り顔に、店員がちらちらと俺とリリスを交互に見やる。店員の視線は無視しながら、俺はぺらりとページを一枚めくった。
「そうだなぁ。……おっ、ラムチョップとかあるぞ。子羊の肉」
「おー、羊か。大人の羊なら供物で食ったことあるぞ。それにしてくれよ」
俺の言葉にリリスが姿勢を前傾に変える。ならそれにするかと、俺は驚いている店員にメニューの文字を指さした。
「このラムチョップ、何本くらい入ってる?」
「えっ、あ、はい。二本です」
「じゃあ、ラムチョップ二つ。四本ね」
立てられた四本の指に、店員が唖然とした顔で俺の顔を見つめていた。
店員がキッチンに戻っていった後、リリスはにやけた顔で俺に声をかけてきた。そのからかうような声に、俺は何だよと目を向ける。
「んー、あんたにしても、よく頼んだなって」
「あのな、俺はついさっき振られたんだぞ。やけ食いくらい大目に見ろよ」
まったく、デリカシーのない奴だ。そういう瞳を向けると、リリスは愉快そうにグラスの水を口に含んだ。
「あのサオリっていったか? いい雌だったじゃんか。あんたには勿体ないくらいだったのに」
「だから振られたんだろ」
リリスの疑問に、苦々しく返答する。なるほどとリリスが手を叩き、俺は深く尻をソファーに沈めた。
はぁと溜め息を吐く俺に、リリスが楽しそうに笑みを向けてくる。こいつは、いったい何が楽しくて俺をからかっているというんだろう。
「何処かに、一緒に飯だけ食ってくれる女性はいないものかね」
そんな俺の言葉に、リリスがぴくりと眉を寄せた。何か言いたそうな表情に、俺はリリスの全身を眺める。
「お前は、女とは言わん」
「ひでー」
そう言いつつもけたけたと笑うリリスに、俺は小さく微笑むのだった。
ーー ーー ーー
口の中に広がるチーズの風味を楽しみながら、俺はフォークを温泉卵に挿入した。
ぷつりと卵の膜が割れ、中から黄色い中身が流れ出てくる。とろりとした黄身をベーコンに纏わせながら、俺は厚切りのベーコンごとサラダをフォークで突き刺した。
「ああっ! なんで割っちゃうんだよ。あたしが割りたかったのに」
「知らん。俺は俺の好きなタイミングで割る」
そのまま口に運ぶ俺を見ながら、リリスが悲痛そうな声を上げる。それを無視して、卵とサラダを混ぜ合わせていった。うむ、混ぜた方が美味い。
「むぅ。……あっ、これうめぇ」
ふてくされていたリリスが、ポテトフライを口にした瞬間に顔を綻ばせる。見れば、揚げたてのポテトがホクホクと湯気を立てていた。
俺の好みの細切りではなく、ジャガイモの形が残っている厚切りタイプだが、おかずとしてはこちらの方がいいだろう。
ひょいと摘んで、アボカドのソースをディップする。口にくわえれば、熱々の刺激を冷えたアボカドが包んでくれていた。わざと冷やしているのか、口の中に広がる熱さと冷たさが、味もさることながら楽しい感じだ。
「美味いなここ。人気なわけだ」
雰囲気は小洒落たカフェレストランだが、随分と料理がしっかりしている。アラカルトでこれなら、人気メニューはまず外れないだろう。
期待に胸を膨らましている俺の元へ、大きな皿を二つ載せた店員が近づいてきた。すでに狭くなったテーブルに、俺は皿を移動させてスペースを作る。
「ありがとうございます。チキン南蛮丼です」
ごとりと置かれるお目当ての器に、俺は身を乗り出した。
「おお……」
思わず声が出る。
素晴らしい。見ただけで分かる。これは美味い。
カフェらしく、浅いが大きな器。薄く盛られたライスの上に、大きなチキン南蛮が豪華に四枚、どしんと盛られていた。
女性向きとは思えない重量感だが、それだけではない。喉をごくりと鳴らしてしまったのは、チキン本体ではなく、その上にかかっているもののせいだ。
「凄いな。見ろ、このタルタルを」
震える手で箸を持ちながら、器の上のタルタルソースを指し示す。
自家製。そんな言葉が脳裏をよぎった。
大きくぶつ切りにされたタマゴ。こちらもやや大きめに切られたピクルスは、キュウリとオニオンだろうか。
タルタルソースというよりは、もはやタマゴサラダに近い。粗めに混ぜ合わせられたペッパーも、このタルタルがこの店の厨房で作られたことを主張していた。それがチキンの半分が隠れんばかりに、乗せられている。
たっぷりとタルタルをチキンで掬いながら、俺はチキン南蛮を口に運んだ。
「んむっ。……美味いっ!」
叫ぶ。美味い。美味いぞ。このタルタルソースは美味い。
マヨネーズも無駄に酸っぱくなく、とてつもなくクリーミーだ。おそらく、マヨネーズソース自体が自家製なのだろう。
故のパンチの弱さを、ピクルスの酸味と触感が補っている。しゃくしゃくとした歯ごたえ。ともすれば油っこいチキン南蛮を、見事にあっさりと食べさせてくれる。
あと、素直にピクルスが美味い。子供の頃には分からなかったが。そう、ピクルスは美味いのだ。
「うまいっ! うまいなっ!」
目の前で、がつがつとリリスもチキン南蛮丼を平らげていく。スプーンを使っているのは、白飯があるからだろう。
「この白いのうまいなっ。初めて食べた」
「ん? お前、とんかつのときに海老フライ食ってるだろう」
リリスの笑顔に、しかし俺は疑問を向ける。
記憶を思い出した今となってははっきりと覚えている。こいつと初めて外で食ったとんかつ屋。あのとき、俺はタルタルソースを食べさせるために、こいつにわざわざ海老フライの残りをやったのだ。
おかげで海老フライを食い損ねたのを思いだし、俺は遺憾だとばかりにリリスを睨みつけた。
俺の指摘に、リリスが驚いたように皿を見つめる。
「これが? ああ、言われてみれば似てるかも」
どうやら、リリスはこの店のタルタルがとんかつ屋のものと同じものだと気づかなかったらしい。
その表情に、俺は少し納得したように器に目を落とす。
確かに、この店のタルタルソースは絶品だ。これだけ具が主張してくるタルタルソースはそう食えるものではない。
「タルタルだけでもいけるな」
試しにタルタルソースだけを白飯に乗せて口に運んでみた。結果は言葉の通りだ。
まるで、タルタルソース自体がおかずを張れる存在感。それが、チキン南蛮の上にたっぷりかかっているのだ。美味くないわけがない。
「米が少ない気もするが、まぁこんなもんか」
みるみるうちに減っていくライスに、俺はうんうんと頷く。ここら辺はお洒落なカフェらしい慎ましさだ。実際、これで米が多ければ大変なカロリーになってしまうだろう。
「ま、気にしないんですけどね」
「うまいうまいっ!」
揚げられたポテトをタルタルソースに付けながら、俺はふふんと頬を緩ます。うーん、美味い。何にでも合いそうだ。
ホタテと温野菜炒めをフォークで突き刺しながら、俺は満足そうに目を細める。
「野菜もたっぷりだし。ヘルシーだな」
「へるしい?」
今一度食べてみれば、なるほど。確かにこの料理のマヨネーズもまろやかだ。間違いなく自家製だろう。そうでなければ、是非銘柄を教えて欲しい。
俺はホタテとズッキーニの意外な相性に舌鼓を打ちながら、リリスの疑問にもごもごと返答した。
「身体にいいってことだ」
「おお。確かに。身体によさそうだなっ」
こんなにあるもんなと、リリスは嬉しそうに目の前の料理達にスプーンを伸ばす。
リリスの言うとおり、晩飯だけで三〇品目どころか五〇品目はいってそうな案配だ。これは健康にいいと、俺もベーコンに手を伸ばす。
「まだ何品か来るからな。来たら、もう何品か頼もう」
「むぐむぐ。おう。んぐんぐ」
頬袋いっぱいにしているリリスを見やりつつ、俺は傍らのドリンクメニューに目を留めた。
しまったと、俺は自分の愚かさを呪う。ワイン。この料理にはワインが合うはずだ。
「くそう。ここまできて、酒を飲めないとは」
「むぐ? なんでだ。飲めばいいじゃん」
険しい顔をする俺に、リリスが不思議そうに首を傾けた。何も分かっていないリリスに、呆れたように溜め息を吐く。
「まったく。お前は本当に。いいか、車を運転するときは酒は飲んではいかんのだ。飲めば厳しく罰せられる」
「ふーん。変なの」
俺のありがたい講釈に、リリスは興味ないとばかりに鼻で笑った。まぁ、人間界のことを何も知らないアホな悪魔には分かるまい。
車とは凶器なのだ。ここら辺の常識は、なんとしてもぶれずに守りたいものである。
「だが俺は酒を頼むぞっ! すみませーんっ!」
「おいおい」
勢いよく手を挙げた俺に、リリスが今度は眉を寄せた。言ってるそばからかよと呆れるリリスに、俺はにやりと笑ってみせる。
「ふふ、世の中には代行というものがあってな」
「ダイコー? まぁよくわかんないけど、あたしの分もたのむよ」
リリスが再び首を傾げるが、もはや説明するのが面倒くさい。リリスもさほど興味はないのか、とりあえず俺と同じワインを所望してきた。
酒を頼むんだとメニューを見てみれば、色々と見方も変わってくる。
魅惑的な酒の肴に、俺は困ったように顎に手を寄せた。
「うーむ。甘エビのカクテルがすてがたい」
「頼もう頼もう」
写真でおすすめと書かれている桜色の身に、俺はごくりと唾を飲み込む。リリスも海老は好きなようで、テーブルの下で足をぱんぱんと鳴らした。
本当に、素晴らしい店だ。不満があるとすれば、ソファーが妙に柔らかいのと、テーブルが低すぎることくらいだろうか。
何故、こういう小洒落た店ってこうなのだろう。何だか、食べることを前提にしていないみたいだ。体感的には、八割くらいしか食えなくなる。
「今日は豪勢になってしまうな。いくべきか否か……」
「いこういこう」
そういえば、何か大事なことが今日あった気がする。
しかしそれを思い出す前に、俺の元へと店員が到着した。
飲む気まんまんでテンションを上げているリリスを対面に、俺は店員にメニューのワインを指し示す。
「後、食べ終わる頃に代行を頼みたいんだが」
それを聞いた店員が、大丈夫ですよと微笑み返した。ありがとうと頷いて、俺は携帯の充電を確認する。
画面に映し出されている通知が一瞬目に映り、そのメッセージに何故だか俺は安堵した。
息を軽く吐き出しながら、おもむろにシャツのボタンを一つ外す。
「さて、飲むか」
気合いを入れて、箸を持つ。
リリスが、空になったチキン南蛮丼の器にスプーンを置いた。
「今日は食べるぞ」
「おう」
微笑む。
なにせ、食事だけは代行が効かない。




