第22話 一人で。うどん屋チェーンの肉うどん。
「……ふぅ」
思わず出たため息が目の前の空気に溶けていくのを感じながら、俺は重い足取りで夜の街を歩いていた。
疲れた。特に残業などがあったわけではないが、今日の仕事は精神をすり減らした。
「何処かで飯を食って帰らねばな」
歩きながら、辺りを見渡す。腹は減っているが、そこまでではない。むしろ、いつもより食欲がないくらいだ。
とはいっても、人間食わねば動けない。軽いものでも食べて帰った方がいいなと、俺は夜の街の店々を見渡す。
煌びやかな電灯を少しだけ鬱陶しく感じつつ、俺は疲れた表情で眉を寄せた。
「飲み屋しかないなぁ」
位置が悪かったか、目に入る店はほとんどが飲み屋だ。居酒屋に、イタリアンバル。普段なら大歓迎だが、今日はちょっと酒は遠慮したい。
軽く頼めて、軽く食べれる場所。さっと食えて、さっと出れる。そんな場所があれば、言うことはないのだが。
すがるような気持ちで前を見つめながら、夜の街を歩いていく。
俺の目の前を、くたびれたスーツのおっさんが背を丸めて歩いていた。そういえば、最近の風はやけに冷たい。俺も、ふるりと身体を震わせて肩を縮めた。そんな俺の隣を、ヒールを履いたミニスカ姿の女性が颯爽と抜き去っていく。
本当に、世の中には色んな人がいるものだ。
街を行き交う人々。その全ての人に家族が居て、生活があって、人生がある。ちょっと、信じられない。
センチメンタルというのだろうか。自分がちっぽけな存在に思えることが、人にはある。いいことのように言う人も居るが、やはり寂しくも感じてしまうのが人間だ。
「……ふむ」
気がつけば、一軒のうどん屋の前で足を止めていた。チェーン店らしい看板と幟が、妙に明るい店内で出迎える。中には、疎らだが数人の客。
入りやすそうだ。ここにしてしまおうと、俺は自動ドアへと足を向けた。
「いらっしゃいませー」
「いらっしゃいませー」
元気のよいかけ声。店員の挨拶が連続し、俺はそれを横耳に目線を上げる。その先には、うどんのメニューが写真付きで貼られていた。
かけうどんに、釜揚げうどん。肉うどんに天ぷらうどんと、メジャーなところは揃っている。
どうしようかなと、俺はちらりと視線を落とした。
「総菜かぁ」
目を向けた先には、各種天ぷらやコロッケ等が出番を待ちわびるように陳列されている。少しだけ戻った食欲を感じつつ、俺は店員に声をかけた。
「肉うどんの中ください」
「はーい。肉うどんのちゅーっ!」
オーダーが通ったのを確認して、俺は総菜コーナーを改めて見下ろす。
海老天にイカ天。変わったところでは、紅ショウガの天ぷらなんかが並べられている。
「うーん。悩むな」
食欲が戻ってきたとはいえ、そこまで食べれるとも思えない。俺は、ならばストレートに好きなものを食べようとトングを取った。
ちくわの磯部揚げ。半分にはなっているが、かなり大きなそれを一本皿に乗せ、俺はその横のコロッケもひょいと掴んだ。
「こんなもんか」
安めの総菜だが、好きなラインナップだ。肉うどんにしたことだし、そんなに豪華に行かなくてもいいだろう。
「はい、肉うどんねー」
総菜を取り終えた俺に、カウンターの向こうから肉うどんの丼が差し出された。それを受け取ると、俺はゆっくりとそれを盆に載せる。
肉うどん独特の、あの甘辛い匂いが立ちこめて来ていた。かけたつゆは同じはずなのに、肉の影響だろうか。肉うどんのつゆは少しだけ色が濃い。
肉うどんを載せた盆をレジまで運び、俺は財布を取りだした。
店員が総菜を数え、レジスターの数字が表示される。
安い。そんな感想を心の中で呟き、俺は五〇〇円玉を受け皿へと置いた。店員が笑顔で会計し、僅かな釣りを俺に渡す。
レシートと共に受け取ったそれを財布へと仕舞って、俺はおもむろに盆を持ち上げた。
「……ネギか」
席を探そうと歩き出した俺の目に、緑ときつね色が飛び込んでいる。
ネギと天かすだ。どうやら入れ放題らしい。
どうせなら入れるかと、俺はことりと盆を置いた。
肉うどんの上にネギを載せ、その横の天かすをちらりと覗く。
総菜を買ったから、あまり必要ではない。しかしせっかくだしと、俺は少しだけ天かすを肉の隅に振りかけた。
「……結構豪華になったな」
緑が入って見た目にもよくなったお盆の上を、俺はまじまじと見つめる。これが、ワンコインで釣りが出るのだ。凄い時代だなと、俺は空いていたテーブル席に腰掛けた。
「しまった」
その瞬間、水を取ってないことに気がつく。ここは水はセルフサービスで、当然自分が入れないといけない。
しかし、一度下ろしてしまった腰がどうにも重い。
食べ終わった後で、食器を返すときに飲んでしまおう。行儀は悪いが、別に構わないだろう。目の前の割り箸に手を伸ばし、それをぱきりと割り開く。
上手く割れなかった割り箸を無感情で見つめ、俺はうどんを口に運んだ。
「うん。美味いもんだな」
ずるずると、肉うどんを啜っていく。少し甘めのつゆ。肉も、ぱさついているがこんなもんだ。
値段にしては上等以上だと、俺はテーブルの上の七味に手を伸ばす。
蓋を開けてうどんの上で振ると、ふんわりと七味の香りが鼻を刺激した。俺はこの七味の匂いが好きだ。あまり辛くはないが、この匂いを嗅ぎたくてつい振りかけてしまう。
そういえば大学時代の金のない時期。毎日のように、とある食堂の素うどんを食っていた。決まって八時。毎日うどんを食いに来る俺を見て、おばちゃんは注文を聞く前に素うどんを茹で出すようになった。
あるとき、クリスマスだったろうか。そんな日にも関わらず、いつも通りに素うどんを食いにきた俺の目の前に、肉うどんが差し出された。
間違ってますよといった顔の俺に、おばちゃんはクリスマスプレゼントだよと笑ってくれたものだ。
あれ一回きりだったが、大学時代のいい思い出だ。
三年になる頃に店は閉められた。俺はあの店が閉まるのを、一日でも伸ばすことが出来たのだろうか。
「……逆に、迷惑だったかもしれんな」
素うどんなんて一番安いメニュー。そんなものを毎日食っていたのだ。しかし、俺はくすりとした笑みと共に、目の前の肉うどんを口に入れる。
おばちゃんの方が美味いなと、俺は当たり前のことを思いながら、醤油を手に取った。それを、慎重にちくわ天とコロッケにかけていく。
学生時代、笑われたものだ。コロッケに醤油。ソースじゃないのかと。
放っておいてくれと言いたいが、個人的にはお勧めしたい。ソースが苦手な人って、結構いるんじゃなかろうか。
俺は、とんかつソースは大丈夫なのだが。ウスターソースがかなり苦手だ。原因は、母が一切使わないからだろう。
一度友人が炒飯にかけているのを見て、目を疑った。あの、すっぱいのか辛いのかよくわからない味を、炒飯にかけるのだ。一口貰ったが、どうにも俺の口には合わなかった。
「暑いな」
ふぅと、上着を椅子にかける。うどんの熱か七味の辛さか、仄かに汗までかいている。すっかり、暖まってしまったようだ。
「はふっ。……おっ、揚げたてか。運がいい」
コロッケにかぶりつくと、まだ十分な熱が前歯に伝わって来た。タイミングがよかったみたいだと、俺はもう一口を口に運ぶ。
この、甘いジャガイモの味。俺はこれが好きだ。総菜のコロッケの、安っぽいのだが何処か優しい、この味だ。
スーパーで食っても、コンビニで食っても、勿論チェーンのうどん屋で食っても、何処でも大して変わらない。けれど、いつも安心して手に取れる、不動の味だ。
ちくわ天も、美味い。ちくわの磯部揚げ。子供の頃からの好物だ。給食に出てきていたのだが、その日は楽しみで仕方なかった。
苦手で残す奴もいて、何でだろうと不思議に思ったものだ。しかし今思えば、この磯の香りがダメだったのかもしれない。
「……ふぅ。美味かったな」
すっかり空になってしまった丼を見つめて、俺はつゆをずずっと飲んだ。少しだけと思ったが、意外と飲んでしまって、自分で笑ってしまう。
ほどよい満足感だ。腹が満たされたとは言い難いが、それなりに一杯になっている。
ぼうと辺りを見渡すと、それなりに人が増えてきていた。夕飯時はとっくに過ぎているが、この時間に仕事帰りの人も多いのだろう。
そんな中に、学生と思わしき二人組が入ってきた。何にするか悩みながら、仕方ないといった表情でかけうどんを注文する。
もう一人もかけうどんを注文し、二人は総菜も取らずにレジへと盆を持って行った。
すぐに出てきたかけうどんを受け取ると、二人は会話しながら緑色のコーナーへと足を運ぶ。そこで嬉しそうに、ネギと天かすをたっぷりと入れながら、二人はカウンターに盆を並べた。
一人が水を取ってくるといい、一人が悪いと手を挙げる。
「……変わらん、な」
ふと、思う。彼らは、週の何度をこうしてうどん屋で過ごしているのだろうと。
そんな、知ってどうするのだという考えに微笑んで、俺はゆっくりと立ち上がった。甘辛いつゆを飲んだせいか、いっそう喉が乾いている。
ーー ーー ーー
「ふぅー。……物足りんな」
うどん屋を出て、夜空を見上げた。こんなに下界は明るいのに、それでもいくつかの星は肉眼で確認できる。
腹は、すっかりいつもの調子に戻っていた。身体も、背筋を伸ばせるくらいには暖かい。
「飲んで帰るか」
呟いて、俺は足を来た道に向けた。何処かに行きたい。
このまま帰っては、勿体ない。そんな気がした。
一人で、夜の街を逆走する。何処にしようか。来るときに見た、居酒屋がいいだろうか。それとも、イタリアンバルという手もある。
「ありゃ? まだ外かー? 今日はどこで食べるんだー?」
ゆっくりと足を踏み出した俺の袖を、聞き慣れた声が掴んだ。
振り返れば、ゴスロリ姿の悪魔娘が、きょろきょろと明るい街を見渡している。
そいつに向かって、俺はくすりと笑みを向けた。
少し遅いんじゃないかと言おうとして、俺は微笑みの中にそれを隠す。
「そうだな。……お前は、何処で食べたい?」
奇妙な組み合わせの二つの影が、店々のライトで作られる。それを見下ろしながら、俺は止まっていた足を前へと向けた。
フリルの付いた影が、それを追いかけるように動き出す。
「あたしか? あたしはなー」
リリスが、悩むように辺りを眺めた。それを見て、何処でもいいぞと呟いてやる。
何せ今夜は、まだワンコインしか使っていない。




