第24話 万全の日に。街で見つけたシュラスコ(前編)
万全。そう、万全の体調だった。
久しぶりに零時前に寝入れたからか、今日の目覚めは最高だった。
仕事も、目立った業績すらないものの滞りなく終わり、帰ってやらなければならないことも特にない。
何より、腹が空いている。いや、いつも腹は空いているのだが、今日の空き加減は絶妙だ。
空きすぎているわけではない。胃が空になって起こる、腹痛に似た飢えとは違う。朝食も昼食もきちんと食べた、活発な胃の働き。それによって促される、ナチュラルな腹へりだ。
ここまでのコンディションは、社会人になってから初めてかもしれない。今ならいくらでも食べれそうだ。
「肉。今日は肉を食おう」
自然と、足が夜の街を軽やかに進んでいく。気の赴くままに歩き、目の着いた店で肉を食らう。これが今日の俺のスケジュールだ。
しかし、最高であるが故に店選びは難しい。ここでしくじってしまっては、せっかくの吉日が台無しである。
「うーむ。迷うな」
焼き肉、ステーキ。後は、すき焼きにしゃぶしゃぶといったところか。思ったよりも、がっつり肉を食おうと思ったら選択枝は少ない。
「やはりここは、無難に焼き肉か? しかし、この前も食べたな」
何だかんだで焼き肉は結構食っている。社員食堂の焼き肉定食なんかも合わせれば、月一は確実だ。この奇跡の日には、ふさわしくないようにも思えた。
「うーん」
焼き肉が駄目となると、これはいよいよ難しい案件だ。最早、ステーキくらいしか対抗馬がいない。
ステーキ。無論、ご馳走だ。味だって美味い。
しかし、何かが違う。こう何というか、がつがつ感が足りない。
別にステーキ屋で三〇〇g食おうが四〇〇g食おうが誰も何も言わないのだろうが、ちょっと今日の気分ではない。目の前で焼かれるライブキッチンも、視線の煩わしさの方が勝ってしまうだろう。
むしろ、野蛮な食欲の本能が歓迎されるような。そんな店があればいいのだが……。
だが、そんな店なんてあり得るのか? そう思いながら、俺は当てもなく街をさまよう。
いつしか足はアーケードを抜け、向こう岸のアーケードへと続く橋の上までやってきていた。
客引きや待ち合わせの人で賑わうその橋を、俺はふむと立ち止まって眺める。
向こう側へ渡るべきか否か。このコンディションも、もしかしたら三〇分後にはなくなっているかもしれない。
それならば、引き返せばそれなりの焼き肉屋が通り道に有った。ここらが潮時かと、俺はおもむろに橋に背を向ける。
くるりと身体を回した瞬間、一つの看板と目が合った。
看板と目が合う。そんなことも、あるのだろう。赤い看板に、黒い牛のイラストがこちらに訴えかけるように視線を送っていた。
「俺は肉です」そう言わんばかりの、真摯な瞳だ。思わず俺は、ふらふらとその黒牛へと近づいていった。
「……シュラスコ?」
聞いたことのない料理名だ。けれど、イラストの横に店の写真が載っている。そこでは恰幅の良い外国人の店員が、串に刺さった肉をナイフで切り取っているようだ。
「おお。……ほお、なるほど」
知っている。シュラスコなんて洒落た名前は知らないが、こういう料理は確かに何度か目にしたことがある。主にテレビの中で、ブラジルかスペインか。そんな陽気な国のイメージだ。
「いいじゃないか。……食べ放題。うむ、望むところだ」
席の時間はたっぷり二時間。次々と運ばれてくる肉を、ただただ食らう時。何と心地の良い響きだと、俺の心は針を傾けた。
決まりだ。今日のお肉様は、シュラスコだ。
ーー ーー ーー
「むっ。結構混んでいるな」
今日は仕事が早めに終わった。そのせいで、普段はあまり気にならない飯時にかち合ったようだ。
椅子に座って並んでいるファミリーを見て、俺はうーむと眉を寄せる。
人気なのはいいことだ。美味い証拠だろう。しかし、店内を見やればどうやらテーブル席だけらしい。加えて、この混み具合。おひとり様は少しだけ居心地が悪い。
「名前、か」
予約の紙の前で、俺は備え付けのボールペンを握りしめる。
ハヤミ。そう書いた横で、大人一人に丸をつけなければならない。
何の苦行だこれは。すっかりさっきまでのテンションが落ちてしまった。……この雰囲気の中、一人黙々と肉を食い続けるメンタルは俺にはない。
よくよく見てみれば、サラダバーも付いているらしい。付いてるならいいじゃないかと思う奴もいるだろうが、独り身にこのサラダバーは曲者だ。
貴重品は持って行かないといけないし、そうなると手提げ鞄を脇に挟んだままサラダバーの周りをうろちょろすることになる。しかもスーツ姿で。滑稽もいいところだ。
「んむぅ」
しかし、食いたい。肉、肉、肉が食いたい。
写真の赤身の肉。あれが食いたい。霜降りとは違う、食い堪えのありそうな、あの肉。あれが食いたい。
ぎりりと奥歯を噛みしめて、俺はボールペンを元に戻した。
「おおー、混んでるなぁ。いい匂いだ」
かたん。そんなボールペンの音をかき消すように、いい加減聞き慣れた声が耳に届く。
俺は、目を見開きながら背後のリリスに振り向いた。
「こりゃあ、肉の匂いだな。いいぞ、肉は好きだ」
そうやってにかりと笑うリリスに、俺はぐっと拳を握るのだった。
ーー ーー ーー
「今日だけは、礼を言ってやらねばならんようだな。ありがとうと」
「あはは。いい加減、あんたのそういうとこにも慣れたよ」
十数分後、席に通された俺は、満足そうな顔をリリスに向けていた。リリスも、興味深げに店内を見渡す。
店内に充満する、香ばしい匂い。食欲が刺激される香りだ。
リリスはどうも店内中央のサラダバイキングが気になるようで、先ほどからしきりにちらちらと目をやっている。
「そうか。お前、食べ放題は初めてか」
「たべほーだい?」
リリスの視線に思い当たるものを見つけ、俺は手をぽんと叩いた。
振り返ったリリスに、少しだけ得意げに語りかける。
「時間内なら、どれだけ食べても料金が一緒ってことだよ。素晴らしいだろう」
「ふーん。じゃあ、いつもと同じだな」
顎を上げる俺を軽く流して、リリスはテーブルの上に手を広げた。こいつ、奢られているという自覚がまるでない。
「お前……俺は金払ってるんだぞ?」
「おー、ありがとなー。……ん、なんだこりゃ」
へいへいと空返事なリリスを睨みつつ、俺はリリスの左手に掴まれた物体を見つめる。
コースターのような、コインのような。両面には赤い牛と黒い牛がそれぞれ描かれていた。飾りだろうか。実用性はないように思える。
「なんだろうな。……会計のときに出すとか」
リリスから受け取ってそれを眺めて見るが、とくに席番などは記されていない。はて、何に使うものだろう。そう思い首を傾げていると、テーブルに一人の店員が近づいてきた。
台車を引いて現れた店員は、不思議そうにコースターを眺める俺ににこりと笑いかける。
「お客様、当店のご利用は初めてですか?」
「ああ。なんだいこりゃ?」
店員の視線がコースターに注がれているのを見て、俺はコースターを店員に差し出した。店員はそれを受け取ると、くるくると両面を回して見せる。
「こちら、黒の面を上にして置いていらっしゃいますと、私どもがお肉を持って参ります。赤の面を上にしますと、今は十分だということでお席には止まりません」
「へぇ、なるほどねぇ」
要は、黒い面にしたままだと際限なく肉が追加されていくというわけだ。肉は種類も豊富らしいし、欲しい肉が来たときだけ黒い面にする手もありだろう。
「ただいまイチボ肉を切り分けてますが、どうなさいますか?」
「当然、貰おうか」
俺の声に、店員が畏まりましたと言って肉のブロックをナイフで切り分けだす。大きい刃がギザついていて、何とも切れ味の良さそうな肉切りナイフだ。
薄目にスライスされていく肉を見て、俺はふむと頷いた。種類を食べるのなら、まぁこれくらいの薄さがいいだろうと納得する。
そのまま店員は肉のスライスを二枚、リリスの皿の上に置いた。リリスが目を輝かせ、嬉しそうにお礼を言う。同様に、俺の皿にも肉が並べられた。
「うまそうだなっ!」
「ああ、『肉っ』て感じだな」
香ばしく茶色に焼けた表面に、赤身の肉。ルビー色とでもいうのだろうか、見た目にも綺麗だ。
和牛とはまた違った、タンパク質を地でいっているその赤身に、俺はごくりと喉を鳴らす。
「……うん、んむ。……美味いなっ!」
「うめぇっ!」
切り分けられた肉を更に半分に切って、俺はそれを口に運んだ。噛みしめた途端、たまらず声を上げてしまう。
肉。そんな感じだ。
とろけるような霜降りの肉とは違う、しっかりとした噛み堪え。噛みしめる程に、肉の旨味が舌の上で踊る。
「こりゃあ、美味いな。いくらでも食べれそうだ」
焼き肉とも違う。和牛のステーキとも違う。なんとも豪快な味だ。荒々しい味だが、量を食べるのならばこちらの方がよさそうである。
「肉なくなった」
「俺もだ。二枚では足りもどうもしないな」
一瞬で消失した肉のあった場所を見つめ、俺たちはしょんぼりと皿を見つめる。今度からは四枚くらいは貰った方がいいかもしれない。
「……よし、俺はサラダバーを取ってくる。荷物見ておいてくれ」
「えー、ずるいぞ。あたしも行きたい」
がたりと立ち上がった俺を見て、リリスが頬を膨らました。その抗議の視線に、俺はやんわりと断りを入れる。
「いいから。お前は荷物見てろ。後、次に肉が来たら俺の分も貰っておいてくれ」
「むぅ。わかったよ。じゃあ、先に肉食べてるぞ」
しょうがないなぁと眉を寄せるリリスを横目に、俺は颯爽とサラダバーに向かおうとする。
立ち上がった瞬間に、店の奥から大きな肉の塊を持って出てくる店員を視界に捉えた。
あれは、ロースだろうか。もしかしたら、また変わった名前の部位かもしれない。何にせよ美味そうだ。
「……リリス。五枚だ。五枚貰っておいてくれ」
そう呟いて、俺はリリスの肩を叩くのだった。




