第19話 一つ前の駅で。カレー屋のインドカレー (後編)
「おお、これはっ」
目の前に置かれた物体に、俺は思わず笑みを浮かべる。
白く、柔らかそうな印象。しかし目の前から感じるインパクトは、俺の喉をごくりと鳴らさせた。
ナン。白く、それでいて所々がきつね色に焦げた、もっちりとした異国の無発酵食品。
だが、この大きさはどうだろう。大きい。まるでラクロスのラケットのようだ。いや、ラクロスをやったことはないが。ともあれ、バスケットからはみ出してしまっているじゃないか。
「焼きたてだな。熱いから気をつけろよ」
どれさっそくと、俺はその白い素肌に指を入れる。むちりと引きちぎると、その弾力から期待を裏切らない触感が指から伝わってきた。
あちあちと声が出てしまうが、俺は構うもんかとナンを口に運ぶ。
「……うん。もっちもちだ」
まずはそのまま。噛みしめると、小麦の豊かな風味が口の中に広がる。表面の僅かな油分が、舌触りを滑らかにしていて心地いい。
食パンとかよりも、更に強い弾力だ。だが、硬いというわけではない。もっちり。この食感は、日本人ならば好きだろう。
「うまいなこのパン。なんて名前なんだ?」
「ナンだ」
対面でナンを頬張っているリリスが、嬉しそうに訪ねてきた。それに俺は、即答する。俺の声に、あれっとリリスがこちらに顔を向けた。
「……これ、何て名前なんだ?」
「だからナンだよ」
更に、眉の間を寄せるリリス。勿論、俺はわざとだ。一回やってみたかった。リリスは怪訝そうな顔をしながら、もういいやとカレーの皿へと目を下ろした。
「これ付けて食べればいいのか?」
「そうだ。これを千切って、すくって食え」
俺はリリスに手本を示すように、オレンジ色のカレーにナンを浸す。とぷりという音が聞こえてきそうなその海老カレーは、ナンを持ち上げればふわりとその匂いを俺の鼻へと届けてきた。
「さて、お味は……」
ぱくりと、俺はルーの付いたナンを口に運ぶ。途中、ルーを欲張りすぎたのか一滴テーブルの上に垂らしてしまった。
後で拭かなければと思いながら、俺はもぐもぐとカレーの味を舌で感じる。
海老だ。見える。豊かなスパイスの向こうに、慣れ親しんだ食材の味が。
美味いと、俺はごくりとカレーごとナンを飲み込む。
「ーーッ!?」
途端、猛烈な刺激が俺の口と喉に襲いかかった。何事かと口を閉じるが、その焼けるような熱さは更に俺の汗腺も刺激してくる。
辛い。脳が理解するときには、俺の額は汗でだらだらだった。
「か、辛っ。か、辛すぎないかこれはっ?」
コップの水を飲み込んで、目の前のリリスを見やる。大丈夫だろうかと心配したが、リリスは美味しそうにポークカレーをぱくついていた。
「ん? そうか? あたしは別に大丈夫だけど……」
「ちょっと貸せ」
その涼しげな顔に、俺はナンを引きちぎる。リリスのポークカレーに付け、それを口に運んだ。俺のだけ、辛さを間違えられている可能性がある。もぐもぐと、ポークカレーを賞味する。
口に入れた瞬間、少し甘いルーの味。肉の旨味と、そして、辛さ。
「……辛い」
心の中で、もう一度唱える。辛い。尋常じゃない辛さだ。
リリスのもそうだということは、辛さはこれで合っているのだろう。訳が分からない。これが本当に辛さ1なのだろうか。5の間違いじゃないか。
だらだらとした汗が、ぽたりと垂れる。やばい。これはちょっと食べれそうにない。
「うまいうまい」
そんな俺を不思議そうに眺めながら、リリスはぱくぱくとナンとカレーを食べ続ける。こいつめ、人の気も知らないで。
悪魔だからだろうか。リリスは辛さには強いようで、たっぷりとルーを付けてご満悦だ。
なんだか負けた気がして、俺はもう一度ナンをむしりと引きちぎった。しかし、それを付けようとした手が動きを止める。
な、なんでこんなことに。腹が減っていただけなのに。
店員に頼んで、辛さゼロを追加するという手もある。海老カレーはリリスにやって、二つとも食べて貰えば失礼でもないだろう。
しかしだ、それは男としてどうなのか。
悪魔だとはいえ、リリスは女。タイでは辛いものが苦手な男はモテないという。ここは、我慢してでも食べきるのが男ってものでは……。
「スーマセンッ! カラカタデスカーッ?」
どうするとルーを睨みつけていた俺に、元気によい声がかけられた。見ると、店員が心配そうに俺を覗き込んでいる。
「ワタシカレー、ニホンカタハカライネーッ!」
そう言いながら、店員は何かを俺に差し出した。
何だろうと見ると、それは生クリームの紙パック。店員は俺のルーにそれを注ぐと、使っていいですよと皿の傍らにそれを置いた。きょとんとしながらも、俺はどうもと頭を下げる。
促されるようにクリームをナンでかき混ぜ、俺は生クリームの混ざったルーを口に入れた。
「……んっ!? いけるぞっ」
先程以上にコクを増したカレーの風味が、口一杯に広がる。そして何より、辛さが緩和されている。まだ十分辛いが、食べられないほどではない。
俺の顔が輝いたのを見て、店員がにっこりと笑う。なるほど、乳製品を混ぜると辛さが中和されるのか。
俺は、メニューの中にあった飲み物を思い出して、店員へと口を開いた。
「ありがとうございます。あ、ラッシーを二つ。追加でお願いします」
「ハイーッ! ラッシーフタツネーッ!」
追加オーダーを受けた店員が、にこにこと厨房へと戻っていく。その背中と目の前の生クリームのパックを見比べて、俺はくすりと笑みをこぼした。
はっきりいって、生クリームは安くない。俺は店員の気遣いに、もう一度心の中で礼を言う。
「なんだそれ?」
「ミルクみたいなもんだ。辛さが押さえられる」
俺の表情に、リリスがふーんと呟いた。辛さが大丈夫だから、あまり興味がないようだ。
それにしても助かったと、俺はカレーを食べ進める。
「うん。いけるいける。大丈夫だ」
生クリームのおかげで、ようやく食事が本調子だ。
驚くことに、先程感じられなかった味がよく分かる。辛さに隠れていたのか、海老だけではない、様々な味が舌を楽しませてくれていた。
きっとタイの人やインドの人なんかは、辛さの中の旨味を探すのが得意なのだろう。慣れもあるのだろうが、辛いだけに感じる俺たちには、少しだけ未知の世界だ。
しかしこうして改めて食べてみると、ナンとカレーの何と合うことか。華麗なコンビネーションだと、俺は一人ふふふと笑う。
冗談はさておき、本当に美味い。もう少し辛くなかったら更に嬉しいが、あまり生クリームを使うのも気が引ける。それに、驚くべきことにだんだんと辛さを楽しみだしている俺がいた。
ナンのもっちりとした食感に、カレーが本当に合う。カレーにはライスだろと思うが、やはり日本のカレーとは別物だ。こちらのカレーは、やはりナンで食べるためのものなのだろうか。相性が良すぎると、俺は驚いた。
気が付けば、店員がラッシーを持ってくる頃には俺のナンは殆ど無くなってしまっていた。それを見た店員が、お代わりを聞いてくる。リリスも手を挙げて、俺もお願いすることにした。
「まさか、お代わり無料とはな。……おっ、チーズナンもいける」
もぐもぐと、チーズナンを頬張っていく。ふんわりとしたナンの中に、それ以上に弾力を感じるチーズ。引き離せばチーズが伸び、その相性は勿論ルーと抜群だ。
「ラッシー美味いな。これがあれば、ぎりぎり生クリームなしでもいけそうだ」
俺の目の前には、すでに紙パックは存在しない。お礼と一緒に、持って帰って貰った。その代わり、俺は頻繁にヨーグルトドリンクを口に招き入れる。
そのおかげか、俺は何とかリリスのポークカレーを生クリームなしで食べ進めていた。汗はだくだく、テーブルにちょっとした水たまりが出来ているが仕方ない。俺はナプキンでそれを拭きながら、ふーふーとポークカレーを食べ続ける。
しかしだ。これは正解だった。やはり、辛い方が美味い。
慣れたわけではないだろうが、ラッシーの後のカレーが妙に心地いい。これはいいことを知ったぞと、俺はナンでルーを次々にすくっていく。
「たまには辛いもんもいいもんだな」
「そうだなー」
汗だくでカレーと格闘する俺を、リリスはずずずずとラッシーをストローで吸いながら見つめている。そして、おかしそうにあははと笑った。
「あんた、地獄の人間みたいだな。そんなに汗かいたら、死んじまうぞ」
けたけたと笑うリリスに、俺はふぅと顔を上げる。確かに、こんなに汗をかいたのは数年ぶりだ。スーツを脱いで、首もとも気になるのでタイも外した。
何か、すっきりしている。身体の悪いものも一緒に出たのかなと、俺はシャツの汗をじぃと見つめた。
「カレーなくなったぞ」
「追加するか。……ところで、このタンドリーチキンなんかが気になってるわけだが」
まだ食い足りないと笑うリリスに、俺もふむとメニューを手に取る。
よくよく見れば、カレーとナン以外にもサイドメニューも豊富だ。チキンの焼き物だけで数種類ある。
「この緑色の、サグカレーっての食べてみよう」
「えー。あたしはチキンがいいー」
リリスの反論に、そんなもん二つとも頼めばいいと論破した。リリスも、確かにと頷く。
こうなっては、ラッシーももう二杯ほど頼んでおいたほうがいいだろう。
店員が、手を挙げた俺に近づいてくる。追加注文に少し驚きながらも、嬉しそうにオーダーの紙を手に取った。
「……後、サグカレーとチキンカレー。どっちとも、辛さ1で」
不思議そうに首を傾げたのは、言うまでもない。




