第26話 最後の夜に。家で食べるすき焼き
「うぅむ」
俺は目の前の冷蔵棚に視線を落とす。
睨みつけながら、じぃっと棚の中の生食品を見つめ続けた。
マグロ中トロ、七二〇円。
「むぐぐぐ……」
値段は別にいい。しかし、俺が悩んでいるのはそういうことではないのだ。
(さっきのババアに取られた奴の方がいい感じだったっ!)
悔しさで顔が歪む。泣き出してしまいそうだ。
仕事が終わり、今日は久しぶりに自炊するかとスーパーに赴いてみた。昨日テレビで海鮮丼特集をやっていて、そこで見た鉄火丼が美味そうだったからだ。
いい感じの赤身を見つけ、これにトロを加えれば完璧だなと棚を見渡したのが数分前。
そこに、明らかに他とは違う中トロを見つけた。
ひときわ輝くそれを手に取ろうとしたそのとき、悲劇は起こった。
(あんのくそババア!)
半ば強引に割り込まれる身体。何故か俺が悪者であるように睨みつけてくる目。取られる中トロ。
思い返せば、ただ少し大きいだけだった気もするが、そんなことは最早どうでもいい。
鉄火丼などと言っている場合ではない。ここで目の前の中トロで妥協しては、完全なる敗北だ。しかし、かといって中トロを取られたからという理由で今晩のメニューを変えるというのも、また敗北。
(落ち着け。三秒で立て直せ……)
すぅーっと深く息を吸う。一度静かに目を瞑り、自分と向き合う。
怒りを静め、今一度自分の現状を確認する。
鉄火丼への想い、それの必然性。それらを吟味して、俺はゆっくりと目を開けた。
「よし。鉄火丼はまた今度だ。……肉にしよう」
くるりと冷蔵棚に背を向けて、俺は魚コーナーを後にする。
別に、今日の夕飯が鉄火丼でなければならない理由は何処にもない。
「……となれば、どうするかな」
思案しながら、俺は店内を宛てもなく歩いていく。
魚の気分ではなくなってしまった。だとすれば肉だが、それでは選択肢が多すぎる。
目を止めるものも特にないようで、俺はどうしたものかと頭を掻いた。
その瞬間、俺の左腕が引っ張られる。心当たりのない感覚に、俺は驚いたように横へ振り向いた。
「へへー。今日は何食べるんだ?」
俺の袖をちょこんと持ちながら、リリスがにこにことした顔でこちらを見上げていた。その上目遣いに、俺は左腕を上げてリリスの指を振り払う。
「まったく。随分とまた、気の早いご登場だな」
「んー。なんか悩んでるみたいだったからさぁ」
スーパーの中をきょろきょろと見渡しているリリスを横目に、そういえば最初に会ったのはスーパーで買ったマグロが原因だったなと思い出す。
「マグロに縁が深い奴だな。最初に出てきたのもスーパーだったか」
「ん? いや、ここにゃあ初めて来たぜ。こんびに? ってのには行ったけど」
歩きながら話す俺に、リリスは首を傾げながら訂正した。言われてみれば、こいつが初めて出てきたのは俺の自室だった気もする。
「ああ、そうだった。思い出した。もう随分と前だからな、忘れてたよ」
「相変わらず凄ぇよな、あんた。悪魔との出会いを忘れる人間は、そう居ないぜ」
呆れたように目を細めるリリスを無視して、俺は肉コーナーに足を向ける。そんなことを言われても、実際忘れていたのだから仕方ない。
リリスをちらりと確認して、俺はなるほどと頷いた。
「それだ。お前、最初会ったときと全然違うからな。何となく思い出しづらい」
黒いゴシックロリータな服に身を包んだリリスの身体を指さしながら、俺は得心いったように口を開く。
どこから見ても外国の美少女なリリスだが、それでも初登場のときはそれなりに悪魔していた。
服も着ていなかったし、そういえば尻尾なんかも生えていた気もする。
「最初はお前、全裸だっただろ。今もアレだが、輪にかけて頭悪そうだった」
「ひでぇな。最早、雌にモテるとかモテないとかじゃねぇ」
苦々しげに呟く声に、俺はそうだそうだとリリスを見つめた。
「……見た目はマシなんだがなぁ」
「あんた、ほんと悪魔舐めてるよな。あたしが本気出せば、あんたの精気なんて一瞬で空だぞ」
やれやれと溜め息を吐きながら、それでもリリスは静かに笑う。腕を後ろに組みながら、俺を見上げた。
「まぁ、そういう人間っぽくないところが面白いんだけどさ」
「そうか? 俺は至って普通の人間だぞ」
肉のコーナーの前に立つ俺の言葉に、リリスがすぅと目を細めた。そのまま、けたけたと笑い出す。その快活な笑いに俺はびくりと身体を震わした。
「そりゃそうだ。あんたでさえ、何処にでも居る至って普通の人間だよ」
そう言うリリスの表情が心底愉しそうで、俺は小さく息を飲んだ。
銀髪の悪魔が俺へと笑う。響きわたる愉快な笑顔に、俺は慌てて視線を外した。
「きょ、今日はすき焼きにでもするか。よさそうな肉もあるし」
「お、肉か? 嬉しいな。肉は好きだ」
何故か早くなる鼓動を隠しながら、俺は国産肉のパックを手に取っていく。左右をわざとらしく見比べながら、俺は背後のリリスの声を聞いていた。
ーー ーー ーー
「ははっ。この部屋も久しぶりだなっ!」
ごろんと床で寝転び出すリリスを見つめながら、俺はやれやれとビニール袋をカウンターの上に置いた。
最初の出会いもそうだが、コンビニの時など、リリスは何回か俺の自室を訪れている。美少女が存在している部屋に違和感を覚えながら、俺はがさりとスーパーの袋を開いていった。
「今日食べるすき焼きってのは、どんな食い物なんだー?」
リビングの方から、楽しそうなリリスの声が聞こえてくる。俺は肉のパックを取り出しながら、リリスの質問に口を開いた。
「んー、何て言えばいいかな。スライスした肉を焼いて、甘辛い汁で煮た料理だよ」
「ははっ、うまそうだなっ! 期待してるぜー」
肉を焼くと聞いて、リリスが嬉しそうに声を上げる。
正直、俺もすき焼きの詳しい作り方を知っているわけではない。
関西と関東で作り方は違うという。俺も母親から作り方を学んだが、それがどちら向きなのかは分からない。
「ほれ、お前も手伝え。コンセント入れるくらい出来るだろ」
「こんせんとぉ? なんだそりゃ、昆虫か?」
戸棚から電気鍋を取り出して、俺はそれを持ってリリスに声をかけた。
しかし、どうやらこいつは予想以上に使えない奴のようだ。仕方なしに腰を屈め、俺は鍋のコンセントを穴に入れる。
「まずは肉を少し食うか。卵くらい割れるよな?」
「馬鹿にしすぎだろ。そりゃ割れるよ」
キッチンに戻って、肉のパックとタレ汁を持ち上げる。冷蔵庫を開けて卵を確認してから、俺はリリスの声に安堵した。
「野菜は、これくらいでいいか。……お前、野菜食わないよなー?」
「いらねーっ」
白菜とネギを少し盛った皿を見ながら、俺はリリスの返事に残りの野菜をラップで包んだ。あの悪魔様は、野菜はどうもそこまでお気に入りではないようだ。
「さて、始めますかね」
卵を二つ取り皿の中に置きながら、俺はよしと頷いた。
ーー ーー ーー
じゅうっと腹に悪い音が響きわたり、砂糖醤油の香ばしい匂いが部屋を包み込む。
焦げ付かないように注意しながら、俺は肉の油の匂いにごくりと喉を鳴らした。
「うすい肉だなー。大丈夫なのかー?」
「しゃぶ肉だからな。いい肉なんだぞ」
じっと鍋を見つめているリリスに、俺は集中しながら返してやる。実際、結構いい肉だ。焼きすぎては勿体ないので、俺は軽く火を通してリリスの卵皿の中に入れてやった。
そこまで火を入れていないのに、肉の表面には砂糖醤油の魅惑的な香りがこびり付いている。それを嬉しそうに吸い込んで、リリスは大きく開けた口の中に放り入れた。
「んんーっ!!」
「ふふ、美味いだろう」
肉を口に入れた瞬間に目を開いたリリスを見て、俺はにやりと笑みを浮かべる。
当然だ。俺はそこまで料理が上手い方ではないが、それでもこの調理法、この素材、美味くないはずがない。
「どれ、俺も一枚……」
焼いているだけでは我慢できない。俺も一枚だけ火を通して、それをちゃぽんと卵の海の中に入れた。
持ち上げて、茶色の肉に黄色の卵が絡みついたのを確認する。
ごくりともう一度喉を鳴らし、俺はその肉を口の中へ迎え入れた。
「……美味い。最高だ」
噛まずとも食べられるほどの柔らかさ。溶ける、というほどではない。ほのかに存在する噛み堪え。それが、儚いほどの旨味に肉を食っているという実感を与えてくれる。
「卵もいい」
高い卵を買っておいて正解だった。生で使うのもあるが、何より黄身の味が肉に負けていない。しっかりと、肉の脂を包んでくれている。
肉に砂糖醤油。酒、みりん。およそ、日本人の肉に対する探求の答えがここにある。これが嫌いな奴なんているのか。俺は好きだ。
「うまいっ! もっと焼いてくれっ!」
「ははは、まてまて。焦るな、白飯をよそってやるから」
逸るリリスに笑いながら、俺は炊飯器の蓋をぱかりと開けた。
純白の米。その美しい処女にしゃもじを入れながら、俺はふんわりとした米の香りを楽しんでいく。
「やはり、すき焼きには米。常識だな」
よそってやった分をリリスに渡して、俺は再び肉に菜箸を伸ばす。今度は二枚いっぺんに。
肉の脂が小さく跳ねるのを楽しそうに二人で眺めながら、俺は焼き上がった肉をリリスの皿の中へと入れていく。
そして、自分の皿。その卵が付いた肉を白飯の上で一度バウンドさせると、俺は肉に食いついた。
美味い。先ほどと同じ衝撃。二枚目だが、落ちることはない。素晴らしいと心の中で賞賛を送りつつ、俺は白米を口の中へと投入する。
「……っはぁ。これだよ」
あまりの美味さに、思わず溜め息も出るというもの。
肉。米。最高じゃないか。これ以上なんて要らない。
「っと、まぁ。そういうわけにもいかんしな」
肉を深く味わった後、俺はおもむろに鍋の中にタレ汁を注いでいく。いきなりタレを入れだした俺にリリスが驚き、それにふふんと鼻を高くしてやる。
「しゃぶ肉だからな。当然、しゃぶしゃぶしても食べれるというわけだ」
「しゃぶしゃぶ?」
首を捻るリリスは無視して、俺はすき焼きのタレを入れていく。しゃぶしゃぶを食べる店では、最近すき焼き風の鍋もときどき見かけるが、あれは所詮すき焼き風だ。
あれはあれで美味いが、やはり薄目のあの味付けではすき焼きにしてはパンチが足りない。
濃いめの砂糖醤油で、がつんといってこそのすき焼きだ。
「よし、野菜とか入れていくぞ」
タレが鍋に半分ほど満たされたのを確認して、俺は白菜とネギを投入する。更に、豆腐に糸こんにゃく。そして、俺お勧めの餅巾着だ。
それらを鍋に綺麗に並べ、俺はゆっくりと蓋をした。
「沸く頃には、いい具合になってるはずだ」
「へー」
一息付いた俺を、リリスが肘を付きながら見つめてくる。早く続きが食べたい思いもあるが、ここは我慢だと分かっているのだろう。
期待した眼差しで鍋を見つめるリリスを、俺はじっと見つめていた。
「ん? なんだよ」
俺の視線に気が付いたのか、リリスが上目をこちらに向ける。珍しいと思ったのだろう、リリスは胡座をかいた身体を起こしてこっちを見つめ返してきた。
くりくりとした瞳。歳は、体つきからは高校生ほどに見える。それにしてもあどけない顔つきに、俺は訳も分からず頭を掻いた。
「……ひとつ、聞いてもいいか?」
「何個でもどーぞ」
俺の質問に、リリスはにかりと笑みを浮かべる。その笑顔に、俺は一瞬だけ躊躇して、そして口を続けた。
「お前、何で俺の前に現れるんだ?」
「そりゃあ、あんたが呼ぶからだよ」
素朴な疑問。いつも通りの返答。今までは、この先を問いただしたことはなかった。
鍋が沸くまでの時間がそうさせたのか、俺はその先に踏み込んでいく。
「違う。そうじゃない。何で、俺が呼ぶと目の前に現れる?」
口に出した瞬間に、リリスの笑顔がぴたりと止まった。そのまま、笑顔はそのままに顔の角度を少しだけ変えていく。
リリスの視線が、不気味に光ったような気がした。
「お前は言ったな。俺の願いはまだ叶っていないと。それはおかしい。俺は確かにあの日、お前と食事を共にした」
覚えている。きちんと、思い出した。あの日のリリス。あの日の願いを。
『一緒に、飯を食ってくれよ』
俺は、確かにあのとき、そう言った。
その願いは、果たされているはずだ。果たされたはずだ。
「ほんと、面白い奴だよあんたは」
俺の言葉を聞いていたリリスの表情が、くしゃりと潰れた。
笑っている。笑顔だが切なそうな、不思議な顔。
リリスは、そうだなぁと頭をがしがしと掻きむしった。そして、そのまま顔を下へと落としていく。
「……願いってのは、言葉じゃないわ」
顔の見えなくなったリリスの呟き。その言葉が、俺の耳に届く。
「あれ、お前……いや、ちょっと、待て……」
何かが、違う。目の前のリリスに何か違和感を感じて、俺はがたんと腰を上げた。
中腰の身体。その俺の視線に合わせるように、リリスはゆっくりと視線を上げる。
「あたしたちは、願いを叶える。その人の心が、魂が求める願いを」
瞳。リリスの瞳が、妖しく揺れていた。
知っている。俺は、このリリスを知っている。
いつからだ。いつから俺は、俺の知るリリスと会っていた?
『へへへー。リリスちゃんだよ。あんた、またあたしを呼んだだろ?』
それは、再びの邂逅。違和感を覚えるほど親しくない、二度目の交わり。
「……お前、リリスか?」
「もちろん。リリスちゃんだよ」
にこりと笑う。妖艶な笑みだ。確かに、食い気にやられて見ていなかった。最初に出会ったこいつは、こういう笑顔をしていた気がする。
「どうしてだ?」
「もちろん、あんたが望んだから」
見透かされるような瞳。それに深く息を吐いて、俺は体重を後ろ手にかけた。一度、天井をぼうと見つめる。
「女は怖いな」
なるほどと、俺はじっと目を閉じる。
自分に問いただす。どうだったかと。――楽しかった。
もう一度問うてみる。どうだったんだと。――幸せだった。
「あれが、俺の願いか。……趣味悪いな、俺」
「おいおい、そんなこと言うなよ。さすがに傷つくぜ」
顔を上げた俺に、聞き慣れた声。やれやれと顔を起こして、俺はにししと笑うリリスを見つめた。
「あたしからも、言っておくよ。あたしは、別に幻じゃない。演技なんてものでも、勿論ない」
その言葉に、俺は僅かに目を開いた。屈託無く笑うリリスが、俺の目を真っ直ぐに見つめる。
「あたしはサキュバス。人の願いを叶える、夢幻の悪魔だ」
リリスはそう言って、ぱちんと指を宙で鳴らした。その瞬間、リリスを包んでいたゴシックロリータが掻き消える。
その代わり、出現した翼。裸の身体。胸と局部を覆う、悪魔の体毛。
ふりふりと動く尻尾を掴んで見せて、リリスはにっこりと笑いかける。
「あたしはあたしだ。……あたしの名前、覚えてるか?」
そして、試すようにリリスは笑みをにやりと浮かべた。それに、俺は呆れたように身体を起こす。
相変わらず、間抜けな奴だ。エリートサラリーマンを、舐めて貰っちゃ困る。
「リリスティア・タルムード・ミドラッシュ。リリスでいいと言ったのはお前だ」
それを聞いて、リリスはへぇと素直に笑った。そして、よかったよかったと手を叩く。
「よかったよ。間違えてたら、あんたの魂を抜かなきゃいけないところだった」
「おいおい。ここまできて、しゃれにならんぞ」
照れるリリスに、俺は眉を寄せて抗議する。本気か冗談か、リリスは悪い悪いと頭を掻いた。
「ま、安心しろ。あたしにゃ、あんたの魂は抜けねぇ。……結局、叶えられなかったからな」
そう言うと、リリスはんーっと背を伸ばした。両腕を上げながら、リリスは羽をばさりと広げる。
確認するようにリリスは羽を動かして、ちらりと俺を見やった。
「サキュバスの意地にかけて、あたしが叶えてやりたかったがな。……ま、仕方ない。あたしも意味がなかったわけじゃなし、我慢するよ」
そう言って、リリスは指先を俺の顔へと向ける。気がつけば迫っていたリリスの指が、俺の額をとんと突いた。
「り、リリス……?」
その途端、急に視界が崩れていく。暗くなっていく風景。ちょっと待てと、俺は叫んだ。
「じゃあな。楽しかったよ。あたしとしても、悪くなかった」
リリスの声。それを必死に耳で聞きながら、俺は歯を食いしばる。
伸ばした手は、結局何も掴めなかった。
「そうそう。アフターケアはしておくよ。料金はちゃんと頂いていくから、心配すんな」
最後に、にししと笑うリリスの声が聞こえて、俺の意識はそこで途絶えた。
ーー ーー ーー
「……んぅ、つぅ」
ずきりと、頭の痛みで目が覚める。
ぼうとする意識のまま、俺はゆっくりと顔を上げた。
「痛てて。寝て、たのか?」
辺りを見渡す。部屋に充満する、香ばしい匂い。
そういえばすき焼きをやっていたと、俺は空になった鍋を見つめた。
「……ん? あれ、おかしいな」
きょろきょろと、辺りを見渡す。テーブルの上には、空っぽになった肉のタッパー。鍋の中身も、肉は勿論、野菜のひと欠片すら残っていない。
「むぅ。気づかない内に、食っちまってたのか」
寝てしまう前のことをよく覚えていないが、確かにすき焼きの味は覚えている。しかし、ここまで食った記憶は微塵もない。
それに、食ったにしては腹具合が空いている。さすがに、これだけ食えば膨れていよう気もするが。
「よっぽど、腹減ってたんだなぁ」
まさか、記憶がなくなるくらい食ってしまうとは。あまりに急に食い過ぎて、血糖値が上がりすぎたのかもしれない。
もう若くはないんだし、俺は少し食生活を改善しようかと眉を寄せる。
「んむぅ。しかし、腹が減ったな。……仕方ない、食べに出よう」
時計を見れば、まだ飲み屋は開いている時間帯だ。健康のことは明日から考えようと、俺は立ち上がって壁の上着に手をかけた。
「今からなら、あの店に間に合うな。……って、なんだこれ?」
行きつけの焼き鳥屋を思い出しながら、俺はそそくさと部屋を後にしようとする。そのとき、ひらりと一枚の紙がテーブルから足下に落ちてきた。
それを、首を捻りながら拾い上げる。
そこにはミミズが走った跡のような字で、何かが書かれていた。
「こんな下手くそな字を書くとは。よっぽど眠たかったんだな」
書かれている内容も、意味不明だ。言いたいことは伝わるが、わざわざ書く理由は何処にもない。
「っと、いかんいかん。ラストオーダーには、間に合わせねば」
しばし紙を見つめ、俺ははっとしたように顔を上げる。こんなくだらないことに時間を使っている場合ではない。俺は、慌てて玄関へと駆けだした。
それにしてもと、靴を履いている間に思い出す。
さきほどの文字、笑ってしまうほどに不格好だった。
「下手くそなどという次元ではないな」
自分としたことがと、笑みを浮かべる。まぁ書いた言葉自体は、自分らしいと言えば自分らしい。
『うまかた ごちそさま』
くすりと笑いながら、俺は扉へと手をかけた。
ーー ーー ーー
「んー。どうすべきか」
俺は、親の敵のように書類を睨みつけていた。別に、この書類がどうこういうわけではない。
俺の頭の中は、昼飯に何を食うかでいっぱいだった。
正直、昼前の一時間ほどを毎日この作業に費やしている。無駄な時間のような気もするが、妥協は出来ない難しい案件だ。
「外で食うにしても、どうするか。……そういえば、西口の横に新しい店が出来ていたな」
ふと、小耳に挟んだ店を思い出す。
なんでも、パンケーキが美味いらしい。パンケーキと言えばスイーツな印象が強いが、その店はおかず系も豊富だとか。
サーモンのスライスに、クリームチーズ。サンドイッチなら大好きだが、それがたっぷりとパンケーキに挟まっているのだ。
ごくりと、俺の喉と腹が鳴った。
しかし、俺は眉を寄せる。魅力的ではあるが、男一人では少々厳しい。仕方ないなと、俺は椅子の背に体重を預けた。
独り身の辛さはここら辺だ。一度、そういう店にも行ってみたいものだと会社の天井を見上げる。
「……パンケーキかぁ」
何か、違和感を感じた。パンケーキにではない。何だろう。
「速見さん、パンケーキとか食べるんですか?」
はてと首を傾けていた俺の元に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。目を向けると、同じ部署の女性社員がこちらを見ている。
「いや、食べたことはないが」
「え、そうなんですか?」
俺の返事に女性は驚いたあと、どうしたんですかと笑いかけた。
女性の手元をちらりと眺めて、俺はどうしたものかと正直に答える。
「食べたことはないんだけどさ。美味いって言うじゃない? 食ってみたいなって」
そう言った瞬間に、俺はしまったなぁと心の中で後悔した。
「それなら、今日のお昼に一緒に食べに行きませんか? ちょうど、西口にパンケーキの店が出来たんですよ」
ぱぁと、目の前の女性の顔が華やぐ。参った。これだけは、避けてきたというのに。
俺は、一人が好きだ。
俺は、一人で飯を食うのが好きだ。飯の時は、一人がいい。
結婚なんて、恐ろしい響きだ。何が恐ろしいって、好きなときに好きなものが食えない。これだけで、身が震えるほどに恐ろしい。
「ああ、すまないね。ちょっと今日はーー」
一人で食いたい気分なんだ。そんな本音を飲み込んで、俺は建前を口にしようとする。
それは、喉の手前で出てこなかった。
女性が、不思議そうに首を傾げる。
言えばいい。それだけでいい。仕事があるだの、用事があるだの。
しかし、それはどうしても出てこない。
それもそのはず。建前とは、本音がなければ存在しない。
「ーーちょうど、その店が気になってたんだ」
「ほんとですかっ!?」
女性が、嬉しそうに手を叩く。俺は、笑ってその子に口を開いた。
「ああ。たまには、誰かと食うのもいいものさ」
お読みいただき、ありがとうございました。
これにて一章完結です。2章も、少しだけ雰囲気を変えて頑張って行こうと思います。
ではまた、近いうちにリリスと誠一郎の新たなお話でお会いしましょう。




