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第18話 一つ前の駅で。カレー屋のインドカレー (前編)

 てくてくと、歩く。

 坂道だ。俺は、先ほどから鳴りまくっている腹を押さえて坂道を上っていた。


「うーむ。引き返すべきか」


 いつもより一駅前。気まぐれに降りて冒険しようと思ったが、まさか坂になっているとは。時刻は紛れもなく夕食時で、ということは俺の腹が鳴るのも仕方ないといえる。


 何件か、飯屋は見つけた。しかし、この腹の空き具合。まだ僅かに余裕はある。足は動く。限界まで、妥協したくはない。

 こういう場合、大抵は「もう、さっきの店にしようやぁ」となるのだが。生憎、自分は一人で進軍中だ。自己責任の元、せっせと坂を上り続ける。


「むっ」


 赤い信号に足を止めたとき、俺の鼻腔に魅惑的な香りが漂ってきた。僅かだ。近くではないと、俺はきょろりと辺りを見渡す。


「あそこかぁ」


 視線の先、風上の向こう側に黄色と赤の彩色の店構えが目に留まる。俺は、くんくんと鼻を鳴らしてその店に近づいていった。


 歩くこと三十メートル。すでに店を目の前にして、俺の腹はいよいよ限界に達していた。ここ、ここが限界だ。

 豊かなスパイスの香り。匂いだけで、じんわりと口の中に唾が広がり、頭皮の毛穴が俄に開く。


 目の前には、ラップにかけられたディナーの見本。

 小さいが深めの皿に入れられた、黄色みを帯びた液体。そのとろみが、見た目からも伝わってくる。そして、その前に陳列されている白い物体。


「……カレーか。うん、腹が減ってきたぞ」


 あの状態の俺の腹をさらに空かせてくるとは、このカレー屋、ただ者ではない。

 しかしながら、俺はちらりと店内を覗き込む。


 お世辞にも明るいとは言えない店内。勿論、テレビを見ている店員らしき二人組は外国人だ。上を見れば、インドカレーの文字。インド人だろうか。ネパールの人も多いと聞くが、俺には判断がつかない。


「うーん。入りにくいな」


 少しだけ、臆病な顔が顔を見せる。ショッピングモール等に入っているインドカレー屋には何度か入ったことがあるが、こういう完全に個人の店は初めてだ。

 日本語、更には英語も通じなければお手上げだぞと、俺は店内をじぃと見つめる。他に客が居ないというのも、俺の疑心暗鬼に拍車をかけていく。


「しかし、美味そうだな」


 ぐぅ。腹は鳴る。まぁ、言葉が通じるとも何とかなるだろう。ジェスチャーで乗り切ろうと、俺は店の扉に手をかけた。


「ア、イラサイマセーッ!!」


 からんからんと鳴る扉のベルに、テレビを見ていた店員が嬉しそうに振り向く。慌てたように立ち上がり、一瞬だけ名残惜しそうにテレビの方を見つめた。


「フタリサマデスネーッ。コチラドゾーッ」


 やけにハキハキとした片言の店員が、俺を店の奥の四人掛けのテーブルへ案内する。その店員の言葉に、俺は「ん?」と後ろへ振り向いた。


「よっ」

「……お前、出てくるなら出てくるで声くらいかけろ」


 当然のように片腕を上げて挨拶してくるゴスロリ悪魔に、俺はじとりと視線を落とす。そんな俺の視線を無視して、リリスはテーブルの方へ俺の横を通り過ぎた。

 俺はやれやれとそれを見送り、ゆっくりとテーブルの方へと一歩踏み出すのだった。





 ーー ーー ーー





「……悩むな」


 真剣な表情でメニューを見つめる俺を、リリスがぽけっと眺めてくる。そのアホ面に、俺はふぅと顔を上げた。


「今日の夜はこれだけなんだろ? じゃあそれでいいじゃん」


 本日のディナーセット。その文字を指さしながら、リリスが不思議そうに首を傾ける。そんなリリスに、俺は愚かなと嘲笑を送った。


「セットは一つだがな。組み合わせがあるのだよ。……チキンにすべきか、ポークにすべきか。グリーンカレーも捨てがたい」


 セットのカレーは自由に選べる。他にも、海老カレーなんか美味そうだ。リリスと分けるにしても二種類。慎重に選ばないといけない。


「グリーンカレーって?」

「ん? まぁ、野菜カレーってことだろ。ほうれん草とか」


 リリスの質問に、俺はそうだなぁと返答する。その返しに、リリスはうげぇと顔をしかめた。


「何で肉とか海老とかあるのに、わざわざ野菜なんて頼まなきゃいけないんだよ。頼むやついるのか?」

「いや、まぁ好きな奴はいるだろ」


 信じられねぇと目を開くリリスに、しかし俺も確かにと頷いた。野菜カレーを頼む人を否定はしないが、迷っているのならわざわざ選ぶ必要もない。とりあえず選択肢から外そうと、俺はグリーンの文字を頭から消す。


「とくれば、チキンとポークで肉と肉ってのも味気ないか。ここは海老は確定だな。……お前、鶏と豚どっちがいい?」

「豚」


 即答するリリスに、俺はおおと驚いた。当然だと見つめてくるリリスに、豚好きだなぁと俺は口を開く。


「そりゃあね。生だったけど、それでも豚はご馳走の代表じゃん。人間だって、祭りの時は豚焼くだろ?」


 こーんな風にさと、リリスは足を縛られた豚のジェスチャーを俺に見せる。何時の話だと俺は思いながらも、その話に俺の心は豚に動いた。


「じゃあ、ポークと海老にしよう。……ん?」


 オーダーを頼もうと右手を挙げた瞬間、俺の目にナンの項目が飛び込んでくる。そこには、プラス二百円でチーズナンと書かれていた。


「チーズナンか。食ったことないな。一つはこれにするか」


 俺の言葉に、リリスは任せるよと椅子に背を預ける。それに頷いて、俺は近づいてきた店員に顔を向けた。


「ポークと海老のセットね。あと、一つはチーズナンにして貰えるかな?」

「カシマリマシターッ。ポークトエビデスネーッ」


 通じるかと心配だったが、その心配は杞憂だったようだ。よくよく見てみれば、テレビに映っている番組は日本のバラェティーなのだから当然か。


「カラサハ、ドナサイマスカーッ?」

「辛さ?」


 注文を無事終えてほっとしている俺に、店員が言葉を足してくる。はてと席の横を見やった俺に、辛さについてのチラシが目に留まった。

 唐辛子のマークが、六つ。六段階ということだろうか。点線のマークがあるのを見るに、ゼロも出来るらしい。


「んー。あんまり辛いのもなぁ。……1にしてくれるかな?」

「イチデスネーッ。カシマリマシターッ」


 ゼロというのも芸がない。かといって二以上は怖いので、俺は1を頼んでみることにした。これで全然辛くなかったとしても、別に何の問題もない。


「そういえばさ、カレーってなんだ?」


 俺がふぅと一息ついていると、店員を見送ったリリスがそうだと話を振ってくる。俺はそんなリリスの疑問に、ふむと腕を組んだ。


「カレーかぁ。説明するのは難しいな。……スパイスを、沢山入れて作った……スープ? シチュー? みたいな」

「ふーん」


 言われてみれば、詳しい作り方は俺も知らない。俗に言う、日本のカレーライスとも違うのだろうか。あれについても、レトルトのルーなしでの作り方は知らないなと俺は厨房に目を送る。


「しかし、いい匂いだ。ここら辺は、日本のカレーと同じだな」


 ぷぅんと、厨房から香しい匂いが漂ってくる。日本のカレーライスよりも、ややスパイシーな匂いだ。確かに、店の雰囲気に合っていると俺は店内を見渡した。

 象の置物に、色とりどりのタペストリー。ポスターは、インド映画だろうか。素なのか演出なのかは判断尽きかねるが、カレーへの期待感を高めるにはぴったりの空間だ。


「カレーか。好きだったなぁ」


 こんな空間に居て何だが、俺はやはりカレーと言えばカレーライスだ。あの、母さんの作るカレー。俺くらいの日本人は、各家のカレーの味があるのではないだろうか。

 使うカレールーの種類や、入れる具。ジャガイモの大きさまで、厳密に家庭毎に決まっていた気がする。学校で、一度は自分の家のカレーのオリジナルな部分に驚くのだ。うちはウィンナーを具にする家だったが、他の家は入れないと聞いて驚いた。美味いのに。


 ふと高校時代の彼女は、カレーに納豆を入れていたなぁと思い出す。……未だに、試したことはない。今も彼女は、カレーに納豆を入れているのだろうか。結婚したと聞いたが、もしかしたら姑さんと納豆カレーのことで喧嘩なんてしているかもしれない。


「カレーはインドで出来たそうだ」

「インド? ああ、ガネーシャの野郎のとこか。あたし、あいつに殴られたことあるから苦手なんだよ」


 神様ってのは、短気でいけねぇとリリスは両腕を上げる。ふと呟いた言葉だが、俺には分かる。絶対にこいつが悪い。

 象頭の神様に内心謝りながら、俺はリリスの言葉にまてよと突っかかりを感じた。


「……お前、インドに行ったことあるのか?」

「そりゃあ、あるよ。世界中何処にだって、あたしたちは居るぜ」


 俺の疑問に、リリスはあっけらかんと答える。その言葉に、俺は思わず後ろを振り向いた。その反応に、リリスがけたけたと笑う。


「はは。そんな普通には居やしないよ。……そうだなぁ、行きにくい場所も確かにあるぜ。インドもそうだけど、神の連中がうるさいところには行きにくいね」

「ああ、なるほど」


 先ほど殴られたと言っていたが、確かにそんな気はする。宗教の関係は、確かにリリス達には大事な要素だ。


「その点、日本はいい国だよ。とりあえず、入っただけで怒られることはないし」

「へぇ」


 飯も美味いしなと笑うリリスに、俺は頷く。しかし褒められるのは嬉しくもあるが、大丈夫なのだろうか? 日本人としては、きちんとした対応を神様にはお願いしたいところだ。


「オマタヲデシターッ!」


 ぼへっとリリスの話を聞いている俺に、ハキハキとした片言が聞こえてくる。その途端、ぐぅと腹の音が鳴った。


 神も悪魔も興味深いが、そんなものは腹が満たされてから考えればいい。俺は、おもむろに濡れ布巾で手を拭いた。


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