第20話 腹が減ったときに。ロース、カルビ、タン塩、ホルモン (前編)
腹が減った。
その一言だけを頭の中に浮かべながら、俺は黙々と夜の街を歩いていた。
正直腹が鳴るのはいつものことなのだが、今日はちょっと尋常じゃない腹の空き具合だ。身体全体が空っぽの胃袋になった……そんな錯覚さえ起きてしまいそうなほどに、腹が減っている。
「……腹が減ったな」
思ってることも、つい口から出てしまうというものだ。ここまで腹が減っていると、逆に何でもいいというわけにもいかなくなる。
この前のカレーのときもそうだったが、今回は味に加えて食べ応えも重要だ。腹が膨れる。それが絶対条件である。
「米。……米だな。米しかない」
ピザやパスタなんてもってのほかだ。俺は街並みの中の小洒落た店を、意にも介さずに進んでいく。
米。とにかく白い米が食べたい。それに合うおかずを口に頬張って、一気にがつがつと白飯をかき込みたい。
「うーん。どうするべきか」
こういうときに限って、小麦粉な店ばかりが見つかる。イタリアンは好きだが、今だけはピザもパスタもノーサンキューだ。
使えない通りだと、俺は腹が減っている苛々を街並みにぶつけていく。どうしたもんかと、俺は奥歯を噛みしめた。
ここまできたら、何としても納得の出来るものを食わねばならない。そうでなければ、俺の胃袋は己の主人の情けなさ加減にストライキを起こすだろう。
「……くそっ。苛々しやがる……って、んっ?」
自分の腹の音が鬱陶しくなってきた俺の鼻を、香ばしい匂いがふいに叩いた。
油の香り。肉が焦げた、甘みと脂質を予感させる匂い。
目の前に出現した赤い提灯に、俺はこれだと拳を握りしめた。
そのまま、ごくりと喉を鳴らして提灯の文字を見つめる。
焼肉
なんと、なんと神々しい二文字だろうか。
単純にして明快。この文字を読める者は、誰しもがこれが如何様な料理であるかが分かるだろう。
肉を焼く。そして喰らう。何て分かりやすい幸福。
「これだっ」
俺はふらふらと、吸い寄せられるように赤い提灯の光に向かって足を進めた。
しかし三歩目を踏み出した瞬間に、俺の足がぴたりと止まる。待てよと、俺の額を汗が流れた。
「ひ、一人で焼き肉かぁ」
呟く。構いやしないだろう。別に、何か法を犯しているわけでもない。
しかし、ひとり焼き肉。その単語が、二十九の俺の肩に重くのし掛かる。
正直、ひとりカラオケ以上の難易度だ。何故だかは分からないが、一人で焼き肉屋に入ることの何という難しさ。
誰が言ったわけでもないのに、おひとりさまお断りと言われている気がしてしまう。
「大丈夫。たかが肉焼いて喰うだけだ。一人で出来ないはずもない」
ぐぎぎと歯を食いしばって、俺は提灯の先の引き戸に手をかける。行けっ。行くんだっ。俺は肉を喰うんだっ。
「う、うおおおおおおっ!!」
裂帛の気合い。漢、速見誠一郎、決断のときーー。
「らっしゃいませーッ! 二名様ですねーッ!」
……そんな俺の決断は、笑顔で振り向いた店員にかき消された。
何となく、何が起こったかを察する。横を見ると、当然のように黒い悪魔がきょろきょろと店の中を見渡していた。
「……帰れ」
「えっ!! なんでだよっ!?」
不満げなリリスの表情に、俺は拍子抜けしたように案内されたテーブル席を見つめるのだった。
ーー ーー ーー
目の前に、赤白く色づく炭が入った七輪が置かれる。顔に仄かに感じる熱に、俺は少しだけ椅子を後ろに引いた。
「熱いからな。網には触るなよ」
「ふーい」
分かっているのか分かっていないのか、締まりのないリリスの返事に、俺はふぅと息を吐く。興味深げに炭を覗き込んでいるリリスを見やって、俺はメニュー片手に質問した。
「お前、肉好きだよな?」
「おー。大好きだぜ。肉が一番好きだな」
笑顔で顔を向けてくるリリスに、俺はふむとメニューに目を落とす。リリスに聞いても仕方ない。取りあえず頼むかと、俺は通りがかった店員に右手を上げた。
「生中二つ。で、上ロースと上カルビ。タン塩を取りあえず二人前ずつ。後、ご飯の大を二つ下さい」
ひとまずこんなもんだろうと、俺は復唱する店員の声に耳を傾ける。リリスも、何でもいいやと両手を頭の上に回していた。
「今日は肉食べるのか? 楽しみだ」
「ふふ、その名も焼き肉だぞ。これほどストレートなネーミングもあるまい」
俺の声に、へぇとリリスが目を開く。この店の肉がどの程度かは知らないが、値段からしてそこまでひどいものは出てこないだろう。俺も、期待を込めた眼差しで加熱されていく網を見つめた。
「そういえば、お前ってホルモン……内臓って食べれるか?」
「んっ? 内臓食えるのか。そりゃあいい。あたしは、むしろそっちの方が好きだぜ」
ふと気になった質問に、リリスはにやりとした笑みで応える。悪魔らしい返答に、今度は俺がへぇと声を出した。
「というか、そもそも普通は内臓の方がいいもんじゃないのか? あたしは、よく捧げられてたけど」
「うーむ。それはお前が悪魔だったからじゃないか? 勝手なイメージだろ。……それより、酒はビールでよかったか?」
リリスは、こんな風に台に寝転がっててさと供物を両腕で表現する。それ以上聞くとせっかくの食欲が落ちてしまいそうだったので、俺は話題を変えることにした。リリスが、別に構わないと水の入ったグラスに口を付ける。
それを見ながら、ホルモンは何を頼むかなと、俺は肉が来る前に次のメニューに思いを馳せた。
一口にホルモンといっても色々ある。個人的にはマルチョウやミノが好みだが。先ほどのリリスの口振りからするに、ハツなんかは喜ぶかもしれない。
悩むぜと、唸りながらメニューを睨みつけていると、ビールと肉を持った店員が姿を現した。
何故か最初に持ってこられる塩タンに目を配って、俺はビールを受け取りながら追加のホルモンを注文する。
まだまだ頼みたいが、一人前がどれくらいか分からないし、とりあえずは充分な量だろう。
俺は、リリスにビールのジョッキを持つように目で指示をした。リリスが、思い出したと笑顔でジョッキを握りしめる。
「えーと、なんて言ったっけ? ……そうそうっ。パイカーンッ!」
「……うむ。まぁ、今日は許してやろう。ぱいかーん」
謎の音頭を口にするリリスに、俺は一瞬無表情になってしまう。しかし、くすりと笑みを浮かべて、俺はリリスのジョッキにジョッキを軽く合わせた。
飯も頼んでしまったが、仕方がない。喉も渇いているのだ。どっちも頼んでも、致し方ないだろう。
「……ぐっ、ぷはぁっ! 美味いなっ!」
俺を喉を、爽やかな炭酸の刺激と軽い苦みが通り過ぎた。水分が豊富なアルコールが、身体の隅々まで行き渡っていく。
ごっごっと喉を鳴らす度に、火照った顔の熱が引いていく。まるで冷たいビールが全身の血管を流れていくかのようだ。
「ふふ。思わず笑っちまうな。やはり焼き肉にはビールだ」
「まだ肉焼いてないけどなー」
上機嫌な俺に、リリスが鋭い突っ込みを喰らわした。こいつ、悪魔のくせに。
言い返せないが、そういう問題ではない。肉を焼いてなかろうが、口に入れてなかろうが、この時間、この空間そのものが「焼き肉」だ。
お前は何も分かっちゃいないなと、俺は一気にビールのジョッキを飲み干した。うーむ。焼けていない肉と網を見るだけでも、ビールは美味い。
「……焼かないのか?」
「俺が焼くのかよ」
ジョッキを置いて、しばしリリスと目が合ってしまう。素朴なリリスの疑問に、俺は驚いたように口を開いた。
女が焼けとは言わないが、ここの金は俺が出すのだ。肉くらい焼けと、俺はリリスに視線で抗議する。
「ちぇー、分かったよ。その代わり、焼き加減はあんたが見てくれよな」
「うむ。苦しゅうないぞ」
唇を尖らせるリリスは、面倒くさそうに肉を摘んだ。ぐちゃりと音がしたリリスの指先を、俺は呆然と見つめてしまう。
「あっつ! 網の上あっちーなっ。くそっ」
もう一枚と、リリスは熱気と格闘しながら生肉を指で摘んでいく。目の前で、一枚二枚とタン塩が網の上に並べられた。
その指先をぺろりと舐め取って、リリスはしょっぱいと目を瞑る。塩味だなと笑うリリスに、俺は思わず謝っていた。
「すまん。もうお前は焼かなくていい」
俺の前言撤回に、リリスが何でだよと眉を寄せる。
……よい子は、絶対に真似しないで下さい。




