第02話 平日の昼間。とんかつ定食
「ううむ。どうしたものか」
照りつける太陽の下で、速見誠一郎は悩んでいた。ショーウィンドウの中には精巧に作られた食品サンプルが、腹の音を刺激するように並んでいる。
きつね色の衣。噛めばジューシーな肉汁が溢れ出す、珠玉の薄桃色の豚肉。誠一郎は、とんかつ屋の前で腕を組んでメニューを睨みつけていた。
平日の昼間。仕事の用事で出かけたはいいものの、結局は実りのある話にはならなかった。それならばせめてと、昼はがつんと食べてやろうと思ったのだが。
「ロース。ヒレ。……チーズカツ。海老フライまであるのか」
決まらない。店内に入ってから長考するのも悪いと思い、こうして焼け付く日光の元で悩みに悩んでいるのだが、一向に決まらない。
普段はロースの気分やヒレの気分で足を向けるものだから、それが決まっていないとこうも悩んでしまうものかと、我ながら情けないと誠一郎は唇を尖らした。
「いっそのことカツ丼……。いや、それはダメだ。考えるな。収集が付かなくなる」
危ない危ないと、悪魔の囁きを首を振って追い払う。ここで丼ものまで候補に入ってきた日には、日が暮れても決まらなさそうだ。ソースを付けて食べる、カツ定食。ここだけはぶれてはいけない大黒柱だと自分に言い聞かす。
「ロース定食、は重いな。かといって、ヒレだけも物足りない」
29歳。そろそろロース定食の完食が厳しくなってきたような気がする。少なくとも、端っこの脂身は残すようになってしまった。十代の時は、キャベツも食べずにロースカツだけ平らげていたものだが。こんなところで年齢を実感するとはと、悔しさが滲む。
「となると、ロースとヒレカツ定食だ。……しかし、チーズカツか」
捨てがたい。何を隠そう、自分はチキンカツが大好きなのだ。下手をすれば、とんかつよりも好きな可能性すらある。それが、チキンチーズカツだ。
「中入れタイプか。……ますます捨てがたいな」
悩ましいことにこの店は、チーズをチキンの中に挟み入れてくれているタイプの店らしい。これが素晴らしい。チキンチーズカツを頼んだら、チキンカツの上にスライスチーズが乗っけられて出てきたという苦い経験は誰しもあると思うが、その心配はこの店には無用のようだ。
「く、これしかないのか」
メニューの後ろの方にある、最後の手段に目を通す。
山盛り定食。
ロースカツ、ヒレカツ、チキンチーズカツ、更には海老フライまでが付いてくるという究極完全な定食だ。勿論おひとり様向けではない。メニューの隅には、2~3人前ですという注意書きがわざわざ添えられている。
「いくしかないのか?」
しかしと、あと一歩が踏み出せない。値段はともかくとして、食べきれる自信がない。一口ずつ食べて店を出るという荒技もあるにはあるが、それはなんだか作ってくれる人に悪い気がする。
「おお、今度はこれを食べるのか!? 豪勢だな!!」
ふと、悩んでいた横から聞いたことのある声聞こえた。
「……君は」
「へへへー。リリスちゃんだよ。あんた、またあたしを呼んだだろ?」
にこりと笑うリリスを見て、俺は何が何だか分からないというふうに首を傾げる。今回は、魔法陣なんてどこにも描いていない。
それに、こんな奴だったろうか。ふと浮かんだ疑問は、しかしリリスの説明にかき消された。
「いや、儀式の手順はもういいんだ。前にやってもらってるからな。あたしは、あんたとの契約を果たしにきただけだぜ」
俺の疑問顔に、リリスはにやりと指を立てた。どうやらリリスによれば、この間俺が願った「一緒に飯を食ってくれ」という望みはまだ叶ったことにはなっていないらしい。
「よく分からないが。今回、君が出てきた理由には思い当たる節がある。手伝ってくれ」
「あいよ。リリスちゃんにお任せあれ」
「2名様ご案内~」
こうして、俺は無事頼むべきメニューを決定することに成功した。
ーー ーー ーー
「それにしても、どうしたんだその格好は?」
「へへへ、似合ってるだろう。女子高生という人間の雌の格好だ」
対面に座るリリスを眺めながら、俺はかちゃかちゃと定食の支度に追われていた。まあ、以前出てきたときのような裸の状態では店に入ることもままならなかったから、そこは上出来だと言わざるを得ない。
「悪魔ってのは、擬態するのさ。あたしの見かけに近い人間の装いを真似てみたんだ。どうだ、似合ってるか?」
「ああ、どこからどうみても女子高生だ」
それもとびきりの美少女だ。リリスが日本人離れをした顔の作りをしているせいで、先ほどからちらちらと視線が痛い。
平日の昼間からスーツ姿のアラサーの男が、女子高生と食事。意味不明な光景である。よからぬ噂でも立てられてはたまったものではないが、まあ、ここは会社からも遠いし気にしないことにした。まずは腹を満たすことが先決だ。
「ほれ、お前さんもごまを擦るんだ」
「なんだこれ? 拷問器具か何かか?」
先に到着したごまを、すり鉢でごりごりと擦り潰していく。それを見たリリスが、俺を真似るように擦り棒を手に取った。
「軽やかに、風味が立つように混ぜろ。くれぐれも押しつぶすんじゃないぞ」
「注文が細かいよ。人間界に不慣れな悪魔に何を求めてんだよ」
ああーと、案の定リリスはすり鉢を転がしてしまった。ごまが散乱し、それを聞きつけた店員がふきんと替えのすり鉢を持ってくる。
「すみません」
店員に謝ると、俺はリリスのすり鉢を手前に引き寄せた。もうこいつには任せてはおけない。リリスも、最初からあんたがやれよと頭の後ろで腕を組み始めた。
「あんたさー。雌にもてないだろ」
「ほっとけ。そして覚えておけ、ごまの擦り具合がどれほど重要かを」
廻す。決して押しつけず、それでいてきめ細かな粒子になるように。荒い挽きが好みの人もいるが、俺は断然こちらのほうが好みだ。
「ふぅ。出来たぞ。カツが来たら、ここにソースを入れるからな」
「そもそもそのカツってのが分からないけど。まあ、期待しておくよ」
ひひひと笑って、リリスは今か今かと山盛り定食を待ちわびている。ともすれば、俺よりも楽しげな雰囲気だ。気になった俺は、リリスに口を開いていた。
「楽しそうだな」
「ん? そりゃあ、楽しみだよ。あんたの供物は美味かったからな」
八重歯を見せながら、にこにこと微笑むリリスを見ながら、俺はふむと指を唇に当てた。どうも、悪魔の食事とはそこまで美味いものではないらしい。だからこそ、人間界の品物が供物として成立するのではと俺は考えてみた。
「山盛り定食です~。キャベツとご飯はお代わり自由となってますから、お気軽に仰ってください~」
しかし、そのような思索は間延びした店員の声にかき消された。店員が両手でしっかりと抱えた、舟形の大皿が運ばれてくる。
「おお。すごいな」
「今日の供物はこれか!! 美味そうだ!!」
リリスがうひょうと感激して、ひょいとカツを摘もうとした。それを俺がぴしぃと叩き落とす。
「……何だよ。てか凄いなあんた。悪魔の手をはたき落とすとは」
「この際手づかみは何も言わん。だが、何のためにごまを擦ったと思ってるんだ」
そう言いながら、俺はとぽとぽと自分のすり鉢の中にソースを注いだ。フルーティな濃厚な香りが、ふわんと辺りに漂っていく。
「こうか? ……おお、美味いな!! これを飲むのか!?」
「そんなわけないだろ。これをこう、カツに浸けて食うんだ」
ぺろりとソースを舐めたリリスの顔が、ぱぁと華やぐ。それを見ながら、俺はお手本としてカツの食べ方をリリスにレクチャーすることにした。最初の一口は、勿論ロースカツだ。
さくりとした衣が前歯で噛みきられ、その後にジューシィな肉汁が口の中に溢れ出す。期待通り。いや、それ以上の味だ。
「うん、美味い。衣もさくさくだ」
「ず、ずるいぞ自分だけ。あたしも食べる」
リリスが、慌てて俺の後を追う。掴むカツを一瞬迷ったようだが、結局は俺の取った隣のロースカツを選んだようだ。
リリスが揚げたてのカツを頬張り、そして固まった。
「どうだ美味いか?」
「すげぇ。うめぇ……」
ぽかんと、信じられないという風にリリスは目をぱちくりと開閉している。そこまで喜んで貰えると、こちらも奢る甲斐があるというものだ。
「これは豚肉を油で揚げた、とんかつというものだ。豚肉は食ったことあるって言ってたよな?」
「うそだろ。これが豚肉って。あたしが食べてきた豚肉は何だったんだよ」
リリスがそう言うのも仕方ない。ただ殺しただけの豚の死骸と、この崇高な料理を一緒にされてしまっては困る。おそらく、とんかつが豚肉を最も美味く食すことの出来る料理の一つであることは、疑いようがない。
「しかし、久しぶりに食うと美味いな。やっぱり、これを頼んで正解だった」
ふうと胸を撫で下ろす。確かに美味いが、ロースだけだと恐らくは途中でギブアップだ。美味いと思える分だけ食べる。これ以上の贅沢があるだろうか。
「この丸っこいほうが、ヒレ肉だ。さっき食べた奴よりも、あっさりしてるだろ」
「ほんとだ。……うーん、あたしはさっきの奴の方が好きかな」
ふふと、リリスの言葉に思わず笑ってしまう。俺も子供の頃はそうだった。親が有り難がっているヒレ肉の良さが、いまいちよく分からなかった。ロースのほうが美味いじゃないかと、がつがつと食っていたものだ。しかし、三十路一歩手前になって分かる。ヒレ肉は美味い。
「それにしても、やけにご老人が多いな」
平日だからだろうか、意外にも店内にはご年輩の夫婦と思われる方々で賑わっていた。そういえば、とんかつ屋って老夫婦をよく見かける気がする。
「ロース定食のお客様~」
そうこうしている内に、奥の方の席の老夫婦に店員が定食を運んできた。俺は少し驚いて、受け取ったお爺さんを見つめる。どう見ても、70はいっている顔つきだ。
「すごいな」
思わず、声が出てしまった。美味しそうにロースカツを食べ始めるお爺さんを見て、少し自分が情けなく思えてきてしまう。
あの人と同い年になったときに、自分はあんな表情でロースカツを食べられるだろうか?
そう考え、それが絶望的なことに軽くショックを受ける。仮にもまだ20代なのにロースの完食は厳しいとか言っている人間が、そんな老後を迎えられるはずがない。
「ううむ、天晴れだ。まあ、今あの年代の人は凄いよな」
「うまいうまい」
目の前でばくばくと食べ進めているリリスを見て、俺は自分も食うぞと気合いを入れた。とりあえず、全ての種類を制覇しないといけない。
「うん。思った通り、中にチーズが入ってる」
「うまいうまい」
かぶりついた鶏肉が弾け、中からとろりとしたチーズが口の中へと溶け落ちた。鶏肉のなめらかな舌触りをチーズの油分が後押しする。口の中で衣とチーズと肉が混ざり合い、なんとも言えないハーモニーを奏で始めた。
美味い。なんど思うか分からないが、美味い。それぞれにそれぞれの旨さが存在し、そのどれをも味わえる愉しみ。愉悦そのものだ。
「うーん、やはり中入れのチーズカツは最高だな。一番好きかもしれん」
そもそも、チキンカツを下に見ている人間が多すぎると俺は思う。確かに値段で言えばとんかつよりも一段安いが、それは味が劣っているということでは決してない。
ほどよく脂が乗り、豚肉よりもしつこくないチキンカツは野球で言うとアベレージヒッターだ。ヒレ肉では物足りなく、ロースでは重すぎる。そんな自分のような人間には、最もしっくりくるカツなのかもしれない。
そして、大事なのは中に入れられたチーズだ。衣をふやけさせるという愚行を犯すこともなく、チキンの欠点であるパンチの少なさを見事に補填している。牛肉でも豚肉でも、こうはいかない。まさに黄金タッグだ。
「ん? こりゃ鶏肉か。この内蔵うめぇな」
「そんな内蔵あるわけないだろう。チーズだチーズ。牛の乳を発酵させて加工したものだ」
むぐむぐとチキンカツを頬張るリリスに、俺は口調では説明しながらも内心くすりと笑ってしまった。チーズも知らない、人間ですらない存在と、こうして飯を囲んでいる。そして、同じものを同じように美味いと感じているのだ。
「食事ってのは、すごいもんだな。美味いもんが食えるってのは、幸せなことだ」
「とうぜんだろ。何言ってんだ? 人間だけじゃねぇぜ。世の中の大半の生き物は、美味いもん食うために頑張って生きてんだ」
何を今更と、リリスが再びロースに手を伸ばした。リリスの一番のお気に入りはやはりロースらしい。
俺は、リリスの言葉の意味を深く感じ取っていた。
「そう、だよな。……美味いもんが食えてりゃ、それで幸せだ」
何か腑に落ちないものを胸に抱きながら、俺は最後の品物、大ぶり海老フライに箸を伸ばす。持つだけで、ぷりんとした弾力が伝わってきた。それ程までに、重く大きい。
「おお、こいつぁ豪快だな」
その触感に俺の心は惑わされ、先ほどの違和感はどこかに消え去ってしまった。
「そりゃあ、エビか?」
「お、知ってんのか。よくわかったな」
俺の端の間に捕まる海老フライを見て、リリスがにやりと胸を張った。どうやら、以前供物で出されたことがあるらしい。
「思い返せば、あれはうまかったな。そんなに大きくはなかったけど、代わりに沢山あった」
「海鮮は生でも基本美味い。お前も、マグロの刺身食っただろ」
俺の言葉に、リリスがうんうんと頷く。
しかし、こいつに教えてやらねばなるまい。
「ふふ。お前からすれば、生でも美味いものを調理する必要はないと感じるかもしれんがな。まあ、食ってみろ。……あむっ」
大ぶりなため、口を大きく開けて海老フライをくわえる。衣を貫いた前歯が、熱さで本体に歯が届いたことを脳に伝えた。そして、それをそのままぶちんと噛みちぎる。
ぶるん
そんな擬音が聞こえてくるかのように、海老フライは口から箸へとその身の振動を伝えた。そして、じゅわりと口いっぱいに海老の風味が広がる。
これなんだよなぁと、そのエキスを楽しむように奥歯を使い細断していく。旨い。美味いというよりは、旨い。凝縮されている。来やがる。日本人のDNAに。
「……さて、またロースを」
ごくりと海老を飲み込んだ後、俺はご飯の茶碗を手に取った。米。やはり米を食べなければ。
どぷりとソースに浸けたカツを、口の中に持って行く。米のことを考えて、さっきよりもたっぷりと。ソースの甘酸っぱい味が、鼻を心地よく抜けていく。
「はふっ、はふっ。……んんぅ」
そして、米。混ざり合う。カツと米が。
「……はぁ。うん、うん。とんかつのときは麦飯もいいもんだな」
茶碗の中身は真っ白な銀シャリではない。仄かに色が付いた、麦飯だ。あまり気にしたことはなかったが、何故だかとんかつは麦飯の方が合う気がする。トンカツソースの味の濃さに、麦の風味が負けていない。
「ん、どうした。飯食わないのか?」
「あー、うん。ちょっと苦手なんだ。手がべたべたするだろ」
リリスが麦飯に手を付けていないのを見て、声をかける。リリスはちょんと米を触ると、うへぇとした顔をした。油ぎったカツは掴めるのにと思ったが、確かにデンプンの粘着な感触は素手では厳しいのかもしれない。すみませーんと、俺は店員に声をかけた。
「この子にスプーンを」
かしこまりましたと、店員が頭を下げる。いくらなんでもスプーンなら使えるだろうという俺の優しさを完全に無視して、リリスは夢中で俺の分のロースカツをつまみ上げていた。
「おいおい。それは俺のロースだぞ」
「えー。別にいいじゃんかよ。この丸いほうやるからよ」
ひょいと、リリスが自分の分のヒレカツをこちらに寄せてくる。うーむ。この取引、受けるべきか受けざるべきか。
「あーん。もーらい」
俺が考えている目の前で、有無を言わさず俺のロースはリリスの魔の手に渡ってしまった。何てことだとリリスを見つめるが、まあ悪い取引ではないかと己を慰める。元々、ロースは少しきついと思っていたのだ。アラサーにはヒレ肉がお似合いだろう。
「キャベツも食べろよ。このご時世、下手したら肉よりも高いんだからな」
「いらねー。あんたが食ってくれよ」
わいわいと、リリスと話しながらとんかつを食べる。思っていた以上に、どんどんと腹の中に入っていく。これなら、一人で食べても大丈夫だったかもしれない。
「この白いのなんだ?」
「ふふ、それはタルタルソースだ。……って、お前。海老フライ全部食っちまったのかっ?」
ぼりぼりと海老の尻尾を噛み砕いているリリスに、俺はしまったと額を叩いた。海老フライを、タルタルなしで食べてしまうとは。なんという痛恨のミスだ。これは取り返しが付かない。
「くっ、仕方ない。俺のミスでもある。俺の残りの海老フライをやろう。その白いやつを付けて食べてみるんだ」
「おー、あんがとな。こうか?」
ふぅ、これで俺はタルタル味の海老フライを食べ損なったことになる。全てを味わうためにこの山盛り定食を頼んだのに、なんたる事態だ。
やれやれだぜと、俺はリリスを見つめた。驚いたように顔を輝かせ、たっぷりとタルタルソースを海老フライに擦り付けている。
笑みがこぼれた。タルタル味の海老フライを食べれなかった悔しさや切なさは、不思議と全く襲ってこない。
たぶんそれは、一枚多く食べたヒレカツのおかげだ。